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04.娘の名

お嬢さんのお名前が漸く登場です。

幾分か涼しくなった気候が、晴れ間が覗かぬ都市部を包んでいる。

今日は特に天気が優れず、どんよりと曇った空色は慣れない育児で、ぐったりと疲れたとある男性の気分そのものである。

赤子を拾って三日とも経たないこの日、居間にある擦り切れた薄青の長椅子で既に突っ伏して動かない彼。チャールズの家の中は、一人暮らしの男性に不似合いの雑貨が、家のほぼ半分を占めている。

買って来たのは勿論彼ではない。あれもこれもと言って品を買い占めたのは、友人であるエドマンドだ。おまけに彼は、余っていた二番目に大きい部屋をまだ寝返りも打てない娘のために使おうと明け渡しを言い渡したのだ。


「まだ小さいからいいけど、大きくなったら女の子には部屋が必要になるからね」


そう言って、家主である彼の私物を部屋から放り出し、女の子らしい家具で勝手に飾り立てた。それは階段を上がり迂回した一つ目の部屋で、日光の入りがとても良い部屋である。


「何故、こんなものが必要なんだ?」


部屋の明け渡しは渋々納得したチャールズ。しかし、彼自身の寝室に赤子専用の寝台を置かれた時にはさすがに不満を漏らした。その辺にある寝台で充分だろうと抗議した彼に、エドマンドはこう言い放った。


「君の可愛い娘が、うっかり寝台から転げ落ちたらどうするの!赤ん坊は、ちょっと目を離した隙に何をするのか分かんないだからね!」


肝に銘じておきなさい。そう言って、天井から回転する玩具をぶら下げた。回る度にカラカラと音を立てる玩具を見て、チャールズが素直な感想ポツリと漏らした。


「それは必要な物なのか?洗濯物を干したほうが効率が良いと思うが」


まだ父親の自覚が薄い彼に、エドマンドが片眉を吊り上げ、憤慨したように言い返した。


「…本当に洗濯物をぶら下げたら、承知しないからね!」


友人の剣幕に首をすくめたチャールズは、これ以上文句を言われたらたまったものじゃないと、そそくさと一階へと降りようとした。


「…なんだこれは」


一階へと降りる階段の始まりに備え付けてある小さな柵。こんなものはいつ付けたのだと開けっ放しの部屋を見やった。



「あぁ、それ?あの子が動き回るようになったら、階段から転げ落ちたりするかもしれないから付けたんだ。弟が這い出した時に、落ちたことがあるからさ。あー、壊さないで!それ、結構高かったんだよ?柵をちゃんと元の位置に戻しといてね」


突き当たりの部屋から顔を覗かせ、あっけらかんと言って顔を引っ込めた彼に、チャールズは大人しく上質な木で作られた柵を扉のように押して階段の境に位置付けた。


「ふぇ、あぁーん。うわぁん!」


「あ、起きたみたいだ。ささ、お父さん早く!お呼びだよ。…はい、駆け足っ!」


家の中に響いた大音声を合図に、エドマンドが部屋から出てきてそう言った。パンパンと両手を叩いてチャールズをせき立てて、赤子が眠る居間へと追い立てた。単純な彼は、エドマンドの言った通り駆け足で急な階段を下り、居間へとすっ飛んで行った。

一階には濃い青色をした絨毯が敷かれ、廊下に面して客室と手洗い、台所と居間が一続きとなった部屋が順にある。居間に入ると長椅子に寝かされた小さな赤子が視界に入る。その子供をおどおどとした態度で抱き上げ、後から入ってきた友人を見やった。


「うーん、オムツかな?」


エドマンドは、しばしその光景を眺めてからそう言い、ごそごそと近くにあった鞄から肌触りの良い布切れを取り出した。


「はい」


困惑するチャールズをよそに、布切れを差し出して促した。


「これから、君が下の世話もするんだから」


さぁ、と促す彼に促され、長椅子に赤子を寝かしてあてがわれている布を取り外した。


「まずは、綺麗にしてあげてからね。…あぁ、ダメダメ!」


たっぷりと水気を含んだ布を脇へ押しやり、体を綺麗にしてやってからぞんざいに布をあてがったチャールズの背後から、エドマンドが注意した。


「そんな緩かったら、オムツの意味がないよ!縛り過ぎても駄目だけど、崩れないようにもしないと。…あんまり時間がかかってると風邪を引いてしまうから気を付けてね」


赤子の世話を初めてする初心者に対して、無茶な注文をつけるエドマンド。そんな彼に小言を漏らしながら、チャールズは彼の許可が出るまでせっせっとオムツをやり直した。


「うーん、まぁいいでしょ。初めてにしては上出来じゃないかな」


十回近くやり直したオムツを確認して、エドマンドは漸く許可を出した。


「次はミルクの作り方を教えるから」


自分の出来る事は全てやり切ったと長椅子で一服するチャールズに、濃い緑色をした襟付きの肌着の裾を捲りながらエドマンドが手招きした。

小さすぎず、大きすぎず。上質な木材で作られた台所は、あまり使われていないようでとても綺麗である。一人暮らしにしては充分過ぎるほどに整った台所で、二人の男性が肩を並べて立っている。


「まずは湯を沸かすでしょ、それから粉末状のミルクを…」


いつの間に用意したのか、殺風景だった台所に硝子の哺乳瓶が並び、賑やかになっている。


「んで、よーく振ってから温度を調節」


「温度?」


「そう、手の甲に…」


チャールズの甲に、ぽたりと雫を落としたエドマンド。


「あちっ!」


「やっぱり、まだ熱いか」


飛び跳ねて手を振る彼に、ふむと考えるように哺乳瓶を見つめていった。熱い熱いと手を冷まそうと息を吹きかける友人には、全く目もくれない。


「目安は人肌の体温だよ」


その哺乳瓶を押し付け、長椅子に掛けていた灰色の外套に袖を通して言う。


「どこに行くんだ?」


「兄上に呼び出しを食らってね。一旦戻るよ」


不思議そうにエドマンドの背中を見つめて尋ねた友人に、顔だけを向けて笑ってひらひらと手を振った。


「また来るよ。必要な物は揃ってる筈だから」


「ちょ、ちょっと待て!エド、一人じゃ無理だ」


哺乳瓶片手に廊下まで追ってきたチャールズが、縋るようにそう叫ぶ。だが、エドマンドは颯爽と裾がやや長い外套を靡かせながら廊下を歩いてゆく。


「やってもいないのに、無理だなんて決めつけてはいけないよ。まずは自分でやってみなければね。どうしても分からない事があったら、お隣のラスキン夫人にお聞き。話は通してあるからさ!」


今にも閉じようとしている扉の隙間からそう声を張り上げ、エドマンドは派手な音を立てて扉を閉めた。その際、長年扉に吊され、色もすっかり落ちてくすみ干からびた花の束が、ぼとんと鈍い音を立てて廊下に落ちた。

再び上がった泣き声の中、ほとほと困ったというように哺乳瓶片手に廊下に佇んでいたチャールズは、閉まった玄関扉と背後の部屋を見比べてうなだれた。やがて、左手の人差し指を振って玄関の鍵を掛け、居間へと戻って行った。

エドマンドが言っていたラスキン夫人。薄汚れた赤煉瓦の家、チャールズの自宅を正面に捉えて、直ぐ左隣がそのご婦人の家だ。長年、教師として教壇に立ち、見合いによって同じ教師のアドルフ・ラスキン氏と結婚するまでは、近所の小学校で働いていた女性である。

男児を三人も育て上げた彼女は、不規則な生活をする隣人のチャールズに何かしら理由をつけて干渉し、本人に大層迷惑がられているという事を知らない。四人目の息子としてチャールズを気にかけ、よく彼の家に入り浸っているエドマンドも息子同然に可愛がっている彼女。エドマンドは年老いたそのご婦人と仲がよいみたいだが、チャールズにはエドマンドに次いで煩い、ただの隣のお婆さんとしか認識はない。


現在、彼女の名前を聞いて物凄く嫌な顔をしている彼にとって、最も苦手とする人物だと紹介しておこう。


さて、居間に戻ったチャールズ。


「人肌とはどのぐらいの温度だ?」


首を捻りながら、ペタペタと哺乳瓶を触って唸る彼は、終始哺乳瓶とにらめっこしている。赤子の泣き声は次第に大きくなり、彼を悩ませた。


因みに言っておけば、彼の平熱は一般人よりもかなり低い。エドマンドは、人肌と言っていたのだから同然、ミルクの温度もかなり低くなった。

水に近いミルクを赤子が飲むはずもなく、泣き声はさらに大きくなり、心配したラスキン夫人が呼び鈴を鳴らす音に挟まれて、まだ半人前の若いお父さんは途方に暮れていた。


柔らかな茶色の髪と活発そうな赤い瞳を持つご婦人に指導されながら、その日一日を何とかやり過ごしたチャールズ。しかし、夜泣きの度に起こされ、なかなか寝付かない赤子の世話で、彼は目の下に隈を作り、ほとほと参った様子であった。


エドマンドが帰ってからというもの、彼にとっては散々な日々だったと言えよう。


「はあーい!チャールズ、元気かい?」


そして今日もまた、その元凶を作り出した人物が彼の家にやって来た。


「おや、まだ寝ているの?こんなに良いお天気なのに…ってそうでもないか」


外の天気とチャールズの家の雰囲気に不似合いな、元気一杯の挨拶を響かせたエドマンドは、長椅子に寝間着姿のまま突っ伏す彼を横目に見ながら、居間の窓掛けを開け放してそう呟いた。


「おーい、チャールズ?起きてるかい」


ボサボサの藍色の髪の近くで声をかけたが、返事がない。


「…寝させてくれ」


「なんだ、起きてるんじゃないか。さぁさぁ、起きた起きた!顔を洗って、着替えておいで」


蚊の鳴くような声で答えたにも関わらず、普段にするような会話をするエドマンドはチャールズの背中を叩いた。


「こらこら、寝ないで!起きるんだよ、もう昼前じゃないか」


また静かになったチャールズの服を引っ張りながら、エドマンドは柱に備え付けてある時計を見やった。


「…眠い」


いつから着ているのか。既に伸びきった濃い灰色の肌着をエドマンドに引っ張られて、彼は漸く体を起こした。しかし、金色の瞳は瞼に隠れたままで、彼がまだ完全には覚醒していないことが窺える。


「はいはい、おとーさんは大変だね。でも、今日は行かないといけないところが沢山あるんだから。早く準備をしてきて」



チャールズを二階にある風呂場にせき立ててから、すやすやと眠る赤子を覗き込んでにっこり微笑んだ。


「名前を決めなくちゃね」


「名?」


「そう、この子の名前」


どこから出してきたのか、山のような本を両腕に抱えてエドマンドはそう切りだした。

顔を洗い、白い襟付きの肌着と黒の洋服姿に着替えたチャールズは、赤子を腕に抱いて首を傾げた。


「さぁ、資料は持ってきたから。どんな名前がいいかな」


「エドマンドが決めればいい」


「父親である君が付けなくてどうするの!」


赤子をひったくるように奪い、代わりに分厚い辞書のような本を彼の膝上に、ドスンと鈍い音を立てて落とすと呆れたように彼を見やった。


「いいかい?今日、役所が閉まる時間までに決めるんだ。そうじゃないとこの子が…」


「わかった、わかった!決めるから、静かにしていてくれ」


ぎゃあぎゃあと喚くエドマンドを半ば強引に黙らせ、膝の上に置かれた本を一冊開いた。本を開いた際に、胸元から古びた眼鏡を取り出してかけた。それは、彼が意識を集中させて物事を考える時の癖であった。

そんな彼を眺めながら全くと呆れたように呟き、友人は赤子を腕に鼻歌を歌い出した。


二時間が経過した頃。


「…で?居眠りをするほど余裕綽々だったお父さんは、どんな名前を決めてくれたのかな」


長椅子に座るチャールズに、エドマンドの拳がうたた寝をしていた彼の頭に命中してから、嫌みったらしく聞いた。


余りに静かだと部屋に戻って来た彼は、長椅子の上で眠りこけているチャールズを見て渾身の一撃をお見舞いしたのだった。


「なにも殴ることはないだろう」


頭をさすりながら忌々しげに彼を睨んで、ちょっとうたた寝をしていただけだと言い返した。


「僕は言ったよね!役所が閉まる前に考えてって…。夕方には閉まるんだよ!」


「ここから役所まで、十五分で行けるだろう」


「そうだけどさ、手続きや何やらで…」


「ジェシカだ」


「へっ?なんだって?」


ぶつぶつ呟きを漏らして部屋を徘徊するエドマンドに、チャールズが伸びをしながら言った。


「ジェシカちゃんねぇ。可愛いじゃないか。ふーむ、良いんじゃない?ジェシカ・トールキンね」


赤子を覗き込んでそう呟いたエドマンドをよそに、チャールズは無造作といった風に、彼の近くに置かれていた黒い外套に腕を通して振り返った。


「…役所に行くんだろう?」


すたすたと玄関へと向かうチャールズの後ろ姿を呆気にとらえて見送ったエドマンドが、したり顔をうっすらと浮かべて外套を手に取った。


「ふーん?」


なにやら楽しそうな呟きを小さく漏らしたエドマンドは、部屋を出て足早に友人の後を追ったのだった。



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