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ベルーシの文化では、一日の食事は朝夕で二回。わたしはその時間が苦痛で堪らない。
朝七時。レイサを連れて広い食堂に入ると、いつも通りソニエールが先に席に着いてわたしを待っていた。元々食事を共にする決まりはなかったのだが、新婚当初、政務で忙しいソニエールが少しでもわたしとの時間を取ろうと気遣ってくれたのだ。その習慣だけは、愛が冷めた今でも変わらない。
部屋の真ん中に置かれた長方形のテーブルは十人以上座れるというのに、わたしの料理が用意されているのはソニエールの正面の席。
食欲なんてないのに………。
憂鬱な気分を引きずって、レイサが引いてくれた椅子に座ると、相変わらず美しいエメラルドの瞳がわたしを見つめた。
「おはよう、ヒロ」
低く、艶やかな声。
「おはよう、ソニエール。良い朝だね」
そんな事、これっぽっちも思ってないくせに。
お互い義務感だけで挨拶を交わし、無言で朝食に手をつける。焼きたてのパン、オムレツ、生野菜のサラダ、瑞々しい果物、紅茶。異世界の食事はほとんど洋食と同じで、これといって目新しい物はない。ただ、ナイフとフォークを使うのはどうしても慣れなくて、ベルーシに来たばかりの頃、ソニエールに頼んで特別にお箸を作ってもらった。今でも晩餐会などの公の場以外では、それを使っている。
「体調はもう良いのか?」
ふいに話しかけられ、わたしは箸を止めて顔を上げた。窓辺から差し込む朝日がソニエールの銀髪に反射して眩しい。一瞬何を聞かれたのか分からなくて、すぐに昨夜は仮病を使って舞踏会を抜け出した事を思い出した。
「ええ、もう平気。迷惑をかけてごめんなさい」
「いや………大事がないなら、それで良い」
ソニエールは優しい。でも、それだけだ。わたしを責めたり、怒ったりする事はない。当たり前だ。普通、興味がない人間にわざわざ感情をぶつけたりしない。
それ以上、食事が終わるまで会話はなかった。
* * * * *
今日は皇妃としての公務はない。皇帝の妃として最も大切な勤めは子供を生む事だけれど、それは他の妃達がやってくれている。つまり、わたしは暇を持てあましているのだった。本音を言えば、窮屈な王宮を抜け出して、身分も何も関係なく自由に遊びに行きたい。しかしながら、皇妃の立場で外出するとなると、そう簡単にはいかない。わたしの我が儘で沢山の人を巻き込むのは避けたかった。
そういうわけで、わたしの行き先はもっぱら図書館だ。王宮内にある図書館は蔵書も豊富で、他国の本まで大量に収められている。何より職員以外はほとんど人がいない。頁を捲る音さえ響くほど静かで、とても落ち着けるのだ。
中に入ってすぐ、ひょろりとした後ろ姿を見つけて声を掛けた。
「こんにちは、シド」
「これは皇妃様。ようこそいらっしゃいませ」
眼鏡を掛けた真面目そうな青年が、慌ててぺこっと頭を下げた。彼は司書のシド=マーリー。この国の文字を読むのがあまり得意でないわたしに、子供向けの絵本や簡単で読みやすい物語を探してくれる優しい青年だ。
シドは早速いつものように、本を何冊か持ってきてくれた。
「これなどはいかがでしょうか」
差し出された本の中で目に付いたのは、鮮やかな色で描かれた綺麗な絵本だった。ぱらぱら捲ってみると、やはり絵本なだけに文字数が少なくて、わたしでも気軽に読めそうだ。
「ありがとう。読んでみるわね」
にっこり微笑んで礼を言うと、シドは照れたように頬をかき、頭を下げて仕事に戻っていった。シドはかなりの恥ずかしがり屋で、知り合ったばかりの頃は目も合わせてくれなかった。今では気軽にとは行かないまでも、わたしが声を掛ければ遠慮がちな笑顔を見せてくれるまでになった。知り合いが全くと言って良いほどいないわたしにとって、彼は貴重な存在だった。
シドが勧めてくれた本以外にも、自分で適当なものを数冊選び、窓辺に置かれた長椅子に座った。ベルーシで使われている文字は象形文字のように難解で、ちょっとした内容でも読み取るのに時間がかかる。集中していると、あっという間に時が過ぎていった。
「もう、一体どこにあるのよ!」
ふと、若い女の声が聞こえて顔を上げた。本棚の向こうにいるようで、こちらからは相手の姿は見えない。
「しーっ、静かになさいよ。ここは図書館よ?」
もう一人女がいるらしい。こちらはそれなりに年を重ねた女のようで、大きな声を出した連れをぴしゃりとたしなめた。
「確かこの辺りのはずなんだけど………」
「ああもう、あたしみたいな無学な使用人には、本なんてさっぱり分からないわ」
「文句言っても仕方ないじゃないの。早くお持ちしないとまたお嬢様に叱られるわ。ええと、題名は………」
どうやら、彼女達はどこかの貴族のお嬢様に仕える侍女らしい。王宮図書館は身元がはっきりしている者なら誰でも本を借りる事が出来るのだ。
「そう言えば、シエル様の話聞いた?」
若い女が声を潜めて囁いた言葉にどきりとした。シエルとは、二人目の側室の事だ。ソニエールの元に嫁いできた時に、一度だけ挨拶をした。わたしより一つ年下で、美しい金髪の少女だった。
悪いとは思いながらも、つい耳をそばだててしまう。
「ええ、今朝聞いたわ。ついにご懐妊なさったのですってね」
年上の女が口にした言葉に、思わず本を取り落としそうになった。
「おめでたい事だわ。まだ公式には発表されていないんでしょう?」
「ええ。でも、シエル様の侍女達が言いふらしているから」
「まあ、はしたない事」
………嘘。
今朝、ソニエールはいつも通り寡黙で、何も言ってこなかった。ソニエールだけじゃない。レイサも、周りの人間も。みんな、知っていて黙っていたのだ。だって、言えるわけがない。これで、子供を産んでいない正妃はますます立場がなくなる。
ベルーシでは側室が子供を産んだからと言って、正妃の位が危うくなる事はない。しかし、誰もがわたしを見るたびその視線で容赦なく詰るのだ。役立たずだと。
「――――っ」
握りしめていた手ががたがた震えている。
どうしよう。
どうすればいい?
………どうにもならないのだ。最初にソニエールを拒絶したのはわたしの方。だから、これは自業自得なのだ。それでも、わたしには許せなかった。ソニエールを、心から愛していたから。
「皇妃様?」
いつの間にか女達はいなくなっていて、目の前にシドが立っていた。
「顔色が真っ青です。いかがなされましたか?」
心配そうに覗き込んでくるシド。情けない顔を見られたくなくて、そっと顔を逸らした。
「何でもないわ。本を読むのに集中しすぎて、少し疲れただけよ」
「………誰か人を呼んできましょうか?」
「大丈夫、もう帰るから。心配してくれてありがとう。この絵本、借りていっても良いわよね?」
「ええ、もちろん」
シドはまだ不安そうにしていたが、一応納得してくれたようだ。わたしはシドが勧めてくれた絵本を持ち、席を立った。
「また来るわね」
「はい、お待ちしております」
背中にシドの視線を感じながら、図書館を出て行く。縋るように胸に抱きしめた絵本が、腕に食い込んで痛い。十数頁の薄っぺらい本なのに、途中までしか読めなかった。囚われのお姫様を助けに行く王様の話。でも、きっと二人は幸せに結ばれるのだろう。わたしとは違って。