呼ぶ声
俺が高校二年の時のことだ。
夏休み、父は出張で不在、弟は合宿に行っていたので、母と二人きりで家にいた。
その日の午後、二階の自室で勉強していると、一階から母の声が聞こえた。
「――ちょっと、降りてきて」
普段よりも小さな声で、かすかに震えているように聞こえた。
俺は急いで階段を下りた。
だが、一階のリビングには誰もいなかった。
キッチンも風呂場も空っぽ。
「買い物にでも出かけたのか?」と思い、少し不気味に感じつつ部屋に戻った。
夜になり、母と二人で夕飯をとった。
さっきの出来事を話すと、母は眉をひそめた。
「その時間、私はずっと庭で草むしりしてたよ」
確かに、母の手には泥がついていた。
俺は背筋が冷たくなった。
その夜。
布団に入ると、今度は二階の廊下から母の声がした。
「……おいで」
眠気が吹き飛び、震える足でドアを開けた。
だが、廊下には誰もいなかった。
部屋に戻ろうとすると、下から母が呼ぶ声がした。
「どうしたの、まだ起きてるの?」
階段を覗くと、母が一階から顔を出していた。
声は確かに廊下から聞こえたのに。
それから数日、奇妙なことが続いた。
母が台所にいるのに、別の部屋から同じ声がする。
「ご飯できたよ」
「早く降りてきて」
振り返ると母が別の場所にいる。
ある日、父が出張から戻った夜。
俺は思い切って相談した。
父は険しい顔をして言った。
「……またか」
父は古いアルバムを持ってきた。
そこには俺の母にそっくりな女が写っていた。
だが、その人は父の「最初の妻」で、俺が生まれる前に事故で亡くなっていたという。
写真の中の女は、まるで呼びかけるように手を伸ばしていた。
夏休みの終わり、夜中に目を覚ますと、部屋の外から囁き声がした。
「……降りてきて。もう、待たなくていいよ」
耐えきれず布団を頭からかぶっていると、足元を誰かが通り抜ける気配がした。
次の瞬間、耳元で母と同じ声が囁いた。
「本当の“お母さん”のところに、おいで」
叫んだ瞬間、階段を駆け上がってきた本物の母が部屋に飛び込んできた。
俺の顔は蒼白で、布団の端を強く握りしめていたらしい。
以来、その声は聞こえなくなった。
だが俺は今でも、母の声を聞くたびに不安になる。
振り向いたとき、本当にそこに母がいるのか。
それとも――
“もう一人の母”が俺を呼んでいるのか。




