百回目の断罪で、証言台の聖女候補が台本にない言葉を囁きました 〜死に戻りは、わたくしだけの秘密ではなかったようです〜
また、あの人の震える睫毛から始まる一日か。
目覚めた瞬間に分かる。天蓋に施された白い刺繍の模様、窓辺から差し込む薔薇の匂い、遠く馬車の車輪が石畳を踏む音――何もかもが、寸分違わず同じだ。
九十九回分の朝を、わたくしはもう諳んじている。
起き上がる仕草にすら迷いがない。
侍女が選ぶドレスの色も、髪を結う順番も、鏡に映る自分の疲れた微笑みも。
絶望は、繰り返せば摩耗して、ただの日課になる。
最初の十数回は、あらゆる手を尽くした。
国外への馬車を手配したこともあれば、婚約者に真実を訴えて泣きすがったこともある。
侍女に扮して城を抜け出し、街外れの宿で一夜を明かしたこともあった。
だが、どんな道を選んでも、夜になれば必ず大広間に引き戻された。
運命は、まるで見えない糸に操られているかのように、逸脱をすべて元の筋書きへと書き戻していった。
だからもう、抗うことすらやめていた。
そして今夜、また同じ夜が来る。
大広間のシャンデリアが、いつもと寸分違わぬ光を天井から落としている。
幾度となく見た光景に、驚きはもう残っていなかった。
無数の水晶が放つ光の粒だけが、今日もやけに眩しく感じられた。
「ミレイユ・ヴァルクール。お前との婚約は、今この場で破棄する」
王太子ユリウスの声は、今日も同じ抑揚で同じ台詞をなぞる。
わたくしは、頭の中でその先の台詞を一拍先取りして、口の中だけでなぞった。合っている。いつも通りだ。台本が、寸分違わず上演されていく。
(殿下も、そろそろ台詞を変える工夫くらいなさればいいのに)
内心でそう毒づいてみせても、口には出さない。
表向きの淑女らしい仮面だけは、繰り返すたびに、崩さずにきた。
「そして、聖女候補セラへの数々の悪行について、これより証言を求める」
壇の隅に控えていたセラ・アルトンが、一歩前に出た。
蜂蜜色の髪が、灯りを受けてわずかに揺れる。
これから彼女が語ることも、わたくしはすべて知っている。
九十九回、一字一句違わず聞いてきたのだから。
いじめられた。廊下で睨まれた。心無い言葉をかけられた。すべて事実無根の台詞を、彼女は涙ながらに読み上げる。
もちろん、最初の数十回はその涙を演技だと思っていた。
正確には何回目からかもう覚えていないけれど、ある時からその涙が、本当に彼女自身を苦しめているように見えるようになった。
いつからか、わたくしは処刑よりも先に、セラの震える睫毛の先を目で追うようになっていた。
理由は自分でも分からなかった。
ただ、誰よりも自分を断罪する立場にいるはずの彼女が、誰よりも辛そうな顔をしていることが、気にかかって仕方なかった。
憎むべき相手のはずなのに、どうしても憎みきれない。
幾度目かの夜のうちに、わたくしはそのことに気づき、気づかなかったふりを続けてきた。
「わたし、ミレイユ様に……」
セラの声が、いつもと同じ場所で、いつものように震えた。
俯いた睫毛の先が、小さく光る。
わたくしは、その先の台詞を待った。
すべて事実無根だが、反論する気力はとうに失せていた。
重ねてきた諦めが、胸の奥で静かに沈んでいる。
今日もまた、同じ夜が終わって、同じ朝が来るだけだ。そう思っていた。
だが、続きが来なかった。
沈黙が、いつもより一拍長く伸びる。広間の空気が、わずかにざわめいた。
わたくしは、初めてセラの様子がおかしいことに気づいた。毎回その睫毛の先まで見てきたからこそ、いつもと違う震えだと、すぐに分かった。
台詞を忘れたのではない。唇が、何かを言おうとして、何度も閉じては開かれている。まるで、口にすることが恐ろしくてたまらないもののように。
「……セラ嬢?」
ユリウスが、怪訝そうに促す。
セラは顔を上げた。潤んだ瞳が、まっすぐにわたくしを捉えている。
今までの九十九回、彼女がこんな目でわたくしを見たことは、一度もなかった。
怯えと、それでも退かない何かが、同時にそこにあった。
「四十六回目、私の台本を隠しましたよね…」
広間の音が、すべて消えた気がした。
心臓が、耳の奥で鳴っている。誰にも打ち明けたことのない事実だった。
あの回、わたくしは開演前に控室から抜け出し、王太子の台本を燭台の裏に隠した。抗うことをやめていたはずなのに、あの夜だけは、どうしても諦めきれなかった。
無駄な足掻きだと分かっていながら、それでも何かせずにはいられなかった。
その事実を知っているのは、この夜をループしている私しかいない、はずだった。
「な……何を」
声が、自分でも驚くほど掠れた。
「知っているんです。だって、わたしも」
セラの指先が、ドレスの裾を強く握りしめていた。白くなるほど、力が入っている。
「同じ夜を、繰り返しているから」
ユリウスが「何の話だ」と眉を寄せたが、その声は二人の間には届かなかった。わたくしはただ、セラの震える指先だけを見ていた。
「……本当に、覚えているの」
「はい」
「なぜ、今まで黙って」
「怖かったからです」
セラの声が、小さく揺れた。両の瞳から、涙がこぼれ落ちる。
だが、それはこれまでとは違う涙だった。
「もし、ミレイユ様が何も覚えていなかったら。わたしだけがおかしくなったと思われたら。……それに、もしここで確かめて、それでも違ったら。もう二度と、確かめる勇気なんて持てないと思ったから」
その言葉に、わたくしはようやく気づいた。
今この瞬間まで、セラは賭けていたのだ。
何の確証もないまま、ただの独り言として片付けられる覚悟をして、口を開いた。もし外れていたら――ミレイユが本当に何も覚えていなかったら――正気を疑われ、聖女候補としての立場すら失いかねない賭けを。
九十九回、一度もしなかった賭けを、百回目にしてようやく。
「それでも、言ったのね」
「はい。今日、言わなければ。多分わたしはまた、百一回目も、百二回目も、黙ったまま証言を続けていました」
そこで言葉が、また途切れた。
「休憩を頂きます」
セラは唐突に告げ、わたくしの腕を取った。彼女の風貌からは想像もできない、強い力だった。
困惑した様子のユリウスと護衛たちを置き去りに、二人はバルコニーへと逃げ込んだ。
夜風が、火照った頬を冷やしていく。
眼下には、庭園の灯りが点々と続いていた。扉の向こうから漏れる楽団の音が、急に遠く感じられた。
「それに、何」
わたくしが問うと、セラは石造りの手すりに手を置いたまま、しばらく黙っていた。
答える言葉を選んでいるというより、まだ賭けの続きを迷っているように見えた。
「私…ミレイユ様が死ぬところを、何十回も見てきました」
その声には、隠しようのない疲労が滲んでいた。
「毒を盛られたことも、崖から落とされたふりをされたことも、火刑にされたことも、全部覚えています。何もしていないのに、誰も助けてくれなくて」
セラの声が、ふいに低くなった。
「七十三回目のことを、覚えていますか。処刑場で、ミレイユ様がわたしを見て、微笑んだこと」
その回のことなら、覚えていた。
斧が振り下ろされる直前、群衆の中に泣きじゃくるセラの姿を見つけた。
もう誰も助けてくれないと分かっていたから、せめて最後くらいは穏やかな顔を見せようと、微笑んでみせた。
あれが最後の一回になると、あのときは本気で思っていた。
「あの微笑みが、頭から離れなくなりました。ミレイユ様の方が、よほど死に向き合っていて。わたしは、証言台の上で泣くことしかできないのに」
「あれは……あなたに、これ以上辛い顔をさせたくなかっただけ」
「知っています。だから、余計に苦しかったんです」
「あなたが、証言していたからでしょう」
わたくしの声は、思ったより尖った。
積み重なった恨みが、少しだけ滲んだのかもしれない。
セラは、その棘を避けなかった。まっすぐに受け止めて、頷いた。
「はい。わたしが証言役だから、断罪は止まらない。それは分かっています。でも…証言の言葉そのものは、台本には書かれていない部分でした。だから、少しずつ変えても、運命に書き戻されずに済んだんです」
セラは、ようやくこちらを見た。
「毒より、剣の方が苦しまずに済むと分かってからは、証言の中身をそちらに誘導しました。気づかれないように、少しずつ」
わたくしは、言葉を失った。
断罪のたびに死に方が少しずつ違っていた理由が、初めて分かった。
あれは偶然でも気まぐれでもなかった。
「なぜ、そこまで」
「分かりません。最初は、同情だと思っていました」
セラの指先が、手すりの上で小さく震えている。
「でも、何十回も繰り返すうちに、気づいてしまったんです。ミレイユ様が誰も見ていないところで、侍女に優しい言葉をかけていることに」
「それくらい、誰でも」
わたくしが言いかけると、セラは小さく首を振った。
「いいえ。断罪の壇上では、あんなに突き放した皮肉ばかりおっしゃるのに。誰も見ていないところでは、まるで違う顔をなさる。そのくらい、繰り返し見ていれば分かります」
指摘されて、わたくしは言葉に詰まった。
誰にも気づかれていないつもりだった裏の顔を、彼女だけは見ていたのだ。
「証言の順番を待つ間、いつからかミレイユ様の横顔ばかり見るようになっていました。次はどんな言葉で、どんな死に方を避けさせられるか、それだけを考えて」
セラは、そこで一度言葉を止めた。手すりを握る指先に、力がこもる。
「証言のたび、『やった』と言う前に、いつも一瞬止まってしまうんです。ミレイユ様を傷つける言葉を口にするのが、苦しくて」
「それでも、聞こうとはしなかったのね」
わたくしが問うと、セラは弱く笑った。自嘲するような笑みだった。
「知って、それが違ったら。わたし一人が、ミレイユ様の反応に意味を見出していただけだったら――そう思うと、怖くて聞けませんでした。今日だって、本当は台本を隠した回のことを言うつもりはなかったんです。口が、勝手に動いていました」
セラは、深く息を吸った。
「好きにならないようにしていたのに、こんなに繰り返しては、もう無理でした」
夜風が、二人の間を通り抜けていく。遠くで、楽団の音が途切れがちに続いていた。
わたくしは、何も言えなかった。
積み重なった孤独が、たった一言でひっくり返っていくのを、ただ感じていた。誰も自分のことなど見ていないと思っていた。
だが、少なくとも一人だけ、誰よりも近くで見ていた人がいた。しかもその人は、確証など何もないまま、ただ繰り返すたびに募る想いだけを頼りに、今日という賭けに出た。
「わたくしも、確かめたかったわ」
震える指先を、そっと伸ばす。
セラの手に、自分の手を重ねた。九十九回の中で、初めて自分から差し出した手だった。
「でも、それを知る術が分からなかった。あなたが覚えているかもしれないなんて、考えたこともなかったから」
セラが息を呑む音が、すぐそばで聞こえた。
握り返してくる指先が、まだ小さく震えている。
「怖かったでしょう」
「はい。今でも、心臓が痛いくらいです」
わたくしは、セラの手を両手で包み込んだ。震えは、まだ止まらない。
「正直に言うわ。わたくしも、あなたのことを考えない日はなかった。憎むべき相手のはずなのに、なぜかそう思えなくて。理由が分からないまま、九十九回、ずっと目で追っていた…」
セラの目が、大きく見開かれた。
「それは……」
「多分、これが答えなのでしょうね。あなたが今日、賭けに出た理由と、同じもの」
セラの頬が、涙の跡の上からさらに赤くなった。
「もう、一人で賭けなくていいわ」
わたくしは、握った手にそっと力を込めた。
「……戻りましょう」
わたくしは、握った手を離さないまま言った。
「今度は、二人で」
壇上に戻ると、ユリウスがまだ困惑した顔で待っていた。台本を握る手が、行き場を失っている。
「証言は、以上か」
「いいえ、殿下」
セラが、はっきりとした声で言った。
手はまだ、わたくしの手を握ったままだった。誰の目にも、それが見えているはずだった。
「わたしは、ミレイユ様から何ひとつ傷つけられたことはございません。今までの証言はすべて、わたしの――いいえ、この壇上の台本の、誤りでした」
広間が、静まり返った。
「わたくしも、罪は認めません」
わたくしは、セラの手を握ったまま、まっすぐにユリウスを見た。
繰り返し、うつむいて聞いてきた宣告を、今日は真正面から受け止める。
「殿下がお望みの筋書きに、これ以上付き合うつもりはございませんの」
ユリウスの顔が、みるみる青ざめていく。だがすぐに気を取り直し、声を張り上げた。
「聖女候補の証言は絶対だ。今さら覆るはずがない」
「絶対、とおっしゃいますが」
セラが、静かに言い返した。
「これまでの証言は、殿下が用意された台本を、わたしがそのまま読み上げていただけです。台本と違う言葉を、わたしが今口にしていることこそ、絶対ではない証拠ではございませんか」
ユリウスは答えに詰まり、護衛たちに目で助けを求めた。
だが護衛たちも、どう動けばいいのか分からず、互いの顔を見合わせるばかりだった。
囁き声が、広間の隅から広がり始めた。
最初は「殿下の仰る通りだ」という擁護の声も混じっていた。
だがそれに応じるように、誰かが「では、台本とは何のことだ」と鋭く問い返すと、擁護の声は次第に小さくなっていった。
壇の下で、古くからミレイユを知る老貴族が声を上げた。
「聖女候補様のご様子も、いつもと違いますな。あれは、台本を読む顔ではない」
傍らの夫人が頷き、扇の陰で何事かを囁き合っている。
それに応じるように、あちこちから同意のざわめきが起こる。
ユリウスは何度も口を開きかけては、言葉を見つけられずに閉じることを繰り返していた。彼の手の中で、台本の紙が小さく震えている。
「……本当に、そうなのか」
いつもの威厳を失った、掠れた呟きだった。誰に問うでもない、迷子のような声だった。
二十時の鐘が、遠くで鳴った。
いつもならこの瞬間、処刑の宣告が続く。
だが、今日は何も起きなかった。
ユリウスは口を開きかけ、結局何も言えないまま立ち尽くしていた。九十九回分、揺るがなかった台本が、初めてその先を失った瞬間だった。
わたくしとセラは、繋いだ手を離さずに、その場を後にした。
振り返らなかった。振り返る必要が、もうなかった。
目を開けると、天蓋の陰影が視界に入った。
いつもと同じ朝に見える。だが、何かが違う気がした。
心臓が、一度大きく跳ねる。
カレンダーを見たい衝動を、どうにか抑えた。
すぐには確かめず、しばらくベッドの中で息を整えた。幾度この朝を迎えても、この瞬間だけは慣れなかった。
扉が、控えめにノックされた。
「ミレイユ様、よろしいでしょうか」
セラの声だった。一度も朝一番に訪ねてきたことのない相手だった。
わたくしは、自分から扉に手をかけた。
今まではいつも誰かが開けてくれるのを待つだけだった。
今日は違う。待つ側ではなく、自分から迎えに行きたいと思った。
扉の向こうには、セラが立っていた。
目に涙を溜めていたが、それは悲しみの涙ではなかった。
寝間着の上に上着だけを羽織った、取るものもとりあえずといった姿だった。
「暦で、日付を見てきました」
セラの声が、震えている。
「今日は…卒業パーティーの、次の日でした」
わたくしは、何も答えられなかった。
代わりに、差し出された手を握り返した。二人分の指先が、絡まるように重なる。
「本当に、終わったのね」
「はい。……信じられなくて、走ってきてしまいました」
セラの頬が、朝の光の中でほんのり赤らんでいる。乱れた髪を整える余裕もなかったらしい。
「これから先も、もう独りで確認しなくていいのよ」
「はい」
セラは、泣き笑いのような顔で頷いた。
窓から差し込む朝日が、彼女の蜂蜜色の髪を淡く照らしている。
幾度も同じ窓から同じ光を見てきたはずなのに、今日はまるで初めて見る色のように感じられた。
言葉はいらなかった。
額をそっと合わせるだけで、これが今までの九十九回とは違う朝だと分かった。互いの呼吸だけが、静かな部屋に満ちていく。
もう二度と、一人で死なせはしない。
そう、心の中で誓った。
もう二度と、一人で抱え込ませもしない。それも、同じくらい強く。
窓の外では、いつもと同じ朝の庭園が、いつもと違う色をして広がっていた。
百回目にして初めて、明日という言葉に、意味が生まれていた。
【終】




