05.彼の娘
「この乳母車は必要か?」
陽気に先を行く友人の灰色の外套に向かって、チャールズが不満げに声を上げた。
「ジェシカちゃんにぴったりでしょう?選ぶのに随分迷ったんだから」
にこーっと笑みを背後に向けて答えたエドマンドに、チャールズは大きな溜め息を漏らした。この二人の言い争いは、チャールズの家の前を出発した頃から続いている。
チャールズが押す乳母車は、極最近に出回り始めた一般的な乳母車であるが、男性が押して歩くには少々…いや、かなり抵抗がある代物だ。
赤子の顔を親が見られるようにと工夫され、ご丁寧に折り畳み式の日除けもついている。
女の子用に作られた薄い紅色は目を惹き、ひだ飾りや紐を形よく結んだ飾りなどもいざ知らず、真っ白な日除けがさらに乳母車を惹きたさせていた。
カラカラと音を立てて、街中を行く。人通りが多い煉瓦造りの街を薄汚れた黒の外套を纏う異様な男、チャールズが通り過ぎる度に、すれ違った人々は足を止めて彼を視線で追った。
建物の門で立ち話をしていたご婦人達は、チャールズを見てひそひそと声を潜めて横目で見やっている。そんな視線を受けるエドマンドは、やあやあと手を上げて颯爽と歩くが、チャールズは終始むっつりとしたままだ。
明らかに目を惹くこの乳母車も気に入らないが、こんな乳母車を用意して使えと言い放った友人に腹も立てているのであろう。
真新しい乳母車を押す、ぼさぼさ頭に擦り切れた黒い外套を纏う男性。
その様子を端から見れば、可笑しいと笑うかひそひそ話をする者に分かれるだろう。
全く持って、チャールズが気の毒である。
「よく似合ってるよ、お父さん」
ご機嫌で役所への道を行きながら、エドマンドが言う。
「…後で覚えておけ」
「何のことだろう?」
凄みが効いたチャールズの声色もなんのその。口笛まで吹き始めた友人に、チャールズはがっくりと肩を落としたのだった。
「とぉちゃ~く!チャールズはここで待ってなさい、君がいたらややこしいことになるんだから。僕がちゃっちゃと書類を書いてくるからさ」
すぐ済むと願っててなどと言って、かなり数段がある石造りの階段を駆け上がって行った。
その姿を見送って、ふぅと息を漏らして煤で汚れた黄土色をした煉瓦の建物に背中を預けた。
「すみません、ちょっとよろしですかな?」
そこへ声を掛けて来たのは、藍色の服に金色のボタンを輝かせた警察官達。揃いの円筒型の帽子と真鍮の革帯の留め金、腰に短い警棒を下げている。
逃げ場所を塞ぐように、図体がでかい三人の警察官がチャールズに立ちはだかった。
正面に立つ警察官が、そう言ってチャールズを見上げた。左右の警察官は、腰に常備している拳銃を直ぐに打てるように手を添えている。
随分と警戒されているなと、どこか他人事に考えていたチャールズに、警察官が更に言った。
「二、三質問をさせていただきたいので、署までご足労頂けますか?」
「質問があるなら、ここで聞けばいいだろう」
可笑しな事を聞くなとチャールズが笑うと、正面にいる年配の警察官も笑った。
「そうですね、最も困るのはあなたですから」
「?」
言っている意味が分からないと首を傾げるチャールズに、警察官は胸元から黒い手帳を取り出して何やら書き連ねた。
「では、あなたのお名前と住所、ご職業を」
「チャールズ・トールキン。住所は…」
つらつらと答えるチャールズに、警察官も手帳に書き込んでいく。人通りが多い中でのその光景は人々の目に留まる。
「職業は王宮魔法使い」
「は…?」
チャールズが言った言葉に手を止めてぱちくりと瞬きしてから、警察官はオウム返しのように聞いた。
「魔法使い?」
そうだと首を縦に振るチャールズを怪訝そうに見やってから、小馬鹿にしたように小さく笑って警察官は言った。
「君、警察官を舐めちゃいけないよ?いくら王宮魔法使い殿でも、こんな街中でぶらぶら出歩いているわけないだろう。さぁ、本当の職業を言うんだ」
いや、本当の職業であるが…。
本当の職業を言ったというのに、本当の職業を言えと強制するのはいささか無理がある。
困ったと黙ったチャールズを警察官が厳しい目つきで睨んだ。
「なんだい、言えないのかい?そうだろうねぇ、赤子を盗んだ誘拐犯なんだから」
「うん?」
なんだと?今このおじさんはなんと言った?と目を剥いたチャールズを何を勘違いしたのか、自信満々に彼の腕を引っ張りながら言った。
「おや、図星のようだね。さぁ、署でゆっくり話を聞こうじゃないか。もう一人の仲間の居場所も洗いざらいはいてもらうからな」
強引に警官にひきつられて行きそうになっているチャールズ。そんな彼を助けたのは、やや焦ったように叫ぶ友人の声だった。
「ちょ―っ、と待ったあ!」
長い階段を勢い良く駆け下りてきたエドマンドは、チャールズと警官の間に強引に割り込むと、両手を広げて警察官達に勇敢に立ちはだかった。が――
「出たな、もう一人の誘拐犯めっ」
二人の警察官は拳銃を取り出して、エドマンドに向け今にも発砲しそうに構えた。
「わぁ!なになに、なんなの!?たんま、たんま!」
「二人とも両手を上げて、ゆっくり後ろを向け!妙な真似をしようものなら、容赦なく打つからな」
銃を突きつけられ、両手を上げて、仕方なく二人は背を向けた。
「拳銃を向けられるようなことしてないけど!」
「ジェシカを拾ったのは、誘拐になるのか?」
「そんな馬鹿な筈あるわけないでしょっ!」
お馬鹿っ!真面目に考えなさいと怒るエドマンドに、チャールズは小さく肩をすくめた。
「こら、なにを喚いている!仲間割れなら刑務所に入ってからにしろ!」
「誰と誰が仲間だって?こいつとは長い付き合いだが、相棒などと思ったことは一度もない」
「酷いね、チャーリー!僕、さり気なく今、傷ついたよ」
きっぱりと言い切ったチャールズに、嘘泣きをしながらエドマンドは続けた。
「本当に冷たいよ、チャーリー」
「あいつら魔法でぶっ飛ばしていいか?」
「聞いてないし!というか、ダメダメ!そんなことしちゃ!」
慌てるエドマンドに、チャールズがふと脇に視線を逸らした。
「うちのジェシカに触るなっ!」
突如として上がったチャールズの怒声に、エドマンドも飛び上がって驚いた。
見れば、一人の警察官が乳母車に乗った赤子を腕に抱えていて、チャールズは銃口を向けられている中、俊敏な動きで赤子を奪い返した。
「…うちのジェシカって。父親?」
呆気にとられる警察官をよそに、泣き出した赤子をあやす姿はまさしくまだ半人前の父親、そのものであった。
「そうだ、ジェシカは俺の娘だ」
きっぱりと言い切ったチャールズに、警察官達が戸惑ったように言った。
「いや、だって全然似ていない…」
「気が済んだ?警察官の皆さん。彼女は、ジェシカ・トールキンちゃん。三日前に僕の友人であるチャールズが拾ってきたんだよ。今日、彼女の手続きにやってきたところだけど?」
文句あるかと睨みを効かすエドマンドに間抜けな視線を向けて尋ねた。
「あなたは…?」
「エドマンド・ヘンシェル。ここいらじゃ、ちょっとは名の知れた人物だとは自分でも思ってたんだけどね」
ムスッとして名を言ったエドマンドは、腕を組んで片方の人差し指で腕をトントンと叩いて警察官達を眺めている。
「エドマンド・ヘンシェル!?」
仰天したとばかりに声を上げたのは、一人の若い警察官。
「誰だ?それは」
「知らないんですかっ!郊外まで名の知れた…女好きですよ」
うんうんと彼の言葉に相槌を打っていたエドマンドは、カクッと拍子抜けしたように力を抜いた。
「小さな女の子から老女まで、来るもの拒まずの男だって…」
「ほぉー」
冷ややかな視線を寄越す警察官達に、エドマンドが慌てて反論した。
「ちょっとちょっと!女好きとは失礼だなっ。確かに来るもの拒まずは否定しないけど、僕は老女も子供も趣味ではないよ。これでも公爵なんだからさ、君達を名誉毀損で訴えるよ。全く…。チャーリー、君までそんな目でみるのかい?」
白い目でエドマンドを見るチャールズは、無言で視線を逸らした。
「…ヘンシェル公爵っていうと王妃殿下の生家じゃないか」
たった今思い出したと口にする年配の警察官が目を見開いて言い、その後を若い警察官が後を続けた。
「ってことは…」
「はいはい、そこまで!ほんとかどうか調べたいなら、一旦戻ってからにしたら?僕達は逃げも隠れもしないからさ」
「いや、直ぐにバレそうなこんな嘘を警察に付くはずないからね」
「そう、そりゃ良かった。じゃあ、もう行っても?この後、予定が立て込んでて」
「それは失礼した。しかし…」
ちらりとチャールズを見やった警察官は、苦笑しながら親指を彼に向けて言った。
「彼、魔法使いだなんてもう少しマシな冗談を言えやしないのかい?」
「ま、魔法使いになりたいって昔から彼は言っててさぁ。憧れてるんだよ」
「まぁ、人の趣味をどうこう言いたくはないが、もう少し紳士たる服装はどうかと忠告してあげたらどうだい?」
あれじゃ、変質者に間違われても文句は言えないと続けた警察官に、エドマンドは苦笑いを浮かべて答えた。
「…言うだけ言ってみるよ」
その答えに満足したのか、年配の警察官は笑みを浮かべてチャールズに向き直った。
「トールキンさん、とんだ失礼をしました。申し訳ない」
「いや」
短く答えたチャールズから今度はエドマンドに向き直り、帽子を取って丁寧に謝った。
「ヘンシェル公爵にも、お時間をお取りして大変失礼を致しました」
「気にしてないよ、出来れば二度とこんなことが無いようにして欲しいけど」
肩をすくめて答えたエドマンドに勿論です、と返して帽子を被り直した警察官は、銃を収めた二人の警察官を引き連れて去っていった。
「なんだって?」
「もっと紳士たる服装をしろだってさ。その服装じゃ、不振者にしか見えないって」
警察官が去った後、チャールズがそう尋ね、エドマンドは肩をすくめて答えた。
「そう言われてもな…」
「君のお婆さんから貰ったっていう、その外套をせめて綺麗にしたらどうだい?」
困ったと自分の服装を見るチャールズに、溜め息をつきながらそう提案した。
「…考えておく」
「ぜひ、検討して欲しいね。こんな事は二度とごめんだから」
そんなことを言いながら歩き出したエドマンドに、乳母車にジェシカを乗せたチャールズが続く。
「とりあえず、ここから離れよう。僕達は今、街の見せ物になってしまっているからね」
参ったと歩き出したエドマンドと並び、チャールズも足早にその場を離れた。どっしりとした役所の周りには、先程のやりとりを見ていた見物客で溢れていた。
「で、友人の窮地を救った親友に何か言うことは?」
店が並ぶ路地へとやってきた二人。とある店の前で立ち止まったエドマンドが、おもむろにそう切り出した。
「…助かった」
その一言を聞いたが、エドマンドはじとっとチャールズを睨んだままだ。しばし経ってから、チャールズが溜め息を零して言った。
「ありがとう、エドマンド」
「どういたしまして」
よろしいと満足げに答えたエドマンドは、硝子戸を押し開けようと店の扉に手を掛けた。
「しかし、どうして魔法を使ってはいけないんだ?」
それを引き止めたのはチャールズの問いだった。店の扉の取っ手に手を掛けたまま、きょとんと彼を振り返ったエドマンドは、わかってないなという風に首を振って言った。
「街中で、自分は魔法使いだなんて口外してご覧よ。他人様の前で魔法を使う事も同じだけど。君は瞬く間に困っている人にあちこち引っ張り回されて、それを危惧した王家の人に王宮に缶詰め状態にされるだろうよ。もっとも、君が好んで慈善事業をすると言うならば、話は別だけど?」
友人の言葉を黙って聞いていたチャールズは、ちらりと視線を空に向けて想像し、その想像した光景が恐ろしいとばかりに首を横に振った。
「ほらね、だから言ったんだよ。外に出たら、王宮に仕えるただの役人だって言ってればいいのさ。君は正直過ぎるよ…」
そう続けて、扉に備え付けてあった小さな鐘を鳴らして店内に入って行った。若い女性の店員が、二人組みの男性と赤子を見てから一瞬、怪訝そうな顔をしたが、さすがは販売員。営業特有の微笑みを顔に張り付かせて声を掛けてきた。
「いらっしゃいませ。どういった物をお探しですか?」
「いや、僕は友人について来ただけ。彼の娘の洋服を選びにね」
柔らかな笑みを浮かべて店員を相手にするエドマンドをチャールズが、じろりと睨んだ。その様子に若干怯えながらも、エドマンドはチャールズを服選びへと無言で促した。
渋々といった風に赤ん坊の洋服が並ぶ店内を見回りだしたチャールズ。その様子を眺めていたエドマンドに、斜め後ろにいた店員が控えめに声を掛けた。
「あの…。失礼ですが、あの方が抱えている赤ちゃんは、本当にあの方のお子さんですか?」
全く似ても似つかない親子に、誰もが思う質問を口にした若い女性は、振り返ったエドマンドの笑みに顔を赤らめた。
「うん、彼女は彼の娘。ジェシカ・トールキンって言うんだ。二人が似ていなくて同然だよ、だって血が繋がっていないんだから」
「そ、そうでしたか。失礼致しました…」
慌てて謝罪した店員に、エドマンドは笑みを深めて言った。
「大丈夫だよ。彼らを見たら誰だって思うだろうから…だけどね」
そっと店員の耳元に顔を近付けたエドマンドは、笑みを湛えたまま小さく呟いた。
「二度も同じ質問をしたら許さないよ?」
さぁっと顔から血の気が抜けたその店員に、にっこりと笑いかけ別の店員に捕まって終始困っている友人の元へと踵を返したのだった。