姉の初恋 下
森に着くと、二人はすぐに見つかった。
二人が修業をしている声が森の奥で聞こえたためだ。
二人は熱心に修業をしていたが、おじいさんがオリガの姿を見かけると、修行を中断して休憩をしようと言い出した。
オリガは手に持っていたかごを二人に手渡す。
「あ、あの、これ、お母さんが焼いたレモンパイです。わ、わたしも少しだけ手伝ったんですけど、上手く出来ているかわからなくて」
ヨウタはレモンパイのかごを受け取る。
きれいな柄の布の下には、甘い香りのパイが入っている。
「ヨウタ、先に食べていなさい。じいちゃんは近くで水を汲んで来よう」
おじいさんは森の奥の湖へと歩いていく。
その場にはヨウタとオリガが取り残される。
ヨウタは屈託なく笑う。
「一緒に食べよう」
オリガの顔が赤くなっているのに気付かず、草の上に腰を下ろす。
切り分けられたレモンパイの一切れを手に取り、かぶりつく。
「うん、うまいよ。このパイ」
「ほ、本当? 良かった」
オリガはほっと胸をなで下ろす。
心の中では、上手くできていなかったらどうしよう、とずっと不安だった。
男の子に自分の作ったパイを食べてもらいたいがために、一生懸命練習したオリガだった。
パイ生地は母親に作ってもらったが、レモンを切るのも、材料をまぜるのも、味付けも、全部自分でしたことだった。
「じゃ、じゃあ、わたしも」
オリガは一番小さい一切れを取る。
さくりとパイをかじる。
パイはレモンの風味と、生地のバターの味が香ばしく、ちょうど良い味付けだった。
――良かった、上手くできて。
元々引っ込み思案なオリガなので、クラスの男の子にはよくそれでからかわれる。
黒く長い髪にきれいな青い瞳、そのかわいらしい容貌のため、嫌でも目を引くオリガだった。
男の子たちのからかいが、好きの裏返しだとは、露ほどにも気づかなかった。
――ヨウタくんは、わたしのこといじめないもの。
オリガはヨウタの隣に座り、パイを食べている。
ヨウタが一つ目を食べ終えて、二つ目に手を伸ばした時だった。
「ねえ、ヨウタくん」
オリガはかねてから気になっていたことをヨウタに尋ねる。
「ヨウタくんは、鈴牙人なの?」
ヨウタはパイをかじろうとした姿勢のまま固まる。
難しい顔で首を傾げる。
オリガは慌てて続ける。
「あ、あのね、わ、わたしはそんなの気にしないよ。ヨウタくんはヨウタくんだもの。でも、クラスの男の子たちが言っていたの。鈴牙人がこの近所にいるなんて、嫌だなって。そう言っているのを聞いて、気になってしまって」
ヨウタはパイを一口かじる。
淡々と話す。
「鈴牙人は、じいちゃんだよ。おれはその孫。だから一応はおれも鈴牙人の血を引いてるってことなのかな? よくわからないけれど」
さくさくとヨウタはパイを食べる。
「うちってさ、他の家より特に色んな民族の血が混じってるからさ。そういうの、よくわかんなくなっちゃったんだよね。一応は、代々の家の名前を苗字として名乗っているけれどさ。それだって華南人だったり、イストア人だったり、ラース人だったり、本当に色んな苗字があるんだよ。それこそ名乗るのが面倒くさくなるくらい。だからおれが今何人か、と聞かれると、何とも答えられなくなるんだ。でも、戸籍というものがラスティエ教国にあるから、ラース人と言うのが、一番近いかもしれない、と両親は言っていたけどね」
オリガは驚いた顔でヨウタを見つめていた。
耳の奥で響いていたクラスの男の子たちの笑い声が、ぴたりと止んだような気がした。
薄暗い雲間から、急に光が降り注いだような気持ちだった。
「そうだね。そんなの、よくわからないよね」
オリガは困ったように笑う。
ヨウタの言葉を聞いて、胸の辺りが温かくなる。
優しい気持ちが胸いっぱいに広がる。
「変なこと聞いちゃって、ごめんね」
「別にいいよ。おれは気にしないよ」
ヨウタはさくさくとパイを食べ続けている。
「今戻ったぞ」
おじいさんが木の桶に水を汲んで戻ってきた。
ずいぶんと減ったレモンパイを見て、目を細める。
「わしの分はちゃんと残っておるんじゃろうな?」
「もちろんだよ、じいちゃん」
ちゃっかり三切れ目を取ろうとしていたヨウタは、三切れ目をつかんだまま大きくうなずく。
おじいさんはなみなみと水の入った木の桶を傍らに置いて、残っているレモンパイに素早く手を伸ばした。
夏が終わると、ヨウタとおじいさんは故郷に帰って行った。
また来年も来ると約束して、二人はオリガの前からいなくなった。
「オリガちゃん、また来年も会えるわよ。そんなに気を落とさないで」
おばさんはそう言って、オリガを慰めてくれた。
けれど、オリガとヨウタとの来年の再会は結局叶わなかった。
オリガ一家は次の年の夏を待たず、財閥に戻らなくてはならなかった。
財閥の令嬢として恥ずかしくない礼儀作法を教育され、社交界では大人たちに気に入られるように振る舞わなければならなかった。
美しいドレスで着飾ったオリガは、社交界では高い山に咲く可憐な白百合のようだ、と形容された。
その後、幾人もの男性と知り合う機会があったが、誰もあの時ヨウタに感じた様な安らぎを感じる人はいなかった。
いずれは政略結婚で財閥のために嫁いでいくのだろうと、オリガは半ば自分の人生を諦めていた。
それが財閥の跡目争いに巻き込まれ、事故に合い、両親と両目の光を失うことになる。
何者かに命を狙われ、血の繋がらない弟と命からがら逃げ出した隣国で、ヨウタと予期しない出会いを果たす。
ずっと心の奥に秘めていた気持ちが溢れ出し、それを態度に出さないようにするのに苦労した。
オリガは自分の置かれた立場をよく理解していた。
目が見えないため、誰かの世話にならないと生きていけないことは、自分でも十分に承知していた。
けれどもし、オリガの目が見えて、普通の女の子として彼のそばにいられたら。
叶わない気持ちを胸の奥にしまい込み、オリガは神学校の生徒として普通の生活を弟とともに送っている。
――ヨウタさんのそばにいられるだけで、話しが出来るだけで。何気ない日常が送れるだけで、わたしはそれで十分に幸せだから。
初恋が叶わないとは、誰が言ったのだろう。
見えない目で未来を見据え、オリガは恋心を胸の奥にしまい、静かに微笑んだ。