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Adagio  作者: 咲良
第二章
10/11

10

 私がヒロと初めて出会ったのは、今から三年前。病床に伏していた父王が崩御し、即位式を一週間後に控えた日の事だ。蝶のように気まぐれな白き魔女に式典への参加を約束させるため、私は王宮の地下にある彼女の隠れ家を訪ねた。扉を開けた先で、珍しくも慌てた様子の魔女の足元に倒れている少女を見つけたのが全ての始まりである。

 私は少女―――ヒロの姿を見て、一目でこの世界の人間ではないと分かった。まず目に入ったのは、床に広がる艶やかな長い黒髪。初めて見るその不思議な色合いは、まるで私の心の内に秘められた深い暗闇を思わせ、強く興味を惹かれずにはいられなかった。

 私は魔女の存在も忘れ、吸い寄せられるように少女の側へ近づくと、そのぐったりとした華奢な体を慎重に抱き起こした。長い睫に縁取られた瞼は固く閉ざされ、意識を完全に失っている事が分かる。怪我をしているのではないかと危惧するも、薄く開いた唇から溢れる健やかな寝息から、どうやら眠っているだけのようだと気づき、私は思わず口元を緩めた。乱れた前髪をそっとかき分け、その穏やかな寝顔を覗き込むと、特別美しいというわけではないが、優しく繊細な顔立ちをしていて、どこか守ってやりたくなるような、そんな印象を抱かせた。

 魔女は私の直感通り、少女は異世界の住人であると説明した。召喚術の研究中に、誤ってこの世界へ呼び出してしまったのだという。何ともはた迷惑な話だが、いつもは尊大な態度の魔女も、私の腕に抱かれて眠る少女のあどけない寝顔を見て、さすがに良心の呵責を感じたようだ。すぐに愛用の杖を取り、少女が目覚める前に元の世界へ送り帰そうとした魔女の行動を、私は咄嗟に制していた。

 ―――彼女を手放したくない。

 ふと、心を支配した強い感情に、私は戸惑いを覚えた。帝国の皇太子として生まれ育った私は、これまで自ら何かを欲するという事がなかった。幼い頃から必死に手を伸ばさなくても、手のひらにはすでにあらゆるものが満ち溢れていたからだ。それなのに何故、名前も知らぬ少女にこんなにも心惹かれてしまうのか、自分でも理解しがたい初めての感情に、私は困惑せざるをえなかった。

 とにかく腕の中の存在をどこへも行かせたくなくて、私は無意識に少女を抱きしめる腕に力を籠めていた。その時、伏せられた青白い瞼が震え、ゆっくりと、月のない夜空のような、闇を湛えた虚ろな瞳が姿を現した。その縋るような弱々しい眼差しにひたと見つめられた瞬間、言いようのない衝動に突き動かされた私は、背後から呼び止める魔女の声を無視し、少女を抱き上げて地下室から連れ去っていた。



* * * * *



 ―――最後に深い眠りに落ちたのはいつだろう。

 夜会の翌朝。病的に眠りの浅い私は、朝日が昇るより早く目覚めた。無意識に手を伸ばし、隣にあるはずもない温もりを探している己に気づき、自嘲する。かつて、ヒロを腕に抱いて眠っていた時でさえ、彼女のふとした身じろぎで目を覚ましていたものだが、その度に子供のように無邪気な寝顔が目に入り、満ち足りた気持ちを感じていたのはもう随分と前の話だ。

 侍女の手を借りて身支度を整えながら、側近が読み上げる分刻みに決められた一日の予定と政務に関する様々な情報を耳にする。数ある報告の中には側室が懐妊したという知らせもあったが、午後の会議の案件を聞かされた時と同じく、機械的に頷いただけだった。その時、私の意識はすでに別のところにあった。この後に待ち受けるヒロと二人きりで過ごす朝食の時間は、今の私にとってどんな予定よりも優先させるべきものとなっていた。結婚当初、即位から間もないという事もあり、私の多忙を理由に夫婦が顔を合わせるのは深夜の寝室だけというすれ違いの状況が長く続いた。それでもヒロは不慣れな環境の中で何一つ不満を零す事はなかったが、元より華奢な体が日に日に細くなっている事実に気づき、半ば強引に取り入れた夫婦の時間だった。かつての己が決めた毎朝の習慣を、今では心から感謝している。この決まりがなければ、現在の私達が公務以外で同じ空間にいる事はなかっただろうから。

「おはよう、ソニエール。良い朝だね」

 ヒロはいつも決まった時間に食堂へ現れ、決まった挨拶を口にする。その後、物静かに食事を始めた彼女を、私は紅茶を口にしながらさりげなく眺めた。昨夜は結い上げていた長い黒髪を背に流し、淡い黄色のシンプルなドレスを身にまとったヒロは、化粧で誤魔化してはいるものの、血の気の引いた青白い頬が目に付く。彼女の護衛から、夜会を中座した理由は体調不良だと聞かされていたが、まだ気分が優れないのだろうか。

「体調はもう良いのか?」

 しんとした静寂の中、遠慮がちに話しかけると、ヒロは顔を上げ、何故か不思議そうに瞬いた。

「―――ええ、もう平気。迷惑をかけてごめんなさい」

 そう言って、いつものように小さく俯かれてしまうと、私はもうどうしていいのか分からなくなる。出会ったばかりの頃、その漆黒の瞳をくるくると目まぐるしく動かせて、日常の他愛ない事柄を楽しそうな笑顔で話しかけてきた明るい少女はもうどこにもいない。そして、彼女をそうさせてしまったのは私自身なのだから。

 ―――それでも。

 例え微笑みかけてくれなくても良い。触れられなくても良い。手を伸ばせば届く距離にいて、その姿を目に映せるだけで良い。そう思い込まなければ、今にも気が狂ってしまいそうだった。

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