壁を叩く音
大学二年の春、俺は都内の安アパートに引っ越した。
築四十年近い木造で、家賃は相場より一万円ほど安い。六畳一間に小さな流しと風呂。窓の外には錆びた手すりがあった。
部屋に入ったときは、古いながらも掃除が行き届いていて安心した。
だが入居から数日で、妙なことに気づいた。
夜、布団に入ってしばらくすると、壁の向こうから「コン、コン、コン」と一定の間隔で音がするのだ。
隣の住人だと思った。
古い建物だし、壁も薄い。テレビの音や物音が聞こえても仕方ないと諦めていた。
ところが深夜二時を過ぎても音は止まず、まるで規則的に壁を叩くように続く。
耳につき、眠れない夜が増えていった。
ある休日の昼、郵便受けを見たついでに、ふと隣の部屋のポストを覗いた。
チラシが詰まり、投函口からはみ出していた。表札には何も書かれていない。
不思議に思って大家に訊いた。
「ああ、隣? 半年以上誰も入ってないよ」
そう言われて、背筋が冷たくなった。
では、あの夜ごとの「コンコン」は何なのか。
それからというもの、音は次第に場所を移動するようになった。
最初は隣の壁。
数日後には天井。さらに押し入れの奥。
ある晩などは布団に潜り込んだ足元から「コン」と小さく響いた。
耳を澄ますと必ず止まる。
だが油断して息を吐いた瞬間、すぐ耳元で「コン」と鳴る。
あまりの近さに心臓が縮み上がった。
俺は毎晩、息を殺し、朝が来るのを待つだけだった。
堪えきれず、友人を部屋に呼んで泊まってもらった。
その夜もやはり「コン…コン…」と音がした。
友人は寝ぼけながらも耳を澄ませ、しばらくして青ざめた顔で言った。
「なあ……これ、壁じゃなくて……中からだろ」
その言葉に、俺の血の気が引いた。
結局、そのアパートには長く住めなかった。
荷物をまとめ、別の部屋に移った。
後日、近所に住む老人から聞いた話がある。
俺の住んでいた隣室で、数年前に住人が孤独死していたらしい。
倒れたのは押し入れの中。腐敗が進んでから発見されたと。
老人は「夜中に音がするって話、前の住人も言ってたよ」と付け加えた。
それがどういう意味か、考えたくなかった。
新しい部屋に移ってから、しばらくは平穏だった。
しかし一か月もすると、また夜中に耳障りな音がするようになった。
「コン……」
息を止めると、やはり音も止まる。
そして必ず、最後に一度だけ、耳のすぐ後ろで鳴る。
「コン」
何度も布団をかぶり直し、寝返りを打ったが、音は追いかけてくるように耳元で響いた。
俺はもう気づいている。
あの音は、隣の壁を叩いていたんじゃない。
押し入れや床下から響いていたんでもない。
それはずっと、俺の耳のすぐ後ろから聞こえていたんだ。
内側から、小さく叩かれているように。
……まるで「ここにいる」と伝えようとするみたいに。




