姉の初恋 上
『空の座』と『姉と弟』に出てくる姉が主人公です。名前が色々と変わっているのでややこしいですが、姉の本名はオリガです。
それはオリガがまだ小さかった頃、両親と一緒に下町に住んでいた時の話だった。
「うちの親戚が家に遊びに来てくれたのよ!」
おばさんの楽しそうな顔を見て、オリガは青い目を見開いた。
オリガは母親が作ったアップルパイを持っていくように言われ、隣の家を訪ねた。
玄関に出るなり、おばさんはオリガの話を聞かず、一方的にまくしたてたのだった。
「夏の間はずっとこっちにいると言う話だから、家の中が賑やかになっていいわ」
こんなにうれしそうなおばさんの顔を、オリガは初めて見た。
色々と親切にしてくれる隣のおばさんは、旦那さんが病気で亡くなってから、ずっと一人で暮らしている。
独り立ちした息子さんや娘さんはほとんど家に帰ってこないため、ずっと寂しい思いをしている。
けれどおばさんはそんな態度はおくびにも出さずに、気丈に振る舞っている。
「本当はずっといてくれてもいいと言ったのにね。修業でここに立ち寄っただけだからって、遠慮してね」
おばさんは頬に手を当てて残念そうに溜息を吐く。
オリガはおばさんの会話が途切れたのを見て、慌てて口を挟む。
「あ、あの、これ、お母さんが作ったアップルパイです」
手に持っていたアップルパイの入ったかごを渡す。
そこへ突然背後から声が掛けられる。
「この薪はどこへ置けばいい?」
聞き慣れない少年の声だった。
オリガは驚いて動きを止める。
おばさんがオリガの肩越しにその少年を見る。
「あら、ヨウタくん。薪割は終わったの?」
「うん、残りはじいちゃんがやってくれるって」
少年は薪の束を抱えて、オリガの隣までやってくる。
ちらりとオリガを見る。
少年はオリガと同じくらいの年頃に見えた。
目が合ったオリガはびくりと体をすくめる。
「あら、ありがとう。じゃあ折角オリガちゃんも来てくれたことだし、ひとまず休憩して一緒におやつを食べましょうよ」
おばさんはオリガの気持ちも知らず、上機嫌で家の中に入っていく。
玄関に取り残されたオリガは、どうすればいいのかわからず、立ち尽くしている。
「休憩だね。わかった。じいちゃんに伝えてくる」
薪を抱えた少年は、薪を地面におろし、裏庭の方へと歩いていく。
玄関に取り残されたオリガは、アップルパイのかごだけ置いて家に帰ろうかとも考えた。
学校では男の子に悪戯されるため、同じ年頃の男の子が苦手なオリガだった。
――でも、おばさんのお誘いを受けた以上、ここで帰ったら失礼よね。
オリガは溜息を吐いて、重い気持ちでおばさんの家の中に入っていった。
「おい、知ってるか? 近所に鈴牙人が来てるんだってよ」
クラスの男の子が話しているのを聞いて、オリガは伯母さんの家にいるあの男の子のことを思い出した。
おばさんの家では、親戚と言う男の子とおじいさんの二人が暮らしているようだった。
二人ともよく笑い、よくしゃべり、感じの良い人のように見えた。
――あの男の子、鈴牙人の子だったのかな?
オリガは女の子同士の他愛ない会話に相槌を打ちつつ、男の子たちの話に聞き耳を立てている。
「げえ、それほんとかよ? どうして鈴牙人がこんなところにいるんだよ」
「知らねえよ。国が無くなって、あちこちに行ったんじゃないのか?」
「けど、何もこんなところに来なくてもな。鈴牙人のせいで、こっちにまで天罰くらったらどうしてくれんだよ」
男の子たちはどっと笑う。
数十年前に国を失くした鈴牙人は、天罰のせいでそうなったのだと一般には噂されていた。
その噂がどういった理由でささやかれ始めたのかは知らない。
けれどオリガは、両親から人を人種や身分で差別してはいけない、と教えられていた。
――あの人たちはそんな悪い人には見えなかったけれど。
オリガの耳にクラスの男の子たちの笑い声が木霊していた。
おばさんの家に住んでいる男の子のことが何となく気になって、夏休みに入るとオリガは男の子のところへ足しげく通った。
「あらまあまあ、オリガちゃん」
隣のおばさんは喜んでオリガを迎えてくれた。
自分の家から走ってきたオリガは、息を切らせておばさんに尋ねる。
「あ、あの、ヨウタさん、いますか?」
「あら、ヨウタくん? うふふ」
おばさんは口を手で押さえ、笑う。
「今日は森で修業をすると言って、おじいさんと森に行ったけれど」
「そ、そうですか。ありがとうございます」
オリガはおばさんにお礼を言って、きびすを返す。
森に向かって駆けて行く。
おばさんはその後姿を見送り、つぶやいた。
「やっぱりオリガちゃんも、年頃の女の子よね」
温かい眼差しでその後姿を眺め、おばさんは小さく笑った。