引っ掻き音
この作品には「うわさの焦点」に登場した人物も出てきますが、ストーリーは完全に独立したものです。
もし、興味を持っていただけたら「うわさの焦点」も読んでください。
1.
――かりかりかりかりかりかり……。
背後から聞こえる音に気づいて思わず振り返った。
背後にあるのはアコーディオン式扉のクローゼットだ。音はそこから聞こえていたように思える。
僕は椅子から立ち上がり、こわごわと少し身をすくめた姿勢でクローゼットに近づいた。そのときには、あの「かりかり」という音はすでに聞こえない。沈黙のクローゼットがそこにあるだけだ。
意を決し、クローゼットの扉を開ける。中にあるのはハンガーに吊るされた服、そして床に並べられたいくつかの段ボール箱……。それだけだった。
音をたてた原因と思えるものは何も見当たらない。もちろん、生物の類は皆無だった。
念のためクローゼットの扉の裏側にも目をやる。しかし、そこに何の異常も見つけられなかった。
――気のせい……?
そう思おうとしたが、聞こえていた音はわりとはっきりとしたものだった。たしかにあの音は僕の背後のどこかで発せられていたのだ。
扉を閉めながら僕は少し考え込んだ。今いるこの部屋は3月から使っている。こぎれいなワンルームだ。
この春、東京の大学に合格して僕は上京した。住まいとしたのは東中野にある2階建てのアパートだ。閑静な住宅地にあるアパートで、通学で使う東中野駅には徒歩10分弱の距離にある。近所には『神田川四季の道』があり、落ち着いた雰囲気の場所にあった。僕の住む部屋はその2階にある。
東京でひとり暮らしを始めるにあたって、苦労したのが住まいのことだ。ワンルームでも家賃が10万円を超えるのが当たり前の東京で、安いところを探すのは骨が折れた。贅沢を言うつもりはないが、それでも、あまり環境の悪いところは避けたい気持ちはあった。
比較的地価が抑えられていて、平均家賃が7万円代の多い東中野に狙いを定め、ようやく7万円を切るところを見つけたのがここだった。築5年以内でこの家賃は破格だと、探してくれた不動産屋さんに言われた。
内見には父を伴って向かった。父も東京の大学に通っていたので、僕が住む部屋を見ておきたいと言っていたのだ。
エアコン、冷蔵庫完備。キッチンは小さいながらも電化式。エアコンの室外機が置かれているので多少狭いながらベランダもあった。家賃のわりに設備の整った様子に、僕よりも父のほうが満足していた。
「俺が学生だったころよりええやないか」
もう何十年も前から岐阜県民であるにもかかわらず、関西弁の抜けない父はそう言って笑った。
「それに……」
父はクローゼットの扉に手を当てて続けた。「押し入れも大きいのがいい」
「そうでしょー」不動産屋さんはニコニコ顔でうなずく。「みなさん、収納の広さを気にされますからねー」
クローゼットは隣部屋と挟まれる位置にあった。扉の面積が壁の半分を占めている。
「こっちのほうはどうなっとるんですか? ただの壁ですか?」
父はもう半分の壁をコンコンと叩いた。こっちにも収納スペースを造れるだろと言わんばかりだ。
「そっちはお隣のクローゼットになっています。こういう感じですねー」
不動産屋さんは用意していた資料を父の前に広げてみせた。長方形型の部屋に、クローゼットの部分だけが互いに隣り部屋へ食い込む形状だとわかると、父は納得したようにうなずいた。
「どや、良聖。ここに決めるか?」
父は僕に尋ねた。
生活費については、子どものころから積み立ててくれた貯金とバイトで賄うが、学費と家賃は父に出してもらうことになっている。父が納得してくれるなら僕に異存などない。僕は不動産屋さんに頭を下げた。「ここで、お願いします」
こうして、僕はこの部屋で暮らすことになったのだ。
あれからふた月弱。ここでの生活に慣れたころだ。しかし、今回のできごとで少し不安を覚えた。
……大丈夫だよね、この部屋……。
僕は心のなかでつぶやいた。
2.
それから数日は、あの異音に悩まされることはなかった。そうなると僕もめでたい性格で、あのできごとなどすっかり忘れてしまっていた。
しかし、ある晩のことだ。
いつものように机に向かってレポートの作成に取り組んでいたときに、あの「音」が聞こえた。
――かりかりかりかりかりかり……。
僕は作業途中だったノートパソコンを閉じ、耳を澄ませた。音は途切れることなく聞こえている。
僕は振り返ると急ぎ足でクローゼットへ近づいた。確信はないが、物音はこのクローゼットから聞こえる気がするのだ。
扉に手をかけ、勢いよくクローゼットを開ける。
しかし、僕はそこに何の異常も見つけられなかった。これまでどおりのクローゼットだ。さっきまで聞こえていた、あの「かりかり」という音はすでに消えてしまっていた。
「何なんだよ……」僕は情けない声を漏らした。苛立ちとともに、不安の気持ちも大きくなる。
あの「かりかり」という音は、何か硬いものを引っ搔く音のように思える。引っ掻くのも固い爪のようなものだ。だから、僕はクローゼットの扉を何かが引っ掻いているのだと思った。扉は、やや厚めの木材でできていた。そこに爪のようなものをたてて引っ掻けば、あんな音が出るのではないかと思ったのだ。
僕は試しに扉の裏を自分の爪で引っ掻いてみた。僕の爪は扉から「がりがり」という音をたてた。似てはいるが違うと思う。この扉を引っ掻く音ではない……?
「じゃあ、何だよ?」
吊るされた服を左右にどかすと、グレーの壁が現れる。この壁から?と思い手を伸ばしたが、僕はその手を引っ込めた。この壁を隔てて隣人が住んでいる。この壁を引っ掻くなどして音をたてれば、隣人に迷惑をかけてしまうと思ったのだ。同時に……。
――この音は隣から響いてきたものか?
僕はそんなことを考え始めていた。
3.
音の正体が突き止められないまま、あれからさらに数日が過ぎた。
僕はこの日、同じゼミの女子たちと昼食を一緒にしていた。僕の通う大学では1年次から基礎ゼミというものがあって、数人ごとに分かれて受けるのだ。本格的なゼミは3年次からになる。
「へぇー、丸山君は東中野なんだ」
どこに住んでいるのかという話題になって、僕が答えるとひとりの女子から反応があった。
「うん。『神田川四季の道』ってところの近く」
「なんか、いい感じのところに住んでんじゃん」
ほかのひとりからも羨ましそうな声が聞こえた。彼女たちはそれぞれ同じマンションに住んでいる。入り口にセキュリティーがかけられて、周囲にも監視カメラが設置されているとのことで、ワンルームマンションにしては警戒厳重だと思う。しかし、女性のひとり暮らしは危険が多いということで、住むならどうしてもこういう部屋になるという。家賃も僕の倍以上はする。大学とは徒歩圏内なので、それはいいかもしれない。僕は都営大江戸線から東京メトロ半蔵門線を乗り継いで、30分ほどかけて通っている。大学と距離はあるが、通学代と合わせても大学の近所に住むより安く済むのだ。
「私は大学の近所ならどこでも良かったんだけどねー」
ひとりが頬杖をついて話し出した。「でも、親がここでないと絶対ダメだってー」
「うちもそう。そもそもなんで地元の大学に行かないのかってさー。しょうがないじゃん。行きたいところがここだったんだから」
「でも、さすがに家賃が高いよね。大変だと思う」
自分の力だけで大学に通えないことに引け目を感じている僕は、ふたりの両親を慮って言った。学費も合わせると相当な経済負担になるからだ。
「ま、そこは将来の親孝行で返すかなー」
「だよねー」
ふたりの反応はあっけらかんとしたものだった。
僕たちが囲むテーブルにはあとひとり女子が座っていた。彼女はずっと黙って僕たちの会話を聞いていたが、少し間の空いたタイミングで口を開いた。
「お金かかっても仕方ないと思う。安全って、ほんとはお金で買えないけど、それで危険を減らせるんならそうするしかないと思う」
「何か怖い目にでも遭った?」頬杖さんが同じ姿勢のまま尋ねた。
「怖い目に遭った、と言うより、怖い事件があった、かな。おととしぐらいだと思うけど、女のひとが自分の部屋で遺体で見つかったって事件あったでしょ?」
「何か聞いたことあるー」
「たしか、東中野のワンルームであったって」
……東中野?
僕はその単語にびくっと反応した。
「異臭があるって聞いた警察が部屋に入ると、クローゼットで腐敗した遺体が見つかった、って事件。その遺体が部屋の住人だった女性って話だよね?」
「そう、それ」
「犯人見つかったんだっけ?」
「知らない」
「ほんと、東京って女性が被害に遭う事件が多いよねー」
ショッキングな話題だが、彼女たちはアイドルのスキャンダルを話しているかのように盛り上がっている。
一方、僕はその会話の輪のなかに入ることなく黙って聞いていた。
東中野、ワンルーム、クローゼット……。それに、築年数が少ないわりに周囲の相場より安い家賃……。根拠とするには弱すぎる材料だが、僕は少し飛躍した想像をし始めていたのだ。
……今、僕が住んでいる部屋は何か事件のあった事故物件ってやつじゃないのか……?
4.
「……で、ここがその部屋だ、と」
床にあぐらをかいた姿勢でイサがつぶやいた。興味深そうにあたりを見渡している。
イサ……。成山諫は僕と同じゼミの仲間だ。『イサ』とはゼミ内で呼ばれている通称だ。
そう呼ばれるようになったのは僕の苗字も関係している。僕の「丸山」……は、まだ聞き分けられることもあるが、同じゼミ内には「鳴山」という苗字の者もいる。「まるやま」「なりやま」「なるやま」……。似た呼びの苗字が並ぶと間違いが起きやすい。どうしようかと話題になったとき、イサが「ぼくは中学時代に『イサ』と呼ばれとったよ」と言ったので、呼び名が『イサ』になった。
鳴山さんも「高校時代『ワカコ』って呼ばれていた」と申し出てくれたので、僕だけ「丸山君」ですんだ。ちなみに、『ワカコ』さんの本名は『羽花』である。
イサは神戸出身で、話す言葉も関西弁だ。ただ父とは違う感じがするので指摘すると、「同じ関西弁でも神戸と大阪じゃ違うんよ」と答えた。「神戸はスッキリ系、大阪はネットリ系」。しかし、どう違うのか未だ理解はできていない。
理解できないのはイサの頭脳についてもそうだ。彼はあまり勉強が得意そうに見えない。ほかのゼミ仲間と馬鹿話で笑っているような、極楽とんぼ的な様子だ。
しかし、彼の知能が僕たちと一線を画すのはすぐにわかった。
ゼミの担当教授は、不意打ちの質問をするタイプで、それをぶつけられた者はたいてい答えられなかった。知識を問う問題でなく、知見を問うものだったのだ。学識も経験も不足している僕たちがおいそれと対応できるものではない。
しかし、イサは動ずることもなく「こういうことじゃないですか」と答えてみせる。そして、そのたびに教授は「的確な答えだね」と褒めるのだ。彼は一躍ゼミ内の寵児となった。
どうして、教授の質問に答えられるのか、イサに尋ねると「専門的な用語とか意味とか、まだほとんど知らんよ」とのことだ。しかし、「教授の話していることを整理して、どういうこと問われてるんか想像するんや。そうすると、教授の求める答えがポッと浮かんできて、それを答えとるだけ」
それを聞いたみんなは、イサの異能とも呼べる才能に「はぁ……」と息を吐くだけだった。何の参考にもならないという呆れの感情がこもった「はぁ……」だ。僕も同感だ。
聞けば、岐阜県民の僕でも知っている神戸の有名進学校出身で、ほんとうに優秀なのだと思ったが、本人は「そこの落ちこぼれ」と笑う。「単純に知識を問うテストは壊滅的にダメやった」
しかし、論説文などの問題は満点で、落第こそはしなかったと変なところで胸を張った。それも、「何が正解か、答えを想像すると正解が浮かんでくる」ことで乗り切ったそうだ。
イサの、答えを想像する……、いや、『正しい答えを創造する』能力は完全に異端だ。僕の身に起きた、この不可解なできごとについて解明できるのは、イサのような異端者でないのか……。僕はそう考えると、思い切ってイサに今回のことを相談してみた。イサは真面目な顔で話を聞いてくれると、「一度、部屋を見せてもらえんかな?」と言ってきた。「この場で聞いただけじゃ、さすがに何の判断もできへん」
そういうわけで今、イサが僕の部屋にいるのだ。
「めっちゃキレイな部屋やな」部屋を見渡していたイサの感想がこれだった。「ホラーの要素は感じひんな」
ホラーの要素って……。僕は顔をしかめた。「別に怖がらせようと思って話したんじゃない」
「わかっとうよ」そう返すイサは澄ました顔だ。「時間はそろそろってとこか?」
これまで異音が聞こえたのは、午後10時を過ぎたあたりだった。イサにはその時間に合わせて来てもらっている。三段ボックスの上に置いてある時計はちょうど10時を指していた。
「まだ聞こえんな」
「実は、毎日聞こえるってわけじゃないんだ。前に音が聞こえたのは三日前だった」
「ぼくが相談を受ける前日やな。それ以来、音は聞こえん?」
僕はうなずいた。「間隔も一週間空いたり、三日空いたりとバラバラなんだ」
「じゃあ、今日は聞こえんかもしれんのか」
イサは立ち上がりながら言った。別にがっかりしている様子もない。いたって冷静な様子だ。「ベランダ行っていい?」
「いいけど何?」
イサは「ちょっと……」とだけ言ってベランダへ出る。僕も後ろから続いた。
イサはベランダから身を乗り出すと、隣をのぞきこんだ。僕の住むアパートは四部屋並んでいる。僕の部屋は真ん中寄りにあるが、イサがのぞき込む隣は、異音が聞こえた側だった。
「真っ暗やな。留守かな」
「……だとしたら音が聞こえてくるかもしれないね」
イサは乗り出していた身を戻した。「どういうこと?」
僕はイサに手招きすると部屋に戻った。イサはおとなしく僕について戻った。ベランダのサッシもきちんと閉めて。
「前に音が聞こえたとき、僕もイサのようにお隣さんの様子を確かめたんだ。隣が何かの音をたてているのかな、って」
「そのときお隣さんは……」
「留守だった」僕はうなずいた。
「晩の10時やで。帰りが遅いひとなんか?」
僕は首を振った。「その逆。晩に仕事に出るみたいなんだ」
「夜の仕事?」
「いや、シフトで夜勤がある感じだった。正確な職業は知らないけど、廊下で会ったとき、作業着姿だったんだ。ほら、カギの救急とか、水回りのメンテとかしているひとみたいな……」
「ああ、24時間対応の……」
イサは納得したようだった。
「隣が異音をたてているだけだったら、まぁ、ただの迷惑行為って話なんだよね。でも、そうじゃないとわかったから……」
「ほんまにホラー事案やと思ったわけか」
「だから、ホラー事案って……」
僕はイサに向かって顔をしかめてみせた。不安ではあるが、怖いとまで思っていない。ただ、不可解で説明不能な状況を一刻も早くどうにかしたいだけだ。
イサは「まぁまぁ」と僕をなだめるしぐさをしたが、その手の動きが急に止まった。険しい表情で僕の背後に目をやっている。
――かりかりかりかりかりかり……。
気づけば、乾いた、あの鋭い引っ掻き音が部屋に響いていたのだ。
イサは目で「これか?」と尋ねてきたので、僕も無言でうなずいた。
イサはそっとクローゼットに近寄ると、そこで耳をそばだてた。首をひねると、今度は隣の壁に耳をつける。しかし、そのときには音がやんでいた。
「何やろ、これ?」
イサは首をひねりながらクローゼットを開ける。そして、僕が確かめたときと同じように吊ってある服を左右にどかしてクローゼットの壁を検める。身をかがめると置いてある段ボール箱を部屋のなかに入れて床も調べ始めた。
「ちなみに、箱の中身は何?」
「服とか、辞書類とか、あと、何か修理することがあればと工具類が入っている」
「工具類って?」
「ドライバーとかラジオペンチ」
「それ、どの箱なん?」
僕は箱のひとつを開いてみせた。「これ」
イサは箱のなかを検めだしたが、すぐにふたを閉じた。「機械類は無いな」
「機械類?」
「時計とか携帯とか、とにかく音をたてるやつ。何かの拍子で機械が誤作動して音が出ているかもしれんから」
僕は少し驚いた。僕はイサの思考を直感的だと思っていたが、実はかなり論理的な思考をするのだ。
もしかすると、イサは僕たちの予想を超えるスピードで思考を巡らせて、いち早く答えを見つけ出しているのかもしれない。飛躍的ではなく、超スピードの論理的思考。もし、そうであっても、イサの才能は異端だと思うが。
「あとはこの壁の向こうか……」
イサはクローゼットの隣の壁に手を当ててつぶやいた。「お隣さんはペットを飼っているかわかる?」
なるほど。その可能性もあったか。隣が留守だとわかった時点で、僕は隣を疑うことをしなくなっていたが、イサは残る可能性を深掘りしているのだ。
「正直、それはわからない。今のところ隣から動物の鳴き声とか聞こえなかった」
僕は正直に答えた。
「ま、最近のアパートなら、ある程度防音になってるわな」イサは納得したようにうなずく。しかし、僕は納得できない。「ある程度って、どういうこと?」
「正確には、最近の建築物でも防音を完璧にしたのは少ないんや。その代わり、防音効果もある断熱材を壁と壁の間に挟みこむ。断熱材って、素材的に吸音の効果もあるからな」
言われてみれば、建設中であるどこかの家で『防音』と書かれた板が壁に埋め込まれているのを見た記憶がある。あれは防音材ではなく、防音効果もある断熱材なのか。
「音ってのは振動が伝わるところであれば聞こえるもんやから、完璧な防音って難しいんや。それで、一定の基準以内なら『防音されている』って扱いになる」
その話であれば、僕も最近教わっている。ほかならぬこの住まい探しで、『遮音等級D値』だの、『床の衝撃音L値』だの示されて、この部屋の防音対策は基準内ですと不動産屋さんに説明された。僕もそれを聞いて安心していた。
いや、だからこそ、この異音騒ぎには悩まされるのだ。不動産屋さんに訴えればいい話なのかもわからない。
「これはオーナーに訴えていい話かな?」
家賃の支払先は個人名になっていた。もともとこの土地の所有者がアパートを建てたのかなと思っている。
「さぁ。オーナーに訴えても、いつ、どこから聞こえるんか、オーナーにわかってもらえんと解決につながらん気がするしな」
イサの言う通りで、実のところ僕もそう思っていた。だからイサを呼ぶことにしたのだ。
「ま、今考えてもわからんことはわからんな」
イサはぽんぽんと壁を叩くと振り返った。「ちょっと時間がかかるかもしれんけど、ぼくなりに調べてみるわ」
「調べるって、本当は何かわかったのか?」僕は驚いて声をあげた。しかし、イサは笑顔で首を振った。「はっきりしてないことは何も言わんよ。でも、いくつか可能性は思い浮かんでる。それをつぶしていけば、いつか正解にたどり着くよ」
イサはそう答えるだけだった。
5.
あれから二、三日、僕はイサからの連絡を待った。あの「かりかり」という音は聞こえてこないが、僕はいつ、また音が聞こえだすのか不安で仕方がなかった。あの部屋は、クローゼットの反対側に壁収納型のベッドがあり、ベッドを収納すれば勉強机が姿を現す仕組みになっている。つまり、寝るときは、あのクローゼットを横目で見る位置関係になる。
音の出どころがクローゼットなのかはっきりしていないが、僕はそこから何か現れやしないかと不安で、頭の上まで布団をかぶって寝るようになっていた。
そう。このころには僕はこの部屋で過ごすのが怖くなっていたのだ。
次のゼミでイサに会うと、イサは今夜部屋を訪ねていいか言ってきた。
「何かわかったのか?」
ずっと気になっていた僕は勢い込んで尋ねてしまった。イサは苦笑いで首を振った。
「わかったと言うか、気になることができたんや。それを今夜確かめたいって思って」
「気になること?」
「お隣さんのことや」
「隣?」隣がどうかしたのか。あれから、こちらなりに隣の様子をうかがって、ペットがいるか確かめようとしたが、けっきょく何もわからなかった。ベランダのサッシは固く閉められ、真っ黒なカーテンで部屋の様子を見ることもできなかったのだ。のぞきなどするべきでないとわかっているが、僕もそれだけ切羽詰まってきていた。後ろめたさを感じながらも確かめずにはいられなかったのだ。
ただ、ペットを飼っているのなら、真っ黒なカーテンで部屋を隠すだろうか。日中でさえ真っ暗な部屋では、どんなペットも参ってしまうと思うのだ。
詳しく聞こうと思ったが、担当教授がやってきて、その続きが聞けなくなった。ゼミが終わると、イサは「詳しくは今夜」と言い残してどこかへ行ってしまったのだ。
今夜、と言っていたが、イサが現れたのは8時を過ぎたころだった。そのころ、隣も帰宅したようで、玄関の扉を開閉する音がかすかに聞こえた。
「今夜は、あの現象は起きないかもしれないよ」
あの異音は隣が不在のときに起こっている――。根拠は薄弱ながら、僕はそういう法則を考えていた。
「たぶんな」イサも同じことを考えていたのか、そんなことを言った。
イサは部屋に入ると、僕と向かい合わせで座った。「さて、お隣さんの件で聞いてもらおうか」
「お隣さんがどうかしたのか?」
「実はな、ここ数日、僕は隣の男を張ってたんや」
「ええ?」
イサは人差し指を自分の口に当てた。
「君が言ってたように、数日に一日は夜勤があるらしい。作業着姿からも24時間体制のメンテ関連の仕事やと思われる。まぁ、それはいい。男以外にひとの出入りなし。犬などペットの散歩に出かける様子もなし。まぁ、猫を飼っていて、猫が壁に爪をたてていた可能性は消えんかったけどな」
僕が頼んだことだけど、イサがそこまでするとは思わなかった。イサは発想だけでなく行動力も予想を上回っていた。
「だから、裏付けを取るには、あの隣人氏がキャットフードを買うかどうか確かめるしか残らんかった。そこで、この間、ようやく隣人氏がゴミを捨てたので、そのゴミ袋を回収して調べたんや」
「そんなことまでしたの?」
思わずうわずった声が出てしまった。イサはふたたび人差し指を口に当てて僕を黙らせた。
「キャットフード関連の何かが出れば、隣人氏が内緒でペットを飼っていたって話になる。異音の件も実質的に解決や。猫が原因って想像つくからな」
言われてみればそうだ。このアパートはペット禁止なので、もし、ペットを飼っているとわかれば、そのことをオーナーに相談すればいいだろう。
「正直なところ、そうであってくれって思ってたんやけど……」
そこでイサは話しにくそうな表情になった。
「どうしたの? 何も出なかったのか?」
イサはあいまいなうなずき方をした。「キャットフードとか、ペット関連のものは何も出なかった」
「ペット関連のものは? じゃあ、何か違うものが出たのか?」
イサはふたたび同じようなうなずき方をした。「生理用品が見つかった」
言われている意味がわからず、僕はきょとんとした。「生理用品?」
「もちろん、女性が使うもの。オリモノとか、そういうのに使うやつ……」
「いや、生理用品という単語の意味は知っている。そうじゃなくて、隣の男が捨てたゴミのなかに生理用品が入っていたのか?」
「そう」イサはうなずいた。今度はしっかりしたうなずき方だった。
「どういうこと?」つまり、隣に住んでいるのは男ではなく、女性だったということ?
「ぼくは、今回の件でいくつか想像したんやけど、一番最悪な想像があった。正直、これであってほしくなかった。それで少々強引やけど、徹底して確かめることにしたんや。
つまり、あの部屋には男以外の何かがいた。それはペットではなく誰かほかの人間であるという想像や」
僕は、イサの考え……想像に追いつけなかった。「だから、どういうこと?」
「あのゴミの存在から、部屋に女性がいることは間違いない。だけど、部屋は常にカーテンで目隠しされ、誰も出入りする様子はない。いや、出入りするのは男ひとりだけ。それはつまり、ある女性がその部屋から出られない状況にあることを示唆している」
「ま、まさか!」
僕は思わず隣の壁に視線をやる。クローゼットの隣の壁は白いまま沈黙を保っていた。
「男がいないときに限って引っ掻き音が聞こえたのは、クローゼットに押し込められていた女性が助けを求めて壁を引っ掻いたものではないか。そう想像したんや」
僕は自分でわかるほど顔が蒼ざめた。
「これも想像やけど、男が留守中のとき、女性はほとんど身動きできない姿勢でクローゼットに押し込められていたんやないか。わずかに指先だけが動く程度で。女性は一縷の望みをかけて壁を引っ掻いて異常を報せた。この音を聞きつけて誰かが助けに来てくれないかと……」
とんでもない想像をする。僕はイサのぶっ飛んだ考えに戦慄してしまった。しかし、ゴミのなかから見つかった生理用品。その事実がイサの考えを肯定していた。
「じゃ、じゃあどうすればいいんだよ。今から、隣に踏み込んで確かめるのか?」
イサの考えに納得しかけながらも、僕はそんな言い方になっていた。もし、部屋に押し入って女性など見つからなかったら、僕たちはとんだ迷惑をかけることになるのだ。
「それは難しいな。あくまでぼくの想像の話やし。今、のこのこ訪ねて、そちらに女性はおりませんかって聞くわけにもいかんしなぁ」
「でも、想像通りだったら、これは事件だぞ」
「その通り。看過できない緊急事態でもある」
イサはそう言うと立ち上がった。「丸山」
僕はイサを見上げた。イサの顔は蒼ざめていて、緊張で強張っているのがわかった。「どうした?」
「これからぼくのすることは君にも迷惑をかける。先に謝っておく」
僕はぽかんとしてしまった。「これから……する……?」
イサはポケットから何か取り出すとキッチンに向かって駆けだした。声をかける間もなかった。キッチンに着くや、イサは取り出したものを天井に向かって掲げる。その手にあったものはキャンプなどで見かける点火棒だった。
「ま、まさか、イサ!」
僕が叫ぶと同時に、イサは点火棒に火を点けた。あらかじめ火力は最大に設定されていたらしく、大きな炎が天井をなめた。天井には火炎感知器がついている。
僕が慌てて立ち上がろうとしたとき、室内にけたたましいベル音が響き渡った。火災の発生を報せる、あの「ジリリリリリッ!」という音だった。
6.
イサの行動はそれだけで終わらなかった。部屋から飛び出すと、「火事です! みなさん、避難してください!」と叫びだしたのだ。
「ほんとうに迷惑な!」
僕も叫びながら部屋を飛び出した。慌てていたので僕もイサと同じように靴下のままだ。
鳴り響く非常ベルに、イサの叫び声。すぐに、アパートから隣人たちがドアから顔をのぞかせた。
「すみません、台所で火事を起こしてしまいました。みなさん、とにかく急いで避難してください。とにかく急いで!」
イサが慌てたように大声で急かす。事情を知っている者から見れば迫真の演技だ。
イサの、いかにも焦った様子に、周囲の方たちは一瞬、顔を引っ込めたが、すぐにバタバタと外へ飛び出して階段を駆け下りていく。おそらく、携帯や財布などを取りに戻り、そしてすぐに避難を始めたのだろう。そういうところは、さすが日本というか、どこか災害に慣れているように感じた。
問題の隣人も姿を現していた。この間見かけたときと同じ作業着姿で、帰ってからまだ着替えていなかったらしい。
「あ、あなたも! すぐ避難してください。もうここは危険なんです!」
イサは隣人氏の腕を掴まんばかりの勢いで詰め寄りながら叫んだ。隣人氏はのけぞりながら、「ま、マジで、火事、なのか?」と小声で尋ねた。
「謝罪はあとでいくらでもします。ですから、とにかくご自分の安全を優先してください! どうか!」
イサの強い口調に気圧されたのか、隣人氏は少し後ずさったが、のろのろと階段に向かって歩き出した。何度も後ろ……、自室の扉を振り返りながら。僕はこの瞬間、イサの想像が正しいのだと確信した。この事態にこうも自室を気にするのは、この部屋に気がかりなことがあるからだ。
「何してるんですか! あなたにケガでもされたらほんとうに取り返しがつきません! 早く避難してください!」
イサの大声に隣人氏は首をすくめると小走りで階段を降りていった。姿が見えなくなるや、イサはくるりと向きを変えた。「今や!」
イサの突飛な行動で、隣人氏はカギもかけずに部屋から出て行ってしまった。僕たちは難なく隣人氏の部屋に踏み込めた。
部屋は明かりが点いたままで、室内の様子がよくわかった。見える範囲には誰の姿も見えない。僕は不安にかられた。
一方、イサはためらうことなく部屋に入ると、クローゼットへ駆け寄った。そして、勢いよく扉を開ける。
「良かった……」イサから安堵の声が聞こえた。
僕も急いでイサの隣に行くと、クローゼットのなかが見えた。
僕の部屋と同じ造りで、いくつかの服や作業着が吊るされている。しかし、その下には段ボール箱ではなく、ひとりの女性が横たわっていた。
下着以外何も身につけておらず、もとは白かったはずの肌にいくつもの赤いミミズ腫れが見えた。タオルのようなもので猿ぐつわをされ、どこで手に入れたのか、銀色に光る手錠で両腕を後ろ手に拘束されていた。いや、手錠は両足にも取り付けられ、食い込んでいる様子が痛々しかった。
ただ、救いなのは彼女は生きていた。恐怖で目を大きく見開いた状態だったが、そこにはたしかに生命が宿っている輝きが残っていたのだ。
イサは女性のかたわらに屈みこむと、手錠の様子を検めた。しかし、手錠を外すための道具も知識もない状態ではさすがにどうにもできない。イサは一瞬、苦渋の表情を浮かべたがすぐに笑顔を浮かべた。
そして、丁寧に猿ぐつわを外しながら、「助けに来ました。あなたはもう助かります」と囁いた。
猿ぐつわを外された女性は若く、こんな状態にあっても美人で可愛らしい顔立ちだとわかった。しかし、その顔はすぐくしゃくしゃになると嗚咽を漏らし始めた。恐怖で声も出ない状態だったのが、それから解放されて感情の堰が切れたようだ。
「丸山、危険を冒しただけの成果はあったよ」
イサの声はいかにもほっとしたようなものだった。
7.
このことの大まかな話はテレビなどで報道されているから、知っている方がいるかもしれない。被害に遭った女性は、メイド喫茶でバイトしていたが、その常連だった隣人氏に拉致、監禁されてしまったのだ。隣人氏から交際を申し込まれていたが丁重に断ったことが事件のきっかけで、隣人氏はバイトを終えて店を出た彼女を襲ったのだ。依頼のあった住宅を訪問するメンテ関連の仕事をしており、夜勤用の車をその犯行に使っていた。
監禁生活は10日以上にも及び、もし、イサの機転で救われなかったら生命の危険も高かった。あの火事騒ぎで隣人氏はそのまま姿をくらましてしまったが、警察がその行方を追っている。
「どうやった? 大家さんには叱られんかったか?」
イサが電話してきたのは、あの騒ぎを起こしてから二日ほど経った晩のことだ。僕はノートパソコンに向かってレポートの続きを作成しているところだった。
「まぁ、人騒がせなところは注意されたけど、それでも人助けのためだからと許してもらえたよ。同じアパートの人たちにも謝りに行ったけど、それも同じだった」
「すまんな。ほんとうはぼくが謝りに回らなあかんかったのに」
イサはこの二日ほど、ずっと警察で調書を取られていた。どうして隣人氏の犯行に気づけたのか、その説明に苦労したらしい。そりゃそうだろう。イサの特殊な能力を知っている僕でさえ、事件に気づけた思考が理解できなかったんだから。
「いいよ。それより、イサも大変だったな。警察は納得してくれたのか?」
電話越しにイサがため息をついたのがわかった。「まぁ、なんとなくって感じやったけど……」
僕は笑い出しそうになった。
「何はともあれ、お隣の件は片づいた。今度は丸山の件をなんとかしなきゃな」
続くイサの言葉に、笑いそうになった僕の表情が強張った。「何だって?」
「実は、あの現象について、あの音がどこから発せられたのか建築学をやっている友だちに検証してもらってたんや。結論から先に言えば、あのカリカリ音は拉致された女性が壁を引っ掻いた音ではなかったんや」
「ど、どういうこと?」
「あの音は高く、鋭いものやった。壁の向こう側から引っ掻き音をたてると、音は響くけどくぐもった感じになって、鈍く、低い音になるんや。つまり、あの音は少なくとも丸山の室内で発せられたもの、ということになる」
携帯を握る僕の手が緊張で汗ばんできた。「あの事件と、あの音は無関係だったのか?」
「そうなる。だから、こっちの手が空くようになったら、また丸山の部屋を訪ねるわ。友だちから室内の騒音を調べる機器も借りたから本格的に調べられると思う」
おそらく、イサはそう言ってくれたように思う。しかし、僕はイサの言葉をほとんど聞いていなかった。
思わず振り返った先に、あのクローゼットの扉がある。それは少し押し開かれて、その端をつかむように人間の指らしいものが三本、のぞいているのが見えたからだった。
ホラー小説について、勝手に法則めいたものを考えている。
それは、緊張で始まり、その緩和、最後に戦慄させる一文で締めくくる……、というもの。
その法則で造ったのが、2年前に発表した「うわさの焦点」という作品だ。
今回、「音」をテーマに取り組んだが、その「うわさの焦点」に登場した成山諫に再登場してもらい、「クローゼットから異音がする」というありふれたストーリーに変化をもたらす役割を担ってもらった(「うわさの焦点」から2年が過ぎ、当時高2のイサも大学生になりました)。
勝手に考えた法則だけど、ホラー小説としての出来栄えはどうか?
そういうことばっかり気にしてます……。




