05.唐草模様の切符は、遥か
【註】これは、シュレディンガーの羊による創作の「淋しい夜に星が降る。」を基にした、尻切レ蜻蛉による創作の番外編です。
「朝比奈、暇よね?」
「あ?」
「ちょっと井上よろしく。あとでね、井上」
「あ、おい」
「井上、あとで」
慌ただしくかけていく面々から視線を戻せば、井上はまだその背中を見送っていた。
「ええと、」
「井上です」
「井上」
「はい」
きょとんと振り向いた井上に、言葉を決め兼ねて髪をかく。
「私は静かな所が好きだな。朝比奈君は?」
「騒がしいよりはな」
「あとは高い所が好き」
その言葉に浮かんだのは、外村と初めて話した場所。
「屋上」
「あがれるの?」
嬉しそうに瞬いた井上に頷いて、それから肩を竦めた。
「ただ、文化祭中は立入禁止だ」
「そっか。残念だね」
「聞いても良いか?」
唐突な問いだったけれど、井上は瞬いて小さく笑う。
「外村君のこと?」
「あんた、元カノだろ?」
当然頷くと思ったのに、井上は困ったように首を振った。
「友達、なんだと思うよ」
「あ?」
「私も外村君も、告白みたいなことはしなかったから」
「友達になりたい、とかか?」
聞いた途端に、井上がくすくすと笑う。
「朝比奈君はそう言われたんだね」
「授業サボりながらな」
意外だと言うニュアンスを含めると、井上はそうかなと首を傾げた。
「外村君は、生真面目な訳じゃないよ」
「そうか?」
「うん。でも、変な所で融通がきかないんだよね」
「あぁ」
外村のあの真っ黒な髪を思い浮かべて、肩を竦める。
始めて言葉を交わしたときは、変な奴だと思ったのだ。
「それなら、なんて言われた?」
訝し気に問えば、井上は目を丸くしてからくすりと笑った。
「何も言われてないよ、私は」
「何も?」
「うん。何も」
当てもなく校舎の中を歩いても、井上は興味深そうにいろんな所を覗いていく。
かといってクラスの出し物ばかりではなく、それは装飾だったり、教室に並べられた絵だったりして、けれど井上は離れすぎて足を止める前に追いついてきた。
一見真面目そうな少女との取り合わせに、一般客の目は午前中と同じで気にはなったけれど、背後の井上に気を配るので結構手一杯で、正直どうでも良くなっていた。
「あ」
「あ?」
「私、あれに入るね」
唐突に袖を引かれ、驚い手振り向くと、井上は前を指す。
『プラネタリウム』とかかれた看板には、地学室とある。
「外村君達の仕事が終わるまで、此処にいるから」
ありがとう―ぺこんと頭を下げられて、一瞬迷う。
けれど
「俺も入る」
結局どこに行く当てもないなら、一緒にいた方が後で田口にも騒がれないだろう。
井上は瞬いて、にこりと笑った。
「ようこそ。天文部プラネタリウムへ」
入口の暗幕を潜ると、無造作に並べられた椅子が目に入る。
薄暗い部屋の中には、何人かがいて投影された天井を眺めていた。
椅子の向こう、家庭用のプラネタリウムより少し大きな機械が、教室の真ん中にでんと据えられている。
「私たちの暮らす太陽系とは、太陽とその引力の影響を受けて運行している天体の集団で、その中には地球等の惑星とその衛星や、小惑星、彗星などが含まれます」
ラジカセから流れるとつとつとしたナレーションに合わせて、少しずつ変化する映像に、椅子の影が動いては消え、また現れては闇に染み込む。
空いた椅子に井上と並んで座り、擬似夜空を仰ぐと、星がひとつ瞬いた。
「暮れかけた空に一番星が上がってきました。あれは、土星で…」
ふわりとした光が天井で瞬いて、瞬いては消えていく。
妙な半睡眠状態のような頭にも声は滑り込んできて、また何処かへ溶けていった。
「…続いて、高く北の空をご覧ください。七つの星を見付けることができるでしょうか。杓の形をした…」
ぼんやりと耳を抜けていく説明を聞くともなく聞きながら、ふと僅かに反射した光に顔を巡らせて、不意に頭の霧が晴れるのを感じる。
こんなに静かに泣く人を、知らなかった。
ちかりと光ったのは井上の頬を伝う涙で、井上自身も気付いていないのではないかと思うほど、擬似夜空を見上げたまま、彼女は本当に静かに涙を零していた。
「…おおくま座、そしてこぐま座になります。その星の先に…」
目をそらせなくて、でもどうして良いのか解らなくて、そのままの姿勢で固まっていたが、どれくらいたったのか不意に気付いた井上がこちらを向いて、それから困ったように静かに笑う。
その目には、もう涙は光っていなかった。
「朝比奈君は、星好き?」
暗幕をでると、少し陰った日がそれでも眩しくて、思わず顔をしかめてしまう。
振り返ると、手庇しを除けた井上が目をしばたかせた。
泣いたあとには見えない穏やかな様子に、知らず詰めていた息を吐き出す。
「嫌いじゃない」
「どんなところが?」
「お互い、干渉できないところが」
躊躇ってからぼそりと紡ぐと、井上は微かに目を細めて楽しそうにくすりと笑った。
「朝比奈君は、良いお兄さんだね」
「は?」
「面倒見が良くて、頼れるお兄さん」
「俺の、どこが」
「私はそう思うし、外村君たちもきっとそう思ってるよ」
なんだかはぐらかされている気がしないでもない。
そんな様子を悟ったのか、井上が肩を叩く。
「だってほら、今は同じ歩調だよ」
気付けば井上は隣を歩いていた。
本当はこんなにも簡単に、誰かと歩調を合わせられる。
誰も近付けないように、囲いを張っていたのは自分の方だ。
外村がそれを遠慮がちにノックしたあの日から、多分気づいていた。
「井上」
「なあに?」
「次の時は屋上、つれてってやるよ」
一瞬驚いたように瞬いて、井上は嬉しそうに微笑んだ。
明るすぎて見えないだけで、昼の空にも星はある。
だから、歩き出した外村のように、願わくは二度と過去に泣くことがないように。
柄にもない考えに苦笑して、文化祭の喧騒を見遣った。
もう此処に、居辛さは感じない。
聞こえてくる幾つもの足音と、これから歩幅を合わせて歩くことにしよう。
それは思うほど難しくないのだと、もう知っているのだから。
何処かで、祭りの終わりを告げる夜の汽笛が、ほうと鳴いた。