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「本当に、良いのか?」
厳かな声に訊ねられ、わたしはゆっくりと頷いた。この結論に辿り着くまで一週間。一生を決める時間にしては短すぎるけれど、それでも今のわたしなりに必死で考え出した答え。しかし、彼女はやはりわたしの決断に納得していないようで、美しい紅唇を不満げに尖らせた。
「いつか必ず、後悔する日が来るぞ。今ならまだ引き返せる。考え直せ」
「―――いいえ」
そんな日はきっと来ない。わたしはきっぱり首を振った。不安が全くないとは言い切れない。それでも、わたしは信じたかった。繋いだ手にぎゅっと力を込めると、隣に立っていた彼は嬉しそうに微笑んでくれた。大丈夫。この人がいれば、わたしはそれだけで幸せなのだから。
そんなわたし達を眺め、彼女はやがて諦めたように長いため息をついた。
「………分かった。それがおぬしの願いなら」
――― 一ヶ月後。
長い髪を複雑に結い上げ、純白のドレスを身に纏ったわたしは、隣に寄り添う銀髪の男を見上げた。そっと、視界を遮っていたベールが取り払われる。緊張で血の気が引いたわたしの顔を、美しいエメラルドの瞳が真っ直ぐ見つめた。
「――――」
そして、ゆっくりと。
二つの唇が引き寄せられるように重なる。
次の瞬間、轟くような拍手と歓声が国中に響き渡り、わたし達の結婚は盛大に祝福された。
――――ベルーシ帝国、皇帝夫妻の誕生である。
* * * * *
「ふう」
広げた扇子の影で小さくため息をつく。ウエストを締め上げるコルセットが苦しくて、さりげなく椅子の背もたれに身体を預けた。ドレスの長い裾に隠れて、きつめのヒールをこっそり脱ぎ捨てる。
今夜は満月。月に一度、王宮で開かれる舞踏会の日だ。玉座の隣の席に腰を下ろし、華やかで窮屈なドレスに拘束されたわたしは、大勢の人々で溢れかえる広間を上から眺めた。美しく着飾った多くの男女が、宮廷楽団が奏でる音楽に合わせて優雅に踊っている。
「皇妃様、お飲み物はいかがですか?」
ぼんやりしていると、銀盆にグラスを乗せた給仕の男がやって来た。
「頂くわ」
慌ててにっこり微笑んで、華奢なグラスを受け取る。恭しく頭を下げて去って行く男を見届けてから、透き通ったピンク色の液体にそっと口をつけた。ほとんどジュースのような酒だ。ほんのり甘くておいしい。
「ふう」
もう一度ため息をつく。どちらかと言えば人見知りなわたしにとって、こういった社交的な場は少し苦手だ。周囲の人間もそれを知っていて、あえて話しかけようとする者はいない。唯一の例外は夫だけだったが、今わたしの隣に彼はいない。
夫の姿はすぐに見つけられた。広間の隅に不自然な人だかりが出来ていて、彼はその中心に立っている。遠目に見ても夫の姿はよく目立つ。白く輝く銀色の髪。思慮深いエメラルドの瞳。静かに微笑む薄い唇。すらりとした長身に漆黒の夜会服を纏った姿は、いっそ神々しいほど美しい。
皇帝、ソニエール=ロウ=ベルーシ。
ベルーシ帝国の最高権力者である夫はさっきからずっと広間にいて、群がる貴族達の相手をそつなくこなしている。わたしには到底真似できないし、夫もそれを期待していない。今わたしに求められている事は、皇妃として、ただここで人形のように座っている事だけ。
………馬鹿みたい。
グラスの中身を一気に飲み干し、側に控えているメイドを手招いた。
「いかがなされましたか?」
「気分が優れないから、今夜はもう部屋に下がるわ。後で陛下に伝えておいてくれる?」
「かしこまりました」
靴を履いて立ち上がり、ひっそりと目立たないよう出口に向かう。背中に視線を感じたような気がしたが、おそらく気のせいだろう。わたしがいなくなっても、誰も気に留めはしない。そのまま一度も振り返る事なく、賑やかな広間を後にした。