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帝国の紋章である蝶と薔薇が刻まれた馬車に揺られながら、わたしは外の景色をぼんやり眺めた。ベルーシが誇る帝都、ドールの街並みを一言で表すならば、純白。石造りの建物は全て白い石で統一され、訪れる者に帝国の孤高の美しさを見せつける。わたしも初めて目にした時はいたく感動したものだ。
今日は珍しく気分が軽い。王宮の外へ出るのは久しぶりだ。と言っても、遊びに行くわけではない。皇妃として帝国立の学校へ視察に行くのだ。この国に生まれた子供は五歳から十五歳で成人するまで、身分に関係なくそこで学ぶ権利がある。ベルーシは子供の教育に力を入れていて、学費や校舎の維持費などは全て国が負担しているのだ。
「日本も見習えばいいのにね………」
ぽつりと呟く。正面に座っていたレイサが不思議そうな顔でこちらを見た。わたしは「何でもない」と小さく首を振った。
ふと、こうしてわたしが何気なく故郷の話をする度、ソニエールは決まって寂しそうに目を細めていた事を思い出す。そして、息も出来ないほどわたしを強く抱きしめるのだ。まるで、どこへも行かせないと言うように。
………昔の話だ。
いけない。せっかくの外出なのに、一気に心が暗くなってしまった。話題を変えよう。
「レイサもこの学校に通っていたの?」
「はい。卒業してから訪れるのは今回が初めてなので、何だか楽しみですわ」
お供として連れてきたレイサは、どこか嬉しそうに笑った。
「それじゃあ、学校に着いたらわたしの事は気にしないで。昔の先生にでも会ってくると良いわ。護衛は沢山いるし、心配しないで」
「そんな訳には参りません! もしもヒロコ様に何かあったら、わたくし、陛下に殺されてしまいますわっ」
――――まさか。
真面目な顔で言い切るレイサに、わたしは内心ぷっと吹き出してしまった。そんな事は有り得ない。レイサはどうもわたしとソニエールの関係を誤解している節がある。わたし達の不仲は、今や国中に知れ渡っている事なのに。
学校に到着すると、全校生徒が温かく出迎えてくれた。あまり派手すぎない清楚なドレスに身を包んだわたしは、皇妃に相応しい優雅な仕草を心がけ、誰にでもにっこり微笑んでみせる。例え皇帝との関係が不和であろうと、わたし個人の評判が落ちたわけではないのだ。ここで手を抜く訳にはいかない。
学校長に案内され、大勢の護衛と生徒達に見守られながら、校内の施設や授業の様子を見学した。建物自体は学校というよりもむしろ教会のような豪華な造りで、地方出身の子供のための清潔な寮もあり、全てを見回るのにかなりの時間を要した。
「皇妃さまの髪、とっても綺麗ですね。黒髪なんて、僕、初めて見ました」
最後に庭で子供達の話を聞いていると、十歳くらいの男の子が言った。
「ありがとう。わたしの国の人は、みんなこの色なのよ」
国民にはわたしが異世界人である事実は伏せられていて、遠い異国から嫁いできた事になっている。銀や金など淡い色の髪が主流であるベルーシの人々にとって、日本人特有の黒髪や瞳は珍しいものらしい。
「えー、そうなんですか?」
「すごーい!」
「いいなあ~」
わたしを取り囲む子供達が、一斉に素直な声を上げた。可愛い。
もしもわたしに子供が生まれていたら、ソニエールとの関係は今頃どうなっていたのだろうか?
子供は好きだ。ソニエールの子供なら、なおさら可愛いだろう。実際、側室が産んだ皇子は、遠目から見てもまるで天使のように愛らしかった。例えソニエールの愛を失ったとしても、子供さえいれば、少なくとも、今のようにやるせない気持ちになる事はなかったかもしれない。
「皇妃さま?」
声をかけられて、はっと我に返った。急に黙り込んだわたしを、子供達が不思議そうに見上げている。しまった。慌てて笑顔を取り繕おうとした時、視界の端で何か光るものが見えた。
「危ない!」
背後で誰かが叫んだ。振り返ろうとして、シュッと耳元で音が響いたかと思うと、左頬を鋭い何かが掠める。痛みは感じなかった。何が起きたのか分からなくて、恐る恐る頬に手を当ててみると、指先がぬるりと滑る。血だ。視線の先にある樹に深々と突き刺さっている矢が見えて、わたしはようやく事態を把握した。刺客に狙われたのだ………!
「きゃーっ!!」
悲鳴を上げたのは、レイサだ。護衛達が素早く駆け寄って来て、わたしの周りを厳重に取り囲む。集まっていた子供らが蜘蛛の子を散らすように逃げ惑い、辺りは一時騒然となった。
「ヒロコ様! 大丈夫ですか!?」
レイサが泣きながらわたしの頬にレースのハンカチを当てる。
「平気よ。ちょっと掠っただけ。わたしは良いから、子供達を早く安全なところへ避難させて」
最後の指示は護衛に向けたものだ。その後はどうなったのか分からない。気がつけば馬車に押し込まれ、王宮の自室で手当を受けさせられていた。
「幸い、傷は浅いようでございます。縫う必要はございません。皇妃様のお美しいお顔に、痕は残らないでしょう」
「そう」
老いた医師の言葉を聞きながら、おざなりに頷いた。鏡を見ると、左の頬に大きなガーゼが貼られている。何て大げさな。傷は三センチ程の小さなもので、出血は馬車の中ですでに止まっていたにも関わらず、周囲はまるでわたしが殺されてしまったかのような大騒ぎだった。特にレイサは始終泣き通しで、今も治療を受けるわたしの側で、可愛い顔をくしゃくしゃに歪めて涙を流し続けている。
「申し訳ございません! わたくしがお側についていながら、ヒロコ様にお怪我をさせてしまうなんて………!」
「謝らないでよ。レイサのせいじゃないんだから。それに、わたしはこうして生きてるんだし」
わたしは優しく微笑んで、泣き崩れるレイサの頭をよしよし撫でてやる。別に、命を狙われたのはこれが初めてではない。帝国の最高権力者であるソニエールには敵が多く、皇妃として彼の隣に立っていれば、危険な目に遭う事は今までしばしばあった。その度にソニエールはわたしを助けてくれた。今回はたまたま側にいなかっただけで。仕方がない。ソニエールにはわたしの他に守らなければいけないものがたくさんあるのだから。
――――その時。
「ヒロ!」
突然、ノックの音もなく扉が開いてぎょっとした。飛び込んできたのは、ソニエールだった。走ってきたのか、長い銀髪が乱れて額にかかっている。
「ソ………」
名前を呼ぶ前に白い手が伸びてきて、そっと無傷な方の頬に触れられて驚いた。上着の袖口からふわりと爽やかな香水が香る。レイサが医師を連れて部屋を出て行く姿を横目で見ながら、最後にソニエールに抱きしめられたのはいつだっただろうかとぼんやり考えた。
「………傷は、痛むのか」
低い声で尋ねられて、小さく首を振る。ちりちりと痒みのような違和感はあるが、耐えられないほどではない。
「犯人は………?」
「捕まえた。子供達にも怪我はない。そなたが心配する事は、何もない」
「そう、良かった………」
じっと見つめてくるエメラルドに耐えられなくて、目を伏せる。心の内を見透かされてしまいそうな気がして恐ろしかった。
「念のため、そなたはしばらく部屋から出るな」
厳しい声で呟かれた言葉に、はっと顔を上げた。
「でも、それじゃ公務が………」
「サリサに代役を務めさせる」
サリサ、とは一人目の側室の名である。
「そんな………!」
酷い。そんなのって、ない。
他の妃達に皇帝の妻や恋人としての立場を奪われても、仕方がないと諦める事が出来た。でも、わたしの唯一の存在意義である皇妃としての役目まで取り上げられてしまうのは認められない。
反論しようとしたわたしを、ソニエールが冷たい口調で切り捨てた。
「これはもう決定事項だ。反論は許さない」
「――――っ」
息を飲む。言葉を失ったわたしを一人取り残して、ソニエールは部屋を出て行った。一度も振り返らなかった背中を思い出し、ぐっと唇を噛みしめる。
もう、限界なのかも知れない。