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ソニエールの言葉通り、今後一ヶ月の公務の予定は全て取り消され、わたしは部屋の奥に閉じ込められていた。日に二度の食事も自室で取る事になり、廊下に出る事さえ許されない。おかげで、レイサに頼んで図書館から借りてきて貰った本を読むだけの単調な日々が続いている。まるで監禁されているようだ。
「ふう」
夜が更けると、わたしは早々にレイサを下がらせた。窓辺に椅子を寄せ、庭の景色をぼんやり眺める。口から零れるのは、ため息ばかり。先日、シエルの懐妊が公式に発表されたと、レイサが遠慮がちに教えてくれた。彼女にそんな気を遣わせてしまう自分が情けない。
あれから、ソニエールには一度も会っていない。今夜は確か晩餐会の予定があったはずだが、ソニエールの隣に並ぶのはわたしではなく、側室であるサリサだ。
「わたし、ここで何やってるんだろう………?」
頬杖をついて、ぼんやりと呟く。異世界に召喚されてから三年。皇帝の求婚を受け入れ、誰よりも幸せになれると信じていた結婚生活は、そんなに甘いものではなかった。側室達のように世継ぎを産む事も出来なければ、皇妃としての役目も果たす事もままならず………今、こうして王宮の片隅でほったらかしにされているわたしは、きっとこの世界の誰にも必要とされていない。
「馬鹿に、しないでよ………」
悔しさのあまり、涙が溢れていた。こんなわたしでも、日本にいた頃は家族や友達に愛されていた。特に両親や妹は、口にはしなくても誰よりわたしを大切に思ってくれていた事を、身を持って知っている。彼らが今のわたしの姿を見たら、何と言うだろう?
「帰りたい………」
涙と共に、自然と唇から溢れ出していたその言葉。今まで幾度も考えた。その度に、愛しいソニエールの顔を思い出しては、声に出す事を躊躇っていた。けれどもう、我慢も限界だった。
* * * * *
翌朝。日が昇りきるより早く、わたしは一つの決意を胸に、自室を密かに抜け出した。行き先は王宮の地下にある一室。供の者は誰も連れてきていない。普段ならば考えられない暴挙であるが、今回のことは誰にも知られるわけにはいかなかった。
蝋燭の火を頼りに、薄暗い石造りの階段を降りていくと、やがて一つの扉に辿り着く。ノックをしようと掲げた拳が扉に触れる前に、中から「お入り」と声がかかった。良かった。どうやら在室しているらしい。部屋の主は常に国内外を飛び回っているため留守がちで、会えない確率の方がずっと高いのだ。
扉を開けると、地下にしては広すぎる空間が視界に入る。中には怪しげな科学器具や、どのようにして使うのか想像するのも恐ろしい拷問道具、謎の機械などが所狭しと列べられ、さながらマッドサイエンティストの実験室のようである。それらに囲まれるようにして、部屋の中心に置かれた木の椅子に腰掛ける人物を見つめ、わたしは硬い表情で挨拶をした。
「こんにちは、グリシア」
グリシア―――帝国の白き魔女と呼ばれる彼女は、妖艶な笑みを浮かべてわたしを迎えた。相変わらず凄絶なまでに美しい。床に届くほど長く伸びた白銀の髪。猫のように細められた血色の瞳。ゆったりと微笑むなまめかしい唇。地味なローブでは隠しきれない白く豊かな肢体。ソニエールの清廉な美貌と比べ、彼女のそれは禍々しく、見る者を堕落させる邪悪さを伴っていた。
「ヒロコ」
女にしては低い声が、わたしの名を呼ぶ。この世界において、魔女は皇帝に次ぐ重要な存在だ。数百年に及ぶ人生で培われた豊富な知識と、人ならざる不思議な力を持って、国家を影から助ける立場にある。ただし、自由を愛する魔女は縛られる事を嫌うため、必ずしも帝国の意思に従うわけではないらしい。魔女は大層気まぐれなのだ
「そなたと会うのは結婚式以来だな。息災か?」
「………ええ、と言いたいところだけど、そうもいかないみたい」
くしゃりと顔を歪め、わたしは何とか笑みらしきものを浮かべてみようとしたけれど、泣きそうな顔になってしまった。
「そうか」
グリシアは小さく頷いた。それ以上何も聞こうとはせず、わたしの瞳の奥を見透かすようにじっと見つめる。きっと、わたしが何を伝えにきたのか、彼女には全てお見通しなのだろう。その上でわたしの言葉を待っていてくれているのだと分かり、今度こそ涙が溢れそうになった。わたしはふらふらとグリシアの元へ近づき、その足下にすがるようにぺたりと座り込んだ。
「あのね、グリシア。お願いがあるの」
グリシアは無言で頷き、促すようにわたしの頭を撫でた。わたしはグリシアの柔らかな膝に頬を預け、深く息を吸い込む。昨夜から何度も練習していた言葉。口にしてしまえば、全てが終わる。けれど、もう躊躇わないと決めたのだ。わたしは意を決して、吐き出した。
「―――わたしを、元の世界に帰して」