帰宅の声
私は結婚して三年目、夫と二人暮らしをしている。ごく普通のマンションの一室で、駅からも近く、不満はなかった。
ある日の夕方、私は台所で夕飯の支度をしていた。玄関の鍵が回る音がして、夫が帰ってきたのだと思った。
「おかえり」
そう声をかけたが、返事がない。廊下をのぞいても誰もいなかった。
気のせいだろう、とその日は忘れることにした。
だが次の日も、同じことが起きた。
ガチャリ、と鍵が回る音。ドアが開く気配。私は「おかえり」と言ったが、やはり誰もいない。
三日目には、はっきりと足音が聞こえた。廊下を歩く靴音がリビングの手前まで来るのに、姿は見えない。鳥肌が立ち、私は台所に立ち尽くした。
夫に相談すると、「疲れてるんだよ」と笑って取り合わなかった。だが私は次第に不安で眠れなくなっていった。
ある夜、夫が残業で遅くなると言った日。私は一人でリビングにいた。すると、玄関から聞こえてきた。
「ただいま」
低い、夫そっくりの声。
私は条件反射で「おかえり」と答えてしまった。その瞬間、背後の暗い廊下から、濡れた靴跡がゆっくり近づいてきた。声も姿もないのに、確かに「何か」がこちらへ来ていた。
私は叫び声を上げ、玄関へ駆けた。ドアを開けて外に飛び出すと、ちょうど本物の夫が帰ってくるところだった。
彼は驚いて私を抱きとめた。背後の部屋を振り返ると、靴跡は玄関まで続き、そこで途切れていた。
その一件以来、私たちは夜遅く帰るのを避け、なるべく二人一緒に過ごすようにした。
何も起こらないまま数日が過ぎ、私も少しずつ落ち着きを取り戻していた。
そんなある晩。夫と二人で食卓を囲んでいると、玄関の鍵が回る音がした。
同時に、夫の声がした。
「ただいま」
私は手にした箸を落とし、目の前の夫を見た。
彼もまた、私をじっと見返していた。
どちらも一言も発さず、ただ沈黙が流れる。
その後の記憶は、何一つ思い出せない。
翌朝、私は一人で目を覚ました。
食卓には昨夜の夕飯がそのまま残っている。夫の姿はどこにもなかった。
玄関に行くと、靴箱には夫の靴が二足分きれいに並べられていた。
けれどドアの外の廊下には、濡れた足跡が二人分、遠くへ遠くへと続いていた。




