12.娘の恋
――『おとうさま』と可愛らしいあの顔に笑顔を浮かべて、抱き付いてきたのはいつの頃だったか。
コトコトと食材を鍋で煮込む静かな音が響く部屋で、チャールズはぼんやりと窓から見える景色を眺めながら物思いに耽っていた。彼の眺める先には、毎日のように降り続く粉雪が激しさを増して窓へと叩きつけている。
何やら彼女の様子がおかしいと思い始めたのは、やはりヴィクトリアがうっかり暴露してしまったあの時からだろう。ぎくしゃくとしてしまうその空気をなんとかしようと思うものの、口下手と言える彼が出来ることといえば、彼女の好きな料理を振る舞うことぐらいだった。
そして、中等部へと上がった頃から彼女とチャールズの会話はほとんどなくなった。家の中でも避けられるようになり、学校から帰って来たと思えば部屋に閉じこもるか、隣のラスキン夫人の家に逃げるように行くようになっていた。
愛する娘に冷たくされ、悲しみに暮れるチャールズに、ヴィクトリアが気分転換を兼ねて一緒に出かけないかとある日声を掛けてきた。なんでも、冬に行われる臨時の市が商店街の路地で今日から三日間開かれるというらしく、気分転換という名目はあっても結局は荷物持ちという役回りで引っ張り出されたのだった。
色褪せ、くたびれた黒い外套を纏って現れたチャールズに、濃い紫色のお洒落な婦人服を纏ったヴィクトリアが眉をひそめた。黄ばんだ白い肌着の襟が、黒いチョッキから顔を出し、しわしわの焦げ茶色の洋服という明らかに不審者に間違われるであろうその装いに、もっと他の洋服は無かったのかと問いかけられた。
無い、ときっぱり言い切ったチャールズに呆れたように溜め息を返して、ヴィクトリアは活気づいた市へと向かった。
あれもこれもと買いあさるヴィクトリアの姿をぼんやりと眺め、山のようになる品を彼女の下宿先に魔法で送り届けた。良いように使われるチャールズだったが、彼は文句一つ言わなかった。
――ただ、静かにどこか遠くを見つめていた。
昼間だというのに薄暗い街中で、薄汚れた様々な色合いの煉瓦の建物に四方囲まれた路地を通って次の店へと向かう道すがら、呆れたヴィクトリアが振り返って言った。
「ねぇ、チャーリー。年頃の女の子っていうのは、誰でも扱いにくいものよ?」
少しの間の辛抱じゃない、と続けた彼女を見つめながら、彼は大きな溜め息をついて頷いた。
「…そうだ、ジェシカちゃんが喜びそうなお菓子屋が商店街の隅で新しく開いたそうなの。行ってみましょう!」
良いことを思いついたとばかりにチャールズの腕をひっぱり、やや強引に引きずるようにして朝からぐずつく空の下、冷たい錆色をした煉瓦が敷き詰められたその上を歩き出した。
「…ジェシカがそろそろ学校から帰ってくる。一人にさせたくない」
女性特有の高さがややある靴音を響かせて問答無用で先を行く彼女に、右腕を取られておぼつかない足取りでついて行くチャールズが言った。
自分が、幼い頃寂しい思いをしたのもあり、ジェシカにそんな思いはさせたくないと彼はなおも言う。
「…あら、今日からジェシカちゃんお友達のお家にお泊まりじゃなかった?」
再び立ち止まったヴィクトリアは、ぱちくりと大きなその青い瞳を瞬いて彼を見やった。
中等部に入ってから、外出が極端に増えた娘を思って無言になったチャールズに優しい声色で言葉を続けた。
「チャールズ、手放すと決めているんでしょう?まずはあなたから子離れを始めなきゃ」
そっと冷たい彼の右手を両手で握りしめ、ヴィクトリアが身体を寄せた。
「…一人が寂しいなら、私がそばに居てあげる」
まるで、端から見れば恋人同士が身を寄せ合うように見えるが、二人はそのような間柄ではない。端からどのように見られているかなどと気にしないチャールズは、終始無言でそっと瞳を閉じただけだった。
「…子離れか」
火にかけていた鍋を脇に移動させながら、彼がポツリと呟いた。ヴィクトリアと分かれた後、家に帰ってきたチャールズはずっと台所に立って娘のことを思っていた。夕刻になった頃にそう呟いて居間へと移動すると、大きな溜め息をついて長椅子へと腰掛けた。
疲れたように長椅子に身体を委ねて横になると薄汚れた天井を見上げて瞳を閉じた。
「ジェシカ~?」
遡ること数時間前、チャールズを悩ませているその少女は、数歩先を歩いていた友人の声ではっと我に返った。冬休みも間近に迫った今日は午前中の授業のみで、明日も祝日であるために友人の家にみんなで泊まる予定だった。ニコという農家を営むその友人が父親とともに近くまで迎えに来てくれると言うので、待ち合わせの場所まで友人と向かっていた。
その途中で、彼の姿を見つけた。錆色の煉瓦が連なる道を良く知る彼が、女性と道中を歩いていたのだ。思わず立ち止まり、人が足早に行き交う中、そっと隠れるようにして見やった。
目の前を横切って行く人々の合間から見えた風景に、ジェシカは時が止まったようにしてその場に立ちすくんだ。
女性不信である父、チャールズが手を繋いでさらには抱き合っていたその情景に。(正確には、ヴィクトリアが身を寄せていただけなのだが)まるで石で頭を殴られたかのような大きな打撃を受けたジェシカは、パッと逃げるようにその場を駆け出した。
「ジェシカ!」
その後をアリスが追うようにして走り出した。
「一体、どうしたんだよっ」
人気のない街灯の近くで立ち止まり、息を整えるジェシカに同じように息を乱したアリスが駆け寄って尋ねた。
「な、なんでもない…」
「んなわけないだろ。最近のジェシカ、変だぞ?」
相変わらず男の子と間違えそうなほど高い背をかがめてジェシカを見やった彼女。ジェシカは大きな茶色い瞳を濡らし、零れそうなほどの涙を溜めていた。
「わかんない、わかんないの…」
「…さっきのジェシカの親父さんだろ?なんで声かけなかったんだ」
「だって、ヴィクトリアさんと一緒だった」
「ヴィクトリアっていうと、親父さんと一緒にいたべっぴんな女の人か」
ふむと考えるように手を顎に当てたアリスに、ジェシカがコクリと頷いて小さな声で言った。
「…お父様、あの人と結婚するんだって」
ますます涙声になるジェシカに視線を戻し、淡い紫色の瞳を瞬いた。
「王宮魔法使いが?そりゃあ、良かったじゃん。ジェシカに母親が出来る…」
「良くないわっ!」
声を張り上げ、アリスを睨むと鮮やかな赤い服を両手で握りしめてジェシカが泣きながら叫んだ。
「わたしの家族はお父様だけよ!今も、これからも。ちょっと口下手だけど、お父様は心の優しい魔法使いだもの。将来はお父様みたいな、優しい人になって…、お父様の役に…ひっ、うぅ~」
ポロポロと涙するジェシカをよしよしと宥めながら、アリスは途方に暮れたように尋ねた。
「じゃあ、親父さんにそう言えばいいだろ。何を悩んでるんだよ」
言わなきゃわからないだろうと続けた友人にすがりながら、ジェシカがぽつりぽつりと言葉を口にした。
「…わたしの家族はお父様だけ、だけど、わたしとお父様は血が繋がってないわ。きっと、いつかは厄介払いさられるんだわ」
んな馬鹿なと笑ったアリスを遮って、ジェシカは酷く泣きながら訴えた。
「お父様と赤の他人だって聞いたとき、すごく、すごく傷ついたわ。だけど、しばらく経ってから気がついたの、わたし、どこかで血が繋がっていないことを喜んでるって。わたしを、娘以上に見てくれるんじゃないかって。義理の親子でもいい、一緒にいたいって思うけど、それ以上にわたしを見てほしいって気持ちと。いつまで一緒に居られるんだろうっていう不安が。お父様の何よりも一番でいられるにはどうしたら…」
「…ジェシカ」
ポロポロと涙流すジェシカの頭をアリスがそっと撫でた。その動作に促されるように、ジェシカが呟いた。
「…わたし、お父様に恋してるんだわ」
激しく泣くジェシカを慰めて、アリスが言った。
「…いいか、ジェシカ。今日は家に帰って落ち着きな?親父さんはすぐに結婚するんじゃないんだろ、なら、気持ちを伝える時間もある。あたいは恋なんて言う経験がないから助言を言うことも相談に乗れることも出来ない」
「じゃあ、どうしたらいいのぉ?」
まるでこの世の終わりだというように泣き声をあげるジェシカに、アリスは良く聞きなと念を押した。
「エドマンドっていう兄ちゃんがいたろ?親父さんの友達だっていう、あの人に相談して見ろ」
「ぜったい、無理…」
ぶんぶんと首を振るジェシカに、アリスは眉をひそめて続けた。
「じゃあ、親父さんが他の女と結婚してもいいのか!」
「いやーっ」
「なら、時間をつくってもらって、話を聞いてもらいな」
ゴシゴシと顔をこすって力強く頷いたジェシカをそっと促した。
「…今日は帰りな。みんなにはあたいから言っとくから」
ありがとうと震える小さな声で呟いて、ジェシカは再び流れそうな涙をこらえて駆け出した。
「あ、いたいたぁ!アリス~」
のんびりとした声の主、ミリーが褐色の肌を持つ無口なニコを引き連れて手を振りながら近くにやって来て尋ねた。
「あれ?ジェシカは?」
「帰った」
「えぇっ!」
目を見開いて驚くニコと、声を上げて驚くミリーに気にもとめず、アリスはジェシカが去っていった通りをしばし眺めていた。その横顔は、一段と大人びて見えた。
急いで慣れ親しんだ家に帰れば、居間から漏れる暖炉の薄明かりがすっかり暗くなった家の廊下を照らしていた。そっと居間を覗けば、長椅子で沈むようにして眠るチャールズの姿があった。物音を立てないようにして、長椅子の近くに忍び足で近づいたジェシカ。
「…お父様、風邪を引いてしまうわ」
疲れたように眠るチャールズを起こそうとしたが、しばし思案してから床に落ちていた毛布を取って彼にかけてやった。台所には、手が着けられていない煮込み料理が。自分の帰りを待っていてくれたのかと、本来ならば帰らなかった自分を反省して彼の寝顔を床に座り込んで眺めた。
彼女が好きな金色の瞳は、今は瞼に隠れていて見えない。
「…お父様」
そっと小さく、久しぶりに呼んでみる。しかし、深い眠りにつくチャールズは起きる気配はない。
薄暗い居間の中で、その顔を眺めていたジェシカが、声にならない言葉を呟いた。
そっとその場を去ったジェシカ、部屋には薪が火花を散らす音だけが響いていた。
『チャールズ、あなたが好き』
そう呟いた彼女の想いは、眠るチャールズの穏やかな子守歌となった。
最近、娘の様子が変だ。
冬休みも半ばにさしかかったある日、チャールズは思った。近頃、年頃の女の子に良くあると言われる反抗期であるジェシカだが、やけに静かなのだ。確かに、以前から少し変だとは薄々思っていたようだが、明らかに様子がおかしいジェシカを窺ってはうろうろと家の中をさまよっている。
長身である彼が、家の中を用もなくうろうろする様子を見るに、単に邪魔なだけではないかと思ってしまうが、ここは娘を心配する親心ということで大目に見てあげようか。
さて、彼の娘、ジェシカだが。どう変かと言えば、先程述べたように静かであるということだ。ぽけっと外を眺めていることが多く、時たま大きな溜め息をつくのだ。そうかと思えば、部屋で泣いたり、じっと考え込んだように膝を抱えて座ったまま動かないこともある。
その様子をみる度、チャールズは何かの病気ではないかと気をもんでいる。煩わしいと思われたくないチャールズは、そっとジェシカを影から見守ることしか出来ない。本日、何十回目かの溜め息が彼女の部屋から零れたところで、チャールズがたまらず家を飛び出した。行き先は勿論、厄介な問題の相談事を持ち込みやすいエドマンドのところだ。
「チャールズ。そんなに慌ててどこに行くんだい?」
玄関から転がるようにして飛び出してきたチャールズに、丁度帰宅したばかりであろうお隣のラスキン夫人が声を掛けた。
「…ジェシカが変だ。エドマンドに」
「おやおや、どうしようもないお父さんだね」
うろたえる父親を笑い、呆れたようにチャールズを見やって、三人の息子達を育て上げた彼女は続けた。
「年頃の娘が単に恋をしているだけだっていうのに」
「恋っ?」
「そうさ、恋煩いっていうやつだよ」
その言葉を聞くやいなや、ふらっと眩暈を覚えたチャールズは、身体が大きく傾いたところで片足で体重を支えて踏ん張った。その様子をにやにやと眺めているラスキン夫人。今、この場にいない彼の友人程に、よい性格をしている。
しばし放心状態から抜け出せなかったチャールズだったが、一大事だとばかりに踵を返すと何やら複雑な言葉を発した。おそらく魔法使いがよく使う類の呪文であろう。突如起こった旋風が渦を巻き、粉雪を取り込んで彼の姿を隠した。荒々しい旋風が去っていった頃には、すでに彼の姿はその場にはなかった。
「エドっ!エドマンド!」
質感のよい木で丁寧に作られた木を派手に開けながら、チャールズが叫んだ。姿を消して移動出来る古来からある一つの魔法を使ってやってきた彼は、王宮の一角にあるエドマンドの部屋へと駆け込んだ。
しかし、彼がうっかり旋風と共になだれ込んで来たものだから、難しい顔で机の上にある書類と睨み合っていたエドマンドが風の勢い良いで派手に吹っ飛ばされた。
「何だっていうんだ?チャールズっ!」
椅子から転げ落ち、体を強かに壁に打ちつけながら唸ったエドマンドが、怒りながら叫んだ。その声に、慌てて未だ部屋に留まる旋風の魔法を解くとチャールズは途方に暮れたように肩を落とした。
「チャールズ、君は僕に何か恨みでもあるの?今日中に提出しないといけない書類をこんなにして!」
チャールズとは反対に、肩を怒らせて立ち上がったエドマンドの体から、はらはらと紙切れが床に舞い降りた。本来の姿さえ分からないほどになった無惨な姿の書類を見ながら、また最初からやり直しだとエドマンドは頭を抱えて唸った。シュンとうなだれるチャールズが、「すまない、後で直しておく」と小さく謝れば、友人は仕方ないとでも言うように床に転がる椅子を立て直しながら言った。
「で、何か用?そんなに慌てて転がり込むほどの用事っていうのは」
くだらない世間話なら許さないぞという独自の雰囲気を醸し出しながら、戸口の近くで佇んだままの友人を見やった。問いかけられたチャールズは、ゆっくりと口を開いた。
「…ジェシカが、恋をしている」
らしいと小さく続けたチャールズに、エドマンドはぱちくりとまばたきを繰り返して彼を見つめた。
「――はあ?」
しばしの沈黙の後、彼からの口から出た言葉は、そんな間抜けな声だった。




