鏡の家
大学三年の秋、拓真は久しぶりに郊外の実家へ帰省した。父と母と妹が暮らす家は十年前に建てられた新しい一軒家で、当時のままの姿で彼を迎え入れた。しかし玄関に足を踏み入れた瞬間、違和感を覚える。壁に見覚えのない大きな鏡が掛けられていたのだ。幅一メートルほどの姿見は玄関の正面に据え付けられ、まるで誰かを映すために待ち構えているように思えた。「これ、いつからあるの?」と母に尋ねると、「前からあったでしょ」と曖昧に笑う。父も妹も同じことを言うが、拓真にはどうしても納得できなかった。
その夜、風呂上がりにふとその鏡を覗き込んだ拓真は、背後の廊下に伸びる影の位置が微妙に違っていることに気づく。自分の動きと一拍ずれ、わずかに遅れて影が揺れるのだ。「歪んでるのか?」と首を傾げたが、落ち着かない気配がまとわりつく。寝室へ戻る途中、廊下で妹に出会い「あの鏡、変じゃないか?」と声をかけると、妹は目を伏せてしばらく黙り込み、低く「……見ちゃダメだよ」とだけ呟いた。その一言が耳から離れず、眠りは浅いままだった。
翌日の夕食、家族揃って食卓を囲んでいると、拓真は箸を持つ父の指が一瞬六本に見えた。慌てて見直すと五本に戻っている。気のせいかと思う間もなく、今度は母の髪が異様に光り、顔が二重に重なって映って見えた。息苦しくなった拓真は「コンビニに行ってくる」と言い残して外へ飛び出した。冷たい夜風に晒され、少しずつ正気を取り戻す。「疲れているんだ」と自分に言い聞かせながら歩いていると、偶然隣家の老夫婦に出くわした。
「久しぶりだね、帰省してたのかい」と優しく声をかけてくれた老夫婦に安心し、拓真は思わず「最近、家で妙なことがあって……鏡とか、家族が少し変に見えるんです」と打ち明けた。だが老夫婦は顔を見合わせ、不思議そうに首を傾げて言った。「……君のお家、もう何年も空き家じゃなかったかい?」その言葉に血の気が引いた。確かに家には家族が暮らしているはずだ。だが、隣人から見れば十年間、誰も住んでいないという。
動揺しながら帰宅すると、玄関の灯りは消えていた。鏡の中には自分の姿が映っている。だがよく見ると、鏡の“中の自分”は一瞬こちらを見て口元を動かした。「やっと帰ってきたんだね」その声が耳の奥に響いた気がした。背後から妹の声が重なる。「お兄ちゃん、見ちゃダメって言ったのに」振り返った瞬間、視界は闇に呑み込まれた。
数日後、拓真を訪ねて実家を訪れた友人は、固く閉ざされた窓と埃っぽい部屋を目にするばかりで、人の気配をまったく感じなかった。隣人に尋ねれば「十年も空き家のままだ」と答える。だが玄関に据え付けられた鏡には、確かに父と母と妹、そして拓真の四人が仲睦まじく笑って並んでいる姿が映っていた。