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「大丈夫ですか? ヒロコ様………」
心配そうなレイサの声が響き、わたしは閉じていた瞼を開けた。視線を横に動かすと、不安げな顔をしたレイサが立っている。寝台に横たえた体は重く、全身がひどく怠い。指先を動かすことさえ億劫で、わたしは熱い息を吐く。グリシアの元を訪れた日から、はや二日が過ぎていた。
―――日本に帰れる。
その事実は、三年の月日をかけて暗く淀みきっていたわたしの心をほぐし、軽くしてくれた。一方で、数年に及ぶ緊張がとけたせいか、わたしは現在、熱を出して寝込んでしまっていた。頭が割れるような頭痛に耐えながら、わたしは二日前のグリシアの言葉を思い返す。
『本当は、今すぐにでも元の世界に帰してやりたいところだが、おぬしはこのベルーシにおいて皇帝の正妃という重要な立場にある。急に姿を消したとなれば、帝国にいたずらな混乱を来すであろう。ゆえに、三日待て。その間に、妾が準備を整える。それまで我慢できるな?』
わたしは喜びのあまり、大きく頷いていた。三年間の苦痛に耐えたことを考えれば、そのくらい容易いものだった。グリシアが示した期限は明日。この世界を捨てて日本に帰ることに、後悔が全くないとはいえない。ソニエールの事を今でも愛しているからだ。けれど、だからこそ、ソニエールに必要とされないことが悲しくて、苦しい。このまま、この世界で孤独に朽ち果てていくのは絶対に嫌だ。いっそ、嫌いになれたらどんなにか楽なのに。それさえできないわたしは、卑怯にも全てを投げ打って逃げ出すのだ。
「ごめんね………」
「え?」
ぽつりと、乾いた唇から零れたのは謝罪の言葉。レイサが不思議そうに瞬いた。わたしは「何でもない」と、小さく首を振る。優しい彼女はきっと泣くだろう。わたしを日本へ帰すためにグリシアが立てた計画は、あまりに非情で衝撃的なものだった。
『ヒロコ、おぬしには一度この世界で死んでもらう』
死。グリシアが口にした物騒な言葉に驚くわたしに、彼女は冷静な声で続けた。
『無論、“振り”ではあるがな。妾が作った毒薬を飲み、数日ほど仮死状態になってもらう。おぬしは死んだと見なされ、葬儀が行われて埋葬されるだろう。その前に、妾が密かにおぬしを連れ出し、蘇生させる』
その後、この世界から存在が消え、ただの女となったわたしは、グリシアの手によって密かに日本へと帰るのだ。仮にも皇妃である人間が、ある日忽然と行方をくらますわけにはいかない。そのためには、わたしの死が最も簡単で穏便な方法だった。どうせもう二度と戻るつもりもない。わたしはグリシアの過激ともいえる作戦を了承した。
「………少し眠るわ。一人にしてくれる?」
「分かりました。隣の部屋に控えておりますから、何かあったらお呼び下さいね」
レイサは枕元に呼び鈴を置いた。わたしは頷き、レイサが部屋を出て行くのを確認してから、静かに目を閉じた。今は何も考えたくなかった。
* * * * *
ひやりとした感触が額に触れ、わたしは目を覚ました。レイサが様子を見にきたのだろうか。重い瞼を押し上げると、潤んだ視界に鮮やかなエメラルドが飛び込んできた。
「ソニ、エール………?」
まさかと、名を呼ぶ声が自分でも驚くほど掠れていた。わたしは夢を見ているのだろうか。思わず起き上がろうとするのを、大きな手に押しとどめられた。
「そなたが、熱を出したと聞いて」
まだ高いな、と。低く透き通る声が耳を震わせる。どうやらこれは夢ではないらしい。ソニエールは寝台の端に腰を下ろし、横たわるわたしを静かに見下ろしていた。相変わらず目が醒めるほどに美しい。長い銀色の髪がきらきらと輝いている。その広い肩越しに見える窓の外は薄暗く、今は夕方のようである。政務を終える時間にしてはまだ早すぎる。わたしの視線の意味に気づいたのか、ソニエールは小さく頷いた。
「今は休憩中だ」
「………そう」
つぶやいたきり、次の言葉が見つからない。以前はこうではなかった。ソニエールはどちらかといえば寡黙な方であるから、話しかけるのはいつもわたしで。ソニエールの気を引こうと、他愛のないことをあれこれ話すわたしを、彼は微笑みながらじっと見つめていた。だから、わたしがソニエールを避けるようになると、自然と会話はなくなり、いつしか視線を交わすことさえ躊躇うようになった。それでも、今こうしてその端正な横顔を見上げていると、かつてと寸分違わぬ愛おしさが込み上げてくる。
―――ああ。
わたしはこの人が好きだ。心からそう思う。どんなに酷いことをされても、決して憎むことはできない。それはきっと、これから先も変わらないだろう。
「ヒロ?」
あ、と思ったときには遅かった。じわりと溢れ出した涙は、目尻を伝い、頬へと流れていった。
「どうした? どこか痛むのか」
「いいえ………何でもないわ。どうしたのかな」
慌てて指先でぐいと拭うと、その手を思いのほか強い力で捕らえられた。何事かと見上げるわたしの目の前で、酷く真剣な顔をしたソニエールがわたしの手を取り上げる。そして、涙で濡れた指先を引き寄せ、そっと口付けた。
「―――どうして」
呆然と呟いた言葉は声にならなかった。どうして、今更になってこんな風に優しくするのだろう。わたしはくしゃりと顔を歪め、頭上から降り注ぐ眼差しから逃げるように目を伏せた。これ以上、好きになりたくないのに。
「ヒロ」
さきほどよりわずかに低い声で名を呼ばれる。首筋のあたりにソニエールの視線を痛いほど感じた。その瞳の奥に揺れる昏い熱。ソニエールが何を求めているのかに気づいても、わたしは―――拒まなかった。