幽霊の客
震災から数年が経ち、宮城県石巻市の夜は再び灯りを取り戻しつつあった。だが、街のどこかにはまだ爪痕が残っており、地元の人々の胸には癒えない傷が残っていた。
佐藤は五十代のタクシードライバーだった。夜勤が多く、深夜の市街地や沿岸部を回る。震災の直後は乗客も減っていたが、復興工事や出稼ぎの人々で少しずつ需要が戻ってきていた。
その夜も、彼は終電の時間を過ぎた駅前で客を待っていた。人影は少なく、街は妙に静かだ。やがて、後部座席のドアが「コン」と小さな音を立てて開いた。
「お願いします」
若い女性の声だった。二十歳そこそこの、白いコートを着た痩せた女性が座っている。髪は肩までで、顔は俯いてよく見えなかった。
「どちらまで?」
と尋ねると、女性は少し間をおいて答えた。
「……南浜まで」
佐藤は息を呑んだ。南浜地区は津波で壊滅し、今は更地のまま。街灯もなく、人の住む場所ではない。
「ええと、南浜ですか?」
確認するが、女性はただ小さく頷いた。
仕方なく、車を走らせる。深夜の道路はがらんとして、エンジン音だけが響く。バックミラーで様子を伺うと、女性は俯いたまま何も話さない。目的地が近づくにつれ、佐藤の胸は妙なざわめきに満たされていった。
やがて車は南浜の入口に差しかかった。街並みは消え、広大な空き地が広がっている。月明かりに照らされて、折れ曲がった電柱や壊れたフェンスの残骸が浮かび上がる。
「……この辺でいいです」
女性の声がした。
車を停め、料金メーターを確認しようとしたその瞬間――佐藤は凍りついた。
後部座席は空っぽだった。
シートには、座っていたはずの人間の重みすら残っていない。
恐怖で息が詰まりながらも後ろを振り返ると、かすかに人の形をした白い影が、遠くの更地の上を歩いていくのが見えた。足音もなく、ゆらゆらと漂うように。
佐藤はハンドルを握る手を震わせながら、そっと車を発進させた。
だがその時、料金メーターが「2,600円」で止まっていることに気づく。確かにメーターは動いていた。
――乗せたのは、いったい誰だったのか。
翌朝、佐藤は同僚の運転手にこの話を打ち明けた。すると彼らは互いに顔を見合わせ、小さく頷き合った。
「……俺も、乗せたよ」
「うちの車にも出た」
驚いたことに、同じような体験をした運転手が何人もいたのだ。みな違う夜、違う場所で「震災で亡くなった人々を乗せた」と口を揃える。
ある者は、行き先を告げられた港で客が消えた。
ある者は、泥だらけの青年を乗せ、降ろした直後に後部座席がびしょ濡れになっていた。
だが誰もが共通して言う。「料金メーターは必ず動いていた」と。
その後、会社には「料金未収」の記録がいくつも残った。帳簿に赤字で刻まれたその数字は、まるで亡者たちが「確かにここに存在していた」証拠のようだった。
佐藤は今も夜の運転を続けている。
そして、ときおり考えるのだ。もし再び、あの白いコートの女が後部座席に座ったら、自分は何を言うべきだろうかと。