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言った。ついに言ってしまった………!
この世界にやって来てから何度も考え、否定し、諦めてきた願い。グリシアは予想していたのか、やはり驚くことはなく、深いため息をついて静かに瞼を閉じた。
「………いつか、こうなる日が来ると思っていたよ」
その声音に、想像していたよりも失望の色は無かった。ただ、出来の悪い子供を叱るような、優しい怒りと呆れがあるだけで、臆病なわたしは内心ほっとする。彼女にまで見放されたら、わたしはきっと、この世界で生きていけない。
「―――馬鹿な子」
病的なほど白い手が伸びてきて、項垂れるわたしを抱き寄せた。穏やかな声が耳元で囁く。
「だから、あの男はやめておけと言っただろう?」
「うん」
「おぬしの手には負えぬと。絶対に辛い思いをすると」
「………うん」
「それでも、皇帝の側にありたいと言ったのは、おぬしであろう?」
「――――っ」
最後は言葉にならず、こくりと頷いた。
―――そう。
グリシアは最初からこうなることを予測していたのだ。三年前、わたしがこの世界にとどまることを決意したとき。当初グリシアは強く反対し、わたしに元の世界へ戻るよう何度も促した。生きる世界が異なれば、文化や思想、時には善悪の基準さえ違ってくる。異世界からやって来た小娘が、右も左も分からない世界で、それも皇帝の妻として生きていくのは容易なことではないと。今のわたしならばグリシアの言葉に強く同意し、素直に受け入れることができる。けれど、当時のわたしは断固として否定した。二人の間に愛さえあれば、どんな困難も覆せると思っていた。大好きな人と過ごす日々が、いつまでも永遠に続いていくと信じていた。そして、愚かなわたしは、グリシアの忠告を無下にし、迷わずソニエールの手を取ったのだ。
「………ごめんなさい、グリシア。わたしは間違ってた。全部、あなたの言うとおりだった。馬鹿だって、笑ってくれて良いよ。でも、あの時は本当に大丈夫だって………ソニエールと幸せになれるって信じてたの………」
堪えていた涙がついに後悔と共にどっと溢れ出した。煌びやかな王宮も、綺麗なドレスも、華やかなパーティーも、わたしには不釣り合いなものばかり。いつもソニエールの隣で笑顔を浮かべながらも、内心では酷く怯えていて、全身にのし掛かる重圧から逃げ出したくてたまらなかった。それでも、愛しい人を独り占めできるのなら、どんなに辛いことも耐えて見せようと思えた。けれど、現実は予想以上に厳しかった。
「やっぱり、わたしには皇妃なんて無理だよ………もう、こんな生活耐えられない!」
今までずっと、心の中で叫び続けていた言葉。一度声に出してしまえば、必死に取り繕っていた虚勢が崩れてしまう気がして恐ろしかった。ソニエールへの不信。側室への嫉妬。何も出来ない自分への苛立ち―――この世界にやって来たときからずっと、少しずつ喉の奥に押し込み、沈めてきた心の澱が、一気に溢れ出す。
―――帰りたい。帰りたい。
わたしに優しかった世界に帰りたい。ここにはもう、わたしの居場所はどこにもない。足下からばらばらに壊れていくような悲しみが全身を襲い、わたしはグリシアの胸に縋り付き、悲鳴のような泣き声を上げた。グリシアは宥めるようにわたしの頭を撫で、哀れみの籠もった眼差しでこちらを見下ろす。
「………泣くな、ヒロコ。妾がおぬしを笑えるものか。おぬしは何も悪くない。全ての元凶は妾にある。手違いとはいえ、無関係のおぬしこの世界に引き込んでしまった」
わたしは泣きながら首を振った。確かにきっかけを作ったのはグリシアだが、決して彼女のせいではない。ましてや、ソニエールのせいにするつもりもない。全てはわたしのせいだ。一時の感情に流され、安易な決断を下した自分のせい。その先に待ち受ける苦難をろくに考えもせず、子供じみた幸福だけを夢見ていた。わたしは甘く、幼すぎたのだ。
「………三日後じゃ」
「え?」
グリシアの胸に顔を埋めていたわたしは、彼女の唐突な言葉に頭を上げた。燃えるような紅眼の中に、ひどく情けない顔をしたわたしが映っている。グリシアはゆっくりと瞬き、静かな声で告げた。
「三日後までに、おぬしを元の世界に帰す手筈を整えよう」