「恋愛小説が書きたい!」後編1
すみません。「小犬を連れた貴婦人」に夢中になりすぎました。
さて。
『小犬を連れた貴婦人』について説明しようと思う。
長く言おうが短く言おうが、これは不倫話である。世の奥様方がかかわり合いのない他人の話であるならば「他人の不幸は蜜の味」とばかりに聞き耳を立てるが、身内の話となれば柳眉を逆立てて夜叉と化す、あれである。
まっ。冗談はさておき。これがただの不倫話ならチェーホフも書きはしない。ただの不倫話が立派な「恋愛小説」に転化するところがミソなのである。
まずは名手の妙技を御覧じろ。
お話は、モスクワからヤルタ(クリミヤ半島にある黒海に面した保養地)に遊びに来ていたグーロフという銀行家が白いスピッツを連れて海岸通りを散策する若い官吏の奥さんと知り合うことから始まる(第一幕)。
チェーホフが作品を発表したのが1899年12月というから、この不倫話は最後の皇帝ニコライ2世(在位1894年―1917年)が即位して間もない頃ということになる。
その頃のロシアはまだ憲法も議会もない。皇帝専制の時代である。
経済的には1890年代に重工業部門でようやく産業革命を成し遂げ、ぽつぽつ工業資本家たちが現れはじめたという有様であり、イギリスやフランスにくらべてかなり遅れた国とみられていた。実際、ロシアはずっと後れた農業国のままであって、人口の大多数を貧しい農民で占めた(発展を阻害する最大の要因が古い農村共同体が根強く残っており市場経済を導入することができないことにあるのは分かっていたのだが、改革しようとすると大土地所有者の貴族たちの反発をまねき挫折するということを繰り返した。19世紀初頭のことではなく20世紀に入ってもまだ貴族の反対で改革ができないのがロシアという国であった)。
そんな中、ヤルタのような高級リゾート地に遊びに来られるのはごくごく限られた上流階級の人間だけだということが分かる。
実際、主人公のグーロフは裕福な銀行家であり、およそ人が望むもの、瀟洒な家だとか釣り合いの取れる身分の奥さんだとか可愛らしい娘と二人の中学生の息子たちだとかというものをすべて持っている人物である。しかも、腹立たしいことに40前の中年男だというのにかなりの艶福家として描かれている。要するにモテ男であって、世間一般から見て何不自由のない男なのである。だが、彼は自身の奥さんが「低俗な人種」と軽蔑する女性たちと2日と置かずに遊ばずにおられない。退屈しきっていて生活に物足りなさを感じているのである。
そんな彼の前を若くて「小柄で薄色髪ブロンドの」ベレー帽を被って小犬を連れた人妻が通り過ぎていくのである。彼としては「ひとつ、ものにしてやろう」と食指を動かさざるを得ない。そして、知り合ってみると、女はついこの間まで女学生をしていたように人なれておらず、「何かこういじらしい」。
このように彼は彼女に惹かれていく……。
この文章を読んでくださっている方の中には、同伴者も連れずに海岸通りをそぞろ歩きしている彼女について「ふしだらな。隙だらけで男を誘っているとみられても仕方がない」と思われた人がいるかもしれない。
たしかに身持ちの固い信心深いご婦人方はまずしない行動ではある。
しかし、この時代、社交といえばまずこういうものである。
当時のパリなどはもっと酷い。日曜日には高い身分の御婦人方も夜の名高い高級娼婦たちもこぞって最新流行の衣装で身を固めてロン・シャンの競馬場か冬ならスケート場へ顔見世に出かけたものである。彼女たちは着飾った自分たちを見せびらかして虚栄心を満足させるとともに、サロンの一員に加えるためだとか商売のご贔屓先を得るためだとかの目的で男性を誘惑しに来ているのである(ココ・シャネルも帽子を売り込むために最初はこんなことをしていた)。それに比べたら、することのない保養地で海岸通りをひとり歩きするくらいはさほど目くじらを立てて咎められることでもなかった。むしろそうして異性と知り合いになり会話を楽しむことはごく普通の社交とみられていた。なぜなら、金持ち同士であり、不都合なことは起こりえないからである。
第二幕。
知り合ってからふたりは何処へ行くのも一緒に行動するようになる。
そして、一週間たったある日、グーロフは行動を起こす。
会話が止んだ瞬間、彼女を「いきなり抱きしめて唇に接吻した」。そして、小声で彼女の部屋へ行こうと囁く……。
こうしてグーロフはいつものように女をものにする。
ここまでは彼の日常生活の延長である。(ことが終わってから)現に彼はいままでいろんな女がいたなあという追憶までしはじめる始末。
一方、彼女の方は沈み込み、涙を溜めて懺悔をしたり言い訳をはじめたりし出す。
彼女の懺悔沙汰に苛立ち、聞いておられなくなったグーロフは言う。
「だからつまりどうしろっていうんだ」
世の女性たちからすると、非難轟々のシーンであると思う。
でも、これは世慣れた男性でもしてしまう行動パターンであり、こういう経験をお持ちの方も多数いるはずだ。
このとき、男性には女性の心情がまるで理解できていない。相手のことを会話のできない状態異常と認識しており、内心苛立ち、女性に対して「早く元に戻ってくれ!」と叫んでいる。「君も楽しんだろ。だったら、それでいいじゃないか」と男性は断定的にそう思い、相手の女性は「わたしは肉体の楽しみのために体を許したのではないわ。そうじゃなくて……」と自分でもよくわからない何かを納得してそれを男に伝えたくてもどかしがっている。相互の間がまったく断絶した状態である。
僕が観た映画では、このシーンをグーロフがベットで涙に暮れる彼女を尻目にクリミア特産のメロン(小説では西瓜)をナイフでひときれ切りとりながら「まあ、そんなに深刻にならずに」というセリフを冷めた表情で言うことでまとめていた。
もっとも、チェーホフはそんな陳腐なパターンを表現するためだけにこのシーンを描いているのではない。
アンナはうわ言のように言う。「生きて生きて生き抜きたかったの……」「信じて、わたしを信じて。後生ですから……」
他方、グーロフの方も「たくさん、もうたくさん……」と呟きつつも、アンナのことをいままでの女たちとは違った存在(「その身からは、しつけのいい純真な世慣れない女性の清らかさが息吹いていた」)として認めており、より彼女に惹きつけられている。
そして、表面上とは裏腹にふたりの関係は無理解のまま断絶することはなく、この日を境にしてより一層互が惹きつけられていく。
だが、まだ真の「恋愛」関係にまでは至らない。
アンナはいつこの逢瀬が終わってしまうのかと気が気でなく常に興奮状態であり、グーロフの方は初々しく痛々しいアンナを強く抱きしめて接吻を繰り返すばかりで自分のことしか考えていない。
そこへアンナの夫から「早く戻ってきて欲しい」との知らせが届く。
アンナは「これも運命なのよね」と思い切り、二度とグーロフに会うまいと夫のもとへ帰ることにする。関係が終わるのをビクビクしながら待つことに耐え切れなかったのだ。
汽車で帰るアンナを見送り、ひとりポツネンとプラットホームに残るグーロフは、中年男が一人の若い女を上手くものにしたという浅ましい満足感と「女をしあわせにしてやれなかった」という反省とが心の中で渦巻く。
「おれもそろそろ北へ帰っていい頃だ」
グーロフもモスクワに帰ることを暗示して第二幕は終わる。
第三幕。
モスクワへ帰ったグーロフは一ヶ月経って真冬が来てもアンナのことが忘れられない。夜も眠れなくなった。
子供たちにも飽き飽きだし、銀行にもうんざりだし、どこにも行きたくはないし、誰とも話したくない!
イライラしているグーロフに向かって眉毛の濃い奥さんは何かを察して言う。
「ジミートリ(ドミートリが訛って)。あんたは二枚目の柄じゃなくってよ」
辛抱できなくなったグーロフはついにアンナの住むS市にまで来てしまう。アンナの住む家を訪問できないグーロフは地方官吏の妻ならきっと芝居の初日に劇場へやってくるとあたりを付けて待ち伏せをする。
劇場で出会ったふたりは熱病に浮かされたようにグルグルと歩き回り、挙句に人影のない踊り場でアンナが囁く。
「わたしがモスクワへ行きます。でも、今日はお別れにしましょう!ね」
アンナも心のどこかでグーロフに再び会うことを望んでいたのだ。そして、会ったが最後、もう別れることなんてできなくなることも承知していた……(第三幕終了)。
第四幕。
こうしてアンナはふた月か三月に一度、S市からモスクワへ口実を作って出てくるようになり、当時の一流ホテル「スラヴャンスキー・バザール」に宿を取り赤帽を走らせてグーロフと逢引を重ねるようになる。
つまり、彼らは彼らにとって虚偽である表にできる生活と(彼らの主観では)真実である、生きていく上で欠かせない内密の生活という二重の生活をドギマギしながら送ることになった。
ここでアンナは哀しむ。ふたりにとって真実の生活の方が「まるで盗人のように人目を忍んでいるではないか!」。
ホテルの一室でアンナを慰めようとしたグーロフはふと鏡に映った自分の姿を見て自分が年を食ってしまったことを知る。そして、思う。
「なんだって、俺のような男を愛してくれるのだろう?」
彼は自分の過去を振り返り、通り過ぎていった女たちが実は彼の正体というものを見ずに自分達の想像で作り上げた男の幻を彼に投影していたのだということにも気付き、彼と結ばれて幸福だった女は一人としていなかったのだと虚しくなる。そして、現在、生まれて初めての恋をしたのだと実感する。
「ほかのものなら何から何まで揃っていたけれど、ただ恋だけはなかった」。 だが、今は違う。
彼はアンナに提案する。どんなリスクを背負ってでも二重の生活を解消して彼らにとって真実である生活を表にできるようにしようと。
映画のラストでは、二人が寄り添う窓の下、冬の冷たい夜明けに貧しげな楽士がバイオリンの悲しげな音色を響かせる。それが彼らの多難な門出に対する祝福とも応援とも同情とも憐れみとも聞こえてくる。
どうでしたか?チェーホフの妙技は。
僕が男の側から書いた「恋愛小説」として押した理由がわかっていただけただろうか。
長々と小説をそのままなぞるような解説を書いてしまったが、実際の小説はもっと短く、そして鋭く計算されている(まだ読んでおられない方がいらっしゃったら是非Web上の青空文庫「犬を連れた奥さん」などを読んで実感して欲しい。きっとなにかの参考になると思う)。
恋愛小説の起承転結もちゃんと踏んでいる。そのための4幕仕立てともいえる。
(起)男が保養地で若い女と出会う。(承)ふたりは親密になるが、平穏な日常を破る冒険に踏み出すこともできず、心を残しながらも別れて各々の日常に戻っていく。(転)男は自分の人生に何が足りていなかったかをうっすらと気づきはじめて日常に戻りきれない。女を追いかけて女の住むS市まで出かけてしまう。踏み出した男を見て女も踏み出す決意をする。(結)しかし、女は二重の生活に苛立ちを覚え哀しくなる。男は鏡に映る年の食った自分の姿を見て、(過去を振り返り)虚しくなるとともに生まれて初めての恋をしたのだと実感する。これからの人生において互を欠かすことができなくなったふたりにはもう選択肢はなく、人目を忍ぶ生活からなんとか抜け出ることを模索し始めるしかない。どんな困難が横たわろうとも、彼らはもう立ち止まらない。
こういうふうに効果的にプロットを立てられると、不倫はいけませんと一般論を言う方々も、チェーホフの「小犬を連れた貴婦人」に関しては例外的にあれは「恋愛」だから許そう。あり。あり。という気持ちになってしまいそうにはならないだろうか。
相手のことを人生の無聊を一時的に慰める道具としか見ない情事はただの不倫であって、「恋愛」ではない。しかし、お互いを人生の欠かすことのできないパートナーと認め合い、愛し合っているならば、彼に定まった妻がいようとも彼女に定まった夫がいようともそれはなにかの間違いであって、彼らこそ運命に予定されているふたりなのだ。だから、断じて不倫ではなく真の「恋愛」なのだ、という様に。
まっ。騙されてくれないだろう。
きっと、真面目そうな女性が手を挙げて質問し出すだろう。僕にはわかっている。
「彼や彼女の側はそうは思っていないとしても、彼に定まった妻や彼女に定まった夫の側は自分たちこそ真の妻であり夫であると思っているかもしれませんよね?その場合、勝手な行動をした彼や彼女の側が一方的に不倫ではなく真の『恋愛』だと思い込んでいるからといって、定まった妻や夫を悪者として切り捨てていいんですか?なにも悪いことをしていないのに。
そもそも不倫は『恋愛』ではないから許されないのではなく、社会のタブーを犯すから許されないのでしょう?不倫はどこまで行っても不倫であって、社会のタブーを犯している以上、認められるわけないじゃないですか。
それに親の身勝手さでこどもは不幸になっても構わないとおっしゃられるんですか?
え?どうなんですか?はっきりしてください!」
う、うえーん。
たぶん、僕は泣きを入れることしかできないだろう。
そして、彼女はこうまとめるであろう。
「いくら起承転結を踏んでいようが、社会的に許されない不倫を絡ませたお話などは『恋愛』小説には向きません。暗すぎます。ハッピー・エンドこそが王道なのです。正常な結婚をゴールとしたようなお話こそが『恋愛』小説と言えるのです!」
かくてチェーホフの名作「小犬を連れた貴婦人」をもってすら男の側から描いた「恋愛小説」という提案は拒否されてしまう。
し、しかし、それでいいのか。
このままだと、Web上の「恋愛小説」はいつまでたっても若い女の子の専売特許であり、男の新規参入は認められなくなってしまう。
カルテル反対!独占禁止賛成!
僕は反撃のため王道の「恋愛小説」の粗を探す決意をする。
だが、愚かな僕は「小犬を連れた貴婦人」のあまりの名作ぶりに気を取られすぎて、もう書く余力がなくなってしまった。
今日は、ここまで。
次回は無謀にも王道の「恋愛小説」、ジェーン・オースティンの「自負と偏見」を考察してみようと思う。
締まりのない長々とした駄文をここまで読んでくださった方々には申し訳ない気持ちでいっぱいです。
以後気をつけます。お許し下さい。