02.拾った
煉瓦で造られたとある住宅街を黒い外套を纏った男が、たいそう急いだ様子で駆けていく。煤で薄汚なく汚れた街中は、お世辞にも綺麗とは言い難く、発展途上を迎えたばかりといった街の風景が広がっている。
そんな大都市の空色は、今日が始まったばかりの早朝だというのに、街はどんよりと曇って薄暗く、人が道路に溢れていた。
馬車と開発されたばかりの質素な車が街を行き来し、小綺麗な身なりをした紳士が会社へと向かう途中だろうか、幼い少年が配る新聞を買っている。
そんな雑然とした街中を手提げかごを抱えて、人混みを鮮やかに縫っていく一人の男。誰の眼にも止まらぬその身のこなしで靡く彼の外套は、排気汚染で汚されたこの大都市の空気を含んで舞い上がった。
緑も無い煉瓦の建物が身を寄せ合う路地に、ものすごい速さで颯爽と現れた彼は、流れるような動きでとある家の前にある数段の階段を上がった。焦げ茶色の上品な色合いをした重い扉を肘で押し開ける。
それは、似たり寄ったりの家々がずらりと並ぶ、通りの角から数えて三番目の薄汚れた赤煉瓦の家であった。
彼は僅かな隙間を開けるとすぐさま身を滑り込ませ、無造作に背後の扉を足を使って閉め切り、外の雑音を遮断した。
重々しい音を立てて扉が閉まった。
その音をぼんやりと聞き流した彼は、薄暗い玄関から一歩の動かずに直立不動の体制で、息を殺して佇んだままだ。
ぼんやりとした朝日が、微かに入る玄関先で。日に当たったこともないような白い肌の薄い唇から、か細い震えるような吐息が漏れている。
どれくらい、玄関先に佇んでいただろうか。
玄関にやや明るい日射しが差し込んで影を作り出し、どこからか朝を告げる鐘の音が聞こえた。その音を聞いた彼は、のろのろと家の奥に向かって足を進め始めた。それこそ亀より遅い速度であったが、目の前にあった階段の脇をゆっくり通り過ぎていく。
綺麗とも汚いとも言えない、やや散らかった家の中は、一人暮らしの男性には少し持て余すように思う。
まるで、住みたくて住んでる訳ではないと言うように進む彼が、はたと立ち止まって手元にあったかごに視線をやった。
すやすやとよく眠る赤子を今更気づいたとばかりに凝視し、くるりと後ろに向き直った。次の瞬間、彼は何を思ったのか全力疾走で廊下を迂回して階段を駆け上がった。それこそ、先程ののろい速さは何だったのかと言うほどの俊敏さであった。
「エド!エドマンドっ」
階段を駆け上がり、突き当たりにある一つの部屋の扉を開け放ちながら名を叫び突進した。
通りに面したその部屋は、中央に置かれた大きな寝台が一つ、他は洗濯物に埋もれた肘掛け椅子が一つあるだけだ。
「エドマンド!起きてくれ」
真っ直ぐ部屋を直進する彼は、寝台の上にこんもりと毛布が盛られた山へ再び声をかけた。
「う~ん、うるさいなぁ」
もぞもぞと山が動き、ちらりと毛布の端から柔らかく細い赤毛が顔を出した。
「エドマンドっ!」
「…るさいっ!僕は今、誰かさんのせいで寝不足なんだ!やっと手に入れた安眠を妨害しないでくれっ!」
枕元で声を大にして叫んだ彼に、我慢ならないと言った風に寝台で丸くなる青年が毛布から顔を出して怒鳴った。髪は寝癖で乱れているものの、羨ましくなるほどの鮮やかな赤毛だ。その毛色に似合う、美しい緑の瞳が怒りに燃えて彼を睨み、青年は再び横になった。しっかりと灰色の毛布にくるまったエドマンドという青年を、瞬きを繰り返して見つめていた彼。
エドマンドが安らかな寝息を立て始めた頃、今度は揺すり起こそうと両手を伸ばした。しかし、両手がかごで塞がっていたことを今更ながらに気づいて、それを床に置いた。
薄い灰色の毛布の端を掴み、一気に引き抜く。
彼が身を背後に向かって踏ん張るほど、毛布は不気味な音を立てる。毛布が引きちぎれる寸前、青年は剥き出しの冷たい床へと派手な音を立てて落ちた。
お尻を強かに打ちつけて呻く彼。そんな彼を藍色の髪を持つ青年が、冷ややかに見つめている。
「ったぁー!」
「エドマンド、どうしよう」
「なにが!?僕は君に対してどうしようって気分だよっ!今は非常に眠いって言ったよね、ほっといてくれってさ!」
信じられないと声を上げ、床に腰を落ち着けたまま青年を見上げている。両手を上げてお手上げだという姿勢を取り、淡い青色の上下揃いの寝間着を着るその姿は、随分と滑稽であるが。
「いつも、昼過ぎまで寝ているだろう。…寝過ぎだ」
「お言葉だけどねっ、さっきも言ったけど誰かさんのせいでいつも寝不足なんだよ!」
「…誰のせいだ?」
「君のせいだよっ」
はて?と首を傾げる金色の瞳を持つ青年は、怒る彼を平然と見つめている。
「いいかい!この際だから言わせてもらうけどね、チャールズ。君は国の魔法使いなんだっ、もっと自覚を持って行動してもらわないと困るっ!毎度毎度、行き先も告げずにふらりと居なくなっては、ふらりと戻ってくる。そのたびに僕は兄上に引っ張りだされて、君からの連絡を寝ずに待たなくてはいけないんだよ。で、今回は何日ろくに寝れなかったと思う?五日だよ!五日っ!帰ってくるっていう連絡があったから、やっとゆっくり寝れるというのにさっ、君って奴は…」
彼は力強く立ち上がって喚きながら、チャールズと呼んだ青年に身を乗り出して怒りをぶつけている。彼と青年の顔の距離は、僅か拳一個分にも満たない。その剣幕に圧されていた、チャールズという青年。最初は彼の声の音量で驚いていたようだったが、彼が言っているように怒られるのは毎度のことらしく、嫌みったらしく小言を語る彼の言葉を聞き流している。
「聞いてるのかい!?チャーリー!」
腰に両手を添えて大音量で怒鳴った彼に、チャールズはすかさず床に置いていた手提げかごを拾って押し付けた。
「…なんだろうか、これは」
先程の怒りはどこへやら。きょとんとかごに視線を落とした彼は、怪訝そうにそう言ってチャールズを見た。
「どうしよう」
「…質問に答えてくれないかな、チャールズ。この子をどうしたんだい?」
すやすやと眠る赤子を手に、見当違いの答えを言うチャールズに、イライラと寝間着姿の彼は再度違う質問をした。
「拾った」
「…そうかい、拾ったのかい。って、えぇ!拾っただって?」
なんてこったと目を見開いた彼は、頭が痛いと寝台にふらりと腰掛けてかごをぐちゃぐちゃの毛布の上に置いた。しばらくうなだれていた彼は、溜め息をついて顔を上げた。
「…拾ったって。全く、もう」
呆れて物も言えないという様子の彼に、チャールズが同じ質問を投げかけた。
「どうしよう、エドマンド」
ちらりとチャールズを見やったエドマンド。その淡い緑の瞳は、透き通るほど美しい。日だまりのような温かい笑顔が似合いそうな、そんな顔に不似合いな低いうなり声を上げて彼はチャールズに聞いた。
「あのさ、本当に君が拾って来たの?」
「…道路に落ちてた」
「落ちてたって。で、“君自身が、拾ってきたの?”」
エドマンドの質問に、少し間を開けて考えていたチャールズ。視線は忙しく宙をさまよっている。
「…道路のど真ん中にいて。びっくりして、持って来てしまっていた」
「うん、内容的にはカスカスだけど大体分かったよ。チャーリー、それは拾ったとは言わないね」
意味が分からないと首を傾げる青年に、エドマンドは酷く疲れたように言った。
「君がさっき言ったように“持って来た”って言った方が、正しいんじゃないかい?」
あぁと小さく納得したチャールズに世話が焼けるというように、柔らかな赤毛をぐしゃぐしゃと右手で掻き、独り言を漏らした。
「とにかく、この赤ん坊をどうにかしないと。一番良い方法は孤児院だろうけど」
「…エドの家で育ててくれないのか?」
「ちょっと待って、どうやったらそういう発想になるの?」
訳が分からないと顔を上げたエドマンドをチャールズが、見下げて答えた。やや背が高い彼は、下から見上げると随分と威圧感がある。
「お前の家には、ちょろちょろと動くチビ共がいるだろ」
「あのねぇ、三人の内、二人は兄夫婦の子供達。一人は僕の弟!チビ共だなんて犬みたいに言わないでくれる?」
「一緒だろう?」
「違うよっ!失礼だな、君は」
全く、これだから…とぶつぶつ呟いていたエドマンドは、大きな欠伸をして立ち上がった。
「とにかく、風呂に入って身支度をするよ。こんな身なりのままなんて許せないからさ」
「赤ん坊はどうしたらいい」
「君が見といてよ、どうせ暇をしているんだろ?少しの間だからさ」
「…お前の風呂を待ってると日が暮れる」
悠然と部屋を出て行く彼の後ろ姿に、チャールズはそう呟いたが当の本人はひらひらと手を振って部屋を出て行った。
エドマンドの後ろ姿を見送ったチャールズ。彼は、困ったとすやすやと眠る赤ん坊を覗き込んだ。
まぁ、よく寝ているから、しばらくは起きないだろうと高をくくり、チャールズは窓辺に歩み寄ってパッとしない空を見上げた。ぼんやりと空を眺めていた彼の元に、生まれたばかりの赤ん坊の泣き声が耳に届いた。
「…ふぇ、ん」
たちまち大音量で泣き出した赤ん坊に、慌ててチャールズが駆け寄った。
「ど、どうした。え、え、え、エドマンドっ」
あたふたと部屋を行ったり来たりするチャールズに、赤ん坊はさらに声を上げて何かを訴えた。
いつも聞こえてくる音は、外からの雑音ばかりであるひっそりと静かな住宅街に、産まれて間もない赤ん坊の泣き声が響き渡る。
小さな体で大きな泣き声を上げる赤ん坊に、すっかり慌てているチャールズは困ったようにそっと赤ん坊を抱き上げた。腕で包み込むように恐る恐る。その姿を茶色の瞳が、その姿を曇りなく映しだしていた。
赤子が、とろんと瞳をゆっくりと閉じたところで、チャールズは戸口に佇む人物の気配に気がついた。
「エドマンドっ、急に泣き出したんだが今度は動かなくなった」
死んだんだろうかと狼狽える彼の姿を凝視していたエドマンドが、ゆっくりと口を開いた。
「…寝たんだろうよ」
なんだと息をつくチャールズに、よろよろと開いたままの戸口に身を寄せた。
「…なんだ?髪ぐらい乾かせ」
赤子を腕に抱いたまま、怪訝そうに眉を寄せる視線の先には、まともに髪を拭いていないエドマンドが。身なりはごく一般的な紳士の装い。白い長袖の肌着と茶いチョッキと股下が分かれている黒い洋服姿だ。
少し長い赤毛の髪は水分を含んで滴り落ち、その姿はまるで女の子のようだ。
そんな彼は手拭いを肩にかけて、一向に髪を拭こうとしない。
「エドマンド?」
様子がおかしい彼に、どうしたと足を一歩踏み出したところで、エドマンドが深い笑みを浮かべた。
まるで、素晴らしい悪戯を閃いたというような。
その笑みを見たチャールズが、顔をひきつらせて硬直した。




