間の住人
大学進学を機に上京した水野遥は、都心から少し離れた下町のアパートに住むことになった。古びた木造二階建て。細長い廊下の両側に八つの部屋が並び、共同玄関から続くその廊下は、昼でも薄暗かった。
初めて下宿を案内されたとき、大家の老女は寡黙で、ただ一つだけ念を押した。
「夜は……廊下に出ないことね」
その言葉の意味を、遥は深く考えなかった。
最初の数日は、特に問題なく過ぎた。大学では新しい友人もでき、サークル活動にも顔を出し、都会での暮らしに浮き立っていた。
しかし、入居から一週間ほど経った頃、夜中に妙な音がすることに気づく。
壁の向こうから、「トン……トン……」と、一定の間隔で響く音。最初は隣室の住人が何かしているのだと思った。だが昼間、管理会社の書類を確認すると、左右の部屋はどちらも「空室」と記されていた。
その夜も布団に入ると、また音が始まった。今度は壁を叩くだけでなく、誰かが廊下を歩き回る足音も混じっていた。
廊下の突き当たりには、使われていない収納室があると聞いていた。まるでその奥から、裸足で歩くような湿った音が続いている。
大学の友人に愚痴をこぼすと、「古い建物だし、きっと木材が鳴ってるだけだろ」と笑われた。自分もそうだと思おうとしたが、夜を過ごすたび、不安は増していった。
ある日、郵便受けにチラシを取りに行ったとき、廊下の壁に奇妙なものを見つけた。
鉛筆で雑に描かれた「間取り図」のような落書き。八つの部屋が四角く並び、いくつかが黒く塗りつぶされている。
見れば、塗りつぶされた部屋は、すべて過去に入居者がいたはずの部屋だった。
だが、最後に残された一室――塗りつぶされていないのは、今、遥が暮らしている部屋だけだった。
恐ろしくなり、彼女は大家に尋ねた。
「すみません、あの落書き……誰がしたんでしょうか」
老女は一瞬だけ目を伏せ、低い声で答えた。
「ああ……あれは消しても、また現れるんだよ。気にすることはない」
そう言って踵を返したが、その背中がわずかに震えていたことを、遥は見逃さなかった。
ある晩、夢を見た。
夢の中で、彼女は上から廊下を俯瞰していた。八つの部屋の前に、それぞれ人影がしゃがんでいる。黒く塗りつぶされた部屋には、膝を抱えた人影が佇んでいた。
そして、自分の部屋の前だけ、まだ空いていた。
目を覚ますと、額に汗がにじんでいた。恐る恐る廊下に出てみると、壁の落書きに変化があった。――彼女の部屋の枠の横に、小さく震える文字で「まだ、誰かいる」と書き足されていた。
その日から、音は一層激しくなった。
廊下の奥で足音が止まり、扉の前でじっと立ち止まっている気配がする。息を殺すと、今度は室内の天井を「トン」と叩かれる。
まるで「次はお前だ」と告げられているようだった。
限界を感じた遥は、友人の圭太を部屋に呼んで泊まってもらった。
深夜、二人で息を潜めていると、やはり壁を叩く音が始まった。
圭太は顔をしかめ、囁くように言った。
「……これ、壁からじゃない。中からだ」
その瞬間、押し入れがギシリと音を立てた。遥は恐怖に駆られ、明かりをつけようとしたが、電灯は点かなかった。暗闇の中、押し入れの戸がわずかに開き、奥の闇から湿った息づかいが漏れた。
翌朝、圭太の姿は消えていた。
荷物も靴も残されたまま、まるで初めから存在しなかったかのように。警察に訴えたが、彼は実家に帰ったのではないかと軽く扱われた。
しかし、遥は知っていた。――あの落書きの図で、新たに黒く塗りつぶされた部屋が一つ増えていたのだ。
恐怖に追い詰められ、彼女は部屋を飛び出した。大家の家に駆け込み、泣きながら事情を訴えた。
老女はしばらく沈黙し、そして静かに言った。
「……ここには、もう一人の住人がいるのさ。誰も名前を知らない。ずっと昔から、廊下の奥に座り込んでいるんだよ。人が増えると、一つずつ連れていくんだ」
遥は震えながら問いかけた。
「どうすれば……逃げられるんですか?」
老女は首を振った。
「逃げられやしない。ここに住んだ時点で、もう名前を書かれている」
その夜、遥は最後の夢を見た。
夢の中で、また俯瞰の視点に立たされる。八つの部屋、黒く塗りつぶされた枠。そして、自分の部屋の前に――ゆっくりと、人影が立ち上がる。
振り返ったその顔を見た瞬間、遥の意識は途切れた。
数日後、管理会社の職員が部屋を訪れた。
家具や荷物はそのまま、だが住人の姿はなかった。警察に連絡が行き、形式的な調査が行われたが、やがて立ち消えた。
ただ一つ、誰も説明できなかったものがある。
廊下の壁に描かれた落書き。八つの部屋はすべて黒く塗りつぶされ、その横に新たな文字が刻まれていた。
――「まだ、誰かいる」




