9
―――その闇色の瞳に、一目で魅入られた。
本心とは、覆い隠すべきもの。胸の奥底に深く沈め、幾重にも鍵をかけ、決して人目に晒してはならないもの。そう信じていた。『彼女』に出会うまでは。
「ソニエール」
背後から遠慮がちに名を呼ばれ、全身に緊張感が駆け抜ける。
満月の夜。銀色の月明かりが差し込む窓辺に立ち、晴れた夜空を虚ろな視線で見上げていた私は、磨き抜かれた硝子に映り込む彼女と目が合い、動揺を押し隠して慎重に振り返った。
「ヒロ」
静かにその名を口にすれば、窓越しにこちらを見つめていたはずの視線はそっとそらされ、星のない夜のような美しい瞳が長い睫に隠されてしまう。いつからだろう。彼女―――ヒロが真っ直ぐ私の目を見なくなったのは。おかげで私はその姿を存分に眺めることができた。
結い上げられた艶やかな黒髪。露わになった白い首筋の細さを更に際だたせる真珠の首飾り。華奢な体に沿うように作られたシンプルなドレスは清楚な薄紅色で、あまり華美すぎるものを好まないヒロに良く似合っている。思わず手を伸ばし、そのまま強く抱き寄せてしまいたくなるほどに。
「―――行こうか」
胸中の嵐のような衝動とは裏腹に、不自然なほどゆっくりと差し出した私の手に、ヒロのほっそりとした指が無言で重ねられる。その繊細な指先は、レースの手袋を通してさえ酷く冷ややかで、ほんの微かに震えていた。そのまま手を引けば、ヒロは半歩下がったまま、私の後を従順についてくる。
拒絶はされない。だが、決して受け入れられることもない。
それが今の私達の関係だった。
* * * * *
今夜は毎月宮殿にて開催される夜会の日である。かつては貴族同士の政治的な討論や情報交換を主な目的とするものだったが、現在の平和な世においては単なる社交場として形骸化されている。乾杯の挨拶を終え、玉座から広間へ降りると、すぐさま群がるように人々が集まり、周囲を取り囲まれた。
「陛下」
「ソニエール様」
「どうかわたくしとお話を!」
男女問わず美しく着飾った者達が、我先にと必死の形相で話しかけてくる。私はどんな話題に対しても鷹揚に頷き、時には質問を交えて相づちを打ち、物わかりの良い振りをする。
―――くだらない。何もかも。
人という者は何と愚かで欲深い生き物なのだろう。口元に優雅な微笑を浮かべながら、私は心の内で平然と毒を吐き捨てる。本音を腹の底にひそめ、正反対の表情を見せることには慣れている。帝国の頂点に立つ者として、いかなる時も感情に左右されないよう、幼い頃から徹底的に教育されてきた。
己以外の人間は誰も信じてはならない。
他人から容赦なく向けられる悪意によって、幾度も生命の危機を感じる人生の中で、それが生き残る術だということを、私はこの身をもって学んできた。
「――――」
ふと、色褪せた視界の端に動くものがあった。さりげなく視線を向ければ、先程まで玉座の隣に腰掛けていたはずのヒロが席を立ち、護衛の者を引き連れて、目立たないように広間を出て行くところだった。どこか繊細で内向的な面がある彼女は、はっきりと口にはしないものの、こういった人の多い場を苦手としている。それを理解していた私は、そんなヒロの心を煩わせぬよう、彼女を一人残して広間に降りたのだった。体調でも悪いのか、その横顔が青ざめて見えた気がして、酷く胸が騒いだ。
「ヒロ―――」
「陛下!」
思わず呼び止めようと口を開きかけたものの、何者かによって無作法にも横から割り込むようにして話しかけられ、私の声は届かない。だが、恐らくはそれで良かった。ヒロは私が声をかけることを、決して望んではいないだろうから。