「恋愛小説」が書きたい!前編
「恋愛小説」を書きたい!前編
最近、無性に「恋愛小説」を書いてみたいという妄想がしきりに沸く。
僕は男であり、女性の心理というものが今ひとつ分からない。だから、女性の心理という謎に挑戦してみたいのだ!
しかし。
(いろいろ考えてみると)……障害があまりにも多い。やはり妄想に終わりそうな気もしてくる。
まず言えることは、Web小説での「恋愛」の領域はそもそも若い女の子のものなのだ。そうそう年の食ったオジサンが参戦できる場所ではない。シルバニアファミリーの人形でおままごとをしている女の子のもとへ中年男がゴルフクラブを振り回しに行くようなものだ。絵にならない。この時点で退却したくなる。
だが、諦めずにもう少し考察してみる。すべては女性の心理という謎に迫るためだ。多少の恥ずかしさは乗り越えていかなければなるまい。
Web上の「恋愛」小説に描かれているもの。
それは、ボーイ・ミーツ・ガール。ガール・ミーツ・ボーイ。ガール・ミーツ・ガール。ボーイ・ミーツ・ボーイ(最後のなどは、そういう性癖が無いので頭を抱えて逃げ出したくなるが)。
そして、大抵の小説の展開がそこで終わっている。つまり、美少女(もしくは自身自覚していない美女とか)が高貴な身分でお金持ちの美少年や美青年や時たま渋いおじ様に出会い、婚約したり結婚したり同居したりという人生の中間イベントを迎えるところで話が終わるのだ。
俗にハッピー・エンドともいう。
別に文句はない。
若人らしく将来の幸福の期待に胸をふくらませキラキラと人生で最も輝いている時期である。その後の倦怠期や夫婦間の諍いや生活上の苦労話など書く必要などどこにもない。あるとすれば、第一子の誕生くらいなものだろう。
プロットの立て方も実にシンプルで効果的である。
「赤毛のアン」(「赤毛のアン」自体は恋愛小説ではないが)で例えてみると、(起)ギルバートがアンの気を引こうと髪の毛を引っ張って「にんじん。にんじん」とはやし立てる。大好きな空想を破られたうえ最も嫌いな言葉を聞かされたアンは激怒し石版でギルバートの頭を殴りつける。(承)その後、ふたりの間で衝突と対抗心むき出しの競争が繰り返される。(転)マリラおばさんの昔の恋愛について聞かされたアンはこのままギルバート(実はこころが惹かれている)と一生仲直りできないのではないかという不安にかられ、自身の恋心に気づく。(結)お互いに自分の気持ちを伝え、やがて愛し合うようになり、ふたりは結婚する。
うーん。素晴らしい。
だが、オジサンから見ると、今ひとつ物足りない。
たしかに、ヒロインの相方が渋いおじ様であるならば話をある程度納得できる。
長年、愛情に飢え不毛な生活を送ってきた中年男がようやく愛情を注ぐ対象を見つけたのだ。応援したい気がしてくる。
しかし、ヒロインの相方が青年である場合には手放しでいられない。
「おい。おまえが抱いた野心や実現したい理想はどこへ行ったのだ。愛ある生活も人生で大事なことだろうが、まだおまえは若いんだ。やりたいこともやれよ。でないと、悔いが残るぜ」と幾分嫉妬混じりに激励したくなる。青年にそれほど野心がない場合は仕方がない。じゃあ、お幸せにとオジサンはページを繰るのを止め本を閉じる。ヒロインは魅力的でも相方の青年に魅力が感じられず、オジサンは面白くないのだ。
上記のような特徴を持つものが、(極まれな非常に面白い例外を除いて)僕がWeb上で読んだ「恋愛」小説だった。
では、これ以外の筋の「恋愛」小説はWeb上で書いてはいけないのだろうか?書くことはタブーに挑戦することになるのだろうか?男はやはりWeb上では「チーレム」ものしか書いてはいけないのだろうか?(ちなみに、僕個人の趣向には合わないが、「チーレム」そのものを軽蔑しているわけではない。「チーレム」をはじめて書いた人はたしかに「創作」したのであって尊敬に値する。ただし、受けるからといってそれを分析しマニュアル化して量産している人たちについては、「創作」活動をしているのではなく、工場で製品を製造しているのと同じく書籍化に向けての「経済」活動をしているものと見ており、願わくばやっている人たちにそれは「創作」ではなく「経済」活動であるという自覚は持ってもらいたいとは思っている。もちろん「経済」活動も出版社とそれとタイアップしている運営の商業活動と利益が一致しているのであって、非難できるものではない。別に反社会的な行動でも何でもないのであるから当然である。ただ、「経済」活動である以上、もうあと2,3年ほどすれば消費され尽くして流行は去る。その時、またぞろ新たな模倣する「創作」を見つけ出してきて「経済」活動をするのは、小遣い稼ぎ以上の意味はなく、不毛だぜと言いたい。まっ。一度やればほとんどの人が卒業することで心配するほどのことではないとも思うのだけれども)
話を戻そう。
タブーに挑戦することになりやしまいかとの疑問に囚われた僕は原点に立ち戻って、そもそも「恋愛小説」とはなんぞや?ということから考察を始めることにした。
愚かなことに僕はここでウィキペディアを開く。
「恋愛小説は、男女間もしくは同性間での恋愛を主題とした小説のこと。
古典的な恋愛小説としては、スタンダール作『赤と黒』、ジェーン・オースティン作『高慢と偏見』、エミリー・ブロンテ作『嵐が丘』、シャーロット・ブロンテ作『ジェイン・エア』、ゲーテ作『若きウェルテルの悩み』、ツルゲーネフ作『初恋』などが挙げられる」とある。
わからない。まったくわからない。
スタンダールの『赤と黒』が例に挙げられているが、あれは「恋愛小説」だったのか?
僕が最初に『赤と黒』を読んだのは小学校6年生の頃。
自慢ではない。なに。単なる格好つけのガキだったのであり、何が書いてあるのか全然分かりもしなかった。最後が情けない野心家の美青年の冒険活劇程度にしか思わなかった記憶がある。
『赤と黒』を読んだことのない方のために粗いスジの説明をするとー。
時代はナポレオン没落後の王政復古のころ。
ジュラ山地の材木商の小倅にジュリアン・ソレルという美少年がいた。体つきが華奢で、自分たちとは似てもにつかないと父親や兄弟たちからは邪険に扱われていたかわいそうな少年である。少年の武器はサヴァン症候群を彷彿させるほどの記憶力の良さのみ。唯一可愛がってくれた近所の退役した軍医から軍隊体験を聞かされて彼はナポレオン崇拝の念を抱くようになる(つまり、ナポレオン没落後、軍隊に入って出世する夢を断たれた「遅れてきた青年」のひとりとして描かれている)。
ジュリアン少年は疎ましく思っている父親から体よく家を追い出され、持ち前の記憶力の良さでラテン語の聖句をたくさん暗記したおかげで地元の田舎貴族の子息の家庭教師の職にありつく。父親に身売りされたのも同然だった。
しかし、彼はそこで終生変わらぬ愛を知ることになる。
相手は年の割には子供っぽいところのある2児の母親。教え子の母親で、その家の主人である貴族の妻、レナール夫人そのひとだった。
ふたりは子供っぽい恋愛をするのだが、周囲にそのことが気づかれそうになる。そこで、夫人はジュリアン少年を遠くの神学校へ進学させることになる。このことはジュリアン少年にとっても都合が良かった。当時の青年にとってのもうひとつの出世の途、坊主になれることを意味したから(『赤と黒』の黒は坊主を表す。ただし、作者のスタンダールはイエズス会の脅威について誇大妄想を抱いており、買いかぶり過ぎるきらいがある。もちろんイエズス会はウルトラ右翼であったが、実際には陰謀を巡らすほどに政治的勢力として大きくはなかった)。
その後、ジュリアン少年は持ち前の記憶の良さと美少年ぶりで順調に出世の道を進み、ついには有力貴族である侯爵の娘で、高慢ちきで妄想癖のある美少女マチルドを射止めてしまう(同時に年若い元帥夫人も)。
さあ。これで出世も思いのままとジュリアン少年が絶頂に立ったそのとき、破局が訪れる。レナール夫人がしゃしゃり出てきて、神父に自分とジュリアン少年との不倫を告白し懺悔しだすのだ。
思い余ったジュリアン少年は教会で祈りを捧げているレナール夫人に向かってピストルを発砲する。レナール夫人は死なない。怪我するのみ。
ジュリアン少年は官憲に捕まり裁判にかけられる。
マチルドばかりかレナール夫人までが減刑に奔走するが、ジュリアン自身が裁判で支配層の汚点を暴くような演説をして人々を怒らしてしまい、死刑となる。その後、マチルドは子供を死産し、レナール夫人は二人の子供を抱き抱えながら死んでしまう。
救いのないバット・エンド。
ガキだった頃の僕は、こんな小説になぜ昭和の偉大な小説家大岡昇平が若い頃から夢中になっていたのか納得がいかなかった……。正確には今でもであるが。
たしかにレナール夫人の母性は尊いようにも感じられる。真の信仰とはやはり「愛」なのだ、ということもうっすらと感じられる。
しかし、小説でインパクトの強いのはジュリアン少年の偏執狂的な出世欲だろう。最後に牢獄で反省するのだが、それでは「恋愛小説」というより野心家の少年の成功と挫折を書き綴った「青春小説」にすぎないのではないだろうか。
だから、ウィキペディアが「恋愛小説」の例として『赤と黒』を挙げているのには抵抗を覚える。
僕が男の側から描く「恋愛小説」の例を挙げるとするならば、チェーホフの『小犬を連れた貴婦人』(昔、僕が読んだ頃の邦題はこうであった。いまは『犬を連れたおんな』というらしい。なんとも情緒のないことだ)を強く押す。
短編であり、すぐ読めるが、『桜の園』のような戯曲仕立てになっていて説明が少ない。だから、当時の様子をうかがい知れない現在の日本人としてはあまりピンと来ないお話しである。ただ何度も映画化されており、読んだことのない方がいたなら、是非小説を読む前に映画の方をご覧になることを強くお勧めする。マストロヤンニ主演の『黒い瞳』でもよいと思う(同じ小説を下敷きにしているらしく、テーマは変わらないというから。残念ながら、僕自身、一部しか観たことがないので正確さに欠けることをあらかじめお断りしておく)。
少し長くなりすぎたので『小犬を連れた貴婦人』についてはまた後編で説明しょうと思う。
今日は、ここまで。
ここまで読んでくださった方には熱く感謝します。