最後の入居者
大学二年の夏、佐伯は家賃の安さに惹かれて、都内の築古アパートに引っ越した。ワンルームの狭い部屋だが、立地は悪くない。唯一気になったのは、不動産屋がやけに急いで契約を進めたことだった。内見のときも「細かいところは気にしないでくださいね、すぐ決まっちゃいますから」と、こちらの質問を遮るようにしていた。
入居して最初の夜。布団に入ると、天井から「トン、トン」と規則正しい音がした。上階はない。アパートは二階建てで、自分の部屋は最上階だ。妙に不気味だったが、疲れていたせいで眠りに落ちた。
数日後、夜中にふと目を覚ますと、部屋の隅に人影が立っているのに気づいた。
佐伯は飛び起きて電気をつけた。だがそこには誰もいない。ただ、フローリングに湿った足跡が数歩分だけ残されていた。
翌日、不動産屋に電話をした。返ってきたのは素っ気ない声だった。
「ええ、たまに音がするって言う人はいますけど、気のせいですよ。実害はありませんし」
「実害」という言葉に引っかかったが、それ以上は何も答えてもらえなかった。
ある夜、佐伯は奇妙な夢を見た。
自分の部屋の間取りを上から見下ろしていて、そこには複数の人影がうずくまっていた。キッチンに女が、押し入れに老人が、風呂場に子どもが……。そして、寝室の布団の横には、知らない男が立っていた。
目を覚ますと、部屋の隅にまた人影が立っている気配がした。電気をつけると何もない。ただ、夢に出てきた通りの場所に水滴の跡が点々と残っていた。
一週間後。耐えられなくなった佐伯は、アパートの隣に住む老婦人に声をかけた。
「ここって、前はどんな人が住んでたんですか?」
老婦人は一瞬言葉を濁し、やがてぽつりと答えた。
「……みんな、長くは住まなかったわね」
その表情は妙に硬く、それ以上は口を閉ざしてしまった。
夜が来るたび、部屋の中の気配は増していった。
姿ははっきりとは見えない。だが、確かに布団のすぐ横で誰かが覗き込んでいる。呼吸が耳元にかかる。スマホで録音すると、微かな声が残っていた。
『まだいる、まだいる』
繰り返すような低い囁き。
恐怖のあまり、佐伯はついに部屋を飛び出し、友人の家に転がり込んだ。数日後、荷物を取りに戻ると、部屋は妙に片付いていた。
冷蔵庫の中の食べ物も、床に置きっぱなしにした衣服も消えている。代わりに、テーブルの上に一枚のメモが置かれていた。
震える手で開くと、殴り書きの文字が並んでいた。
――「お前の後に入るのは、誰だ?」
佐伯はすぐに引っ越した。荷物のほとんどは捨ててしまった。
後日、あのアパートの募集広告をふと目にした。間取り図の備考欄に、見慣れない文字が書き込まれていた。
『※現在入居中。退去予定なし』
だが、そこに記載されている入居者の名前は――佐伯自身のものだった。




