声を合わせる家
新卒で入社して三か月目の遥は、会社の寮を出て自分の部屋を探すことにした。都心への通勤に便利な沿線にある古い木造アパートを紹介されたとき、家賃の安さに驚いた。六畳一間、風呂・トイレ別、築四十年だが掃除もされていて綺麗だ。不動産屋は「前の入居者が少し急ぎで退去しましてね」と笑ってごまかした。深く考えず、遥はその部屋に決めた。
引っ越した初日、近所のスーパーで買った弁当を食べ、狭いながらも自分だけの空間に喜びを感じていた。夜、布団に入ると、部屋の隅から「カサ…カサ…」と小さな音が聞こえた。ネズミかゴキブリだろうと思い、スマホを握りしめながら目をつむった。
数日後、仕事に疲れて帰ってきた夜のこと。シャワーを浴び、ベッドに倒れ込んだ遥は咳払いをした。すると、一瞬遅れて「コホン」と同じ咳が返ってきた。耳を疑い、部屋の外を確認したが誰もいない。その後も、鼻歌を歌えば「フンフン」と遅れて同じ音が返ってきた。最初は「隣の住人が壁越しに真似しているのか」と思った。だが管理人に尋ねると「今は隣も下も空いてるよ。君だけだ」と言われた。
嫌な予感を抱えつつも、日常は続いた。会社では新人研修が終わり、同期と飲みに行くことも増えた。ある晩、気心の知れた同僚・美咲を部屋に呼んだ。二人でカップラーメンを食べながらテレビを見ていると、遥は半分冗談のつもりで「この部屋、声が返ってくるんだ」と言った。美咲は笑いながら「なにそれ、試してみようよ」と言い、遥が「ハロー」と声を出した瞬間、壁の奥から少し低く歪んだ「ハロー」が返ってきた。美咲の顔から血の気が引いた。「……今の、男の声だったよな? 二人分、重なってた……」彼女は震えながら「やめよ、出よう」と言い残し、靴もそこそこに外へ飛び出してしまった。
その日を境に声は日に日に増えた。夜帰宅して「ただいま」と言えば「ただいま」「ただいま」と二重三重に返ってくる。録音アプリを起動して試すと、自分の声のあとに十人以上の声が重なり、時折、自分とまったく同じ声が紛れ込んでいた。
恐ろしくなった遥は、思い切って大家に相談した。六十代の小柄な女性で、長年このアパートを管理している。話を聞いた大家は、しばらく沈黙したあと、低い声でこう言った。
「ここね、昔“声を合わせる家”って呼ばれてたんだよ」
十年前、この部屋に住んでいた一家がある夜を境に全員失踪した。警察が何度も捜索したが、家具も布団もそのまま残されており、行方は杳として知れなかった。近所の人は口をそろえて言ったという。「あの家族、夜な夜な全員の声をぴったり揃えて、何かを唱えていた」――と。
遥は青ざめ、すぐに退去を決意した。荷物をまとめる最終日の夜、最後に部屋へ一礼して「さよなら」と呟いた。すると、奥の暗がりから男女の声、子供の声、無数の声が重なって返ってきた。
「さよなら、さよなら、さよなら……」
その中に、自分自身の声が確かに混ざっていた。
数週間後、不動産情報サイトを見ていた美咲は思わず凍りついた。あのアパートの部屋が、さらに安い家賃で再び募集されていたのだ。間取りは変わらず、写真も以前のまま。備考欄にただ一言、こう書かれていた。
――「音に敏感な方はご遠慮ください」