エレベーターの女
俺が大学を卒業して間もない頃の話だ。
当時住んでいたマンションは駅近で便利だったが、築年数が古く、ところどころに不気味な雰囲気が漂っていた。特に、狭いエレベーターは住人の間でも評判が悪かった。夜に乗ると「ミシッ、ミシッ」ときしむ音がして、蛍光灯もチラつくのだ。
ある日の夜、バイト帰りで遅くなり、マンションに戻ったのは午前一時を回っていた。疲れていた俺は、迷わずエレベーターに乗り込んだ。
ドアが閉まる直前、外からスッと影が差し込んだ。
女が一人、無言で乗り込んできた。
その女は二十代くらいに見え、長い黒髪を顔の前に垂らしていた。ワンピース姿で、手ぶらだった。
深夜だというのに薄着で、何より妙なのは、こちらを一切見ずに壁の方を向いて立っていることだった。
エレベーターは二階、三階と上がっていく。
狭い箱の中に二人きり。俺は緊張で喉が渇いてきた。
ふと気づいた。
女の足元――床に影が落ちていなかった。
ぞくりと鳥肌が立った。
その瞬間、エレベーターが「ガコン」と揺れ、非常ベルのような音が短く鳴った。
六階に着くと、女が先に降りた。
だが、廊下には誰もいなかった。
足音もなく、姿も影も消えていた。
翌日、管理人に何気なく聞いてみた。
「あの、昨夜このマンションに若い女の人いました?」
管理人は渋い顔で首を振った。
「……最近は女の入居者はいないよ」
それから数日後、また夜遅くにエレベーターに乗った。
すると、まるで待っていたかのように、同じ女がふいに乗り込んできた。
やはり無言で壁の方を向いている。
俺は恐怖を抑えながら、一つのことを試した。
スマホをそっと構えて、自撮りのふりをしたのだ。
画面を見た瞬間、手が震えた。
映っていたのは俺一人。女の姿はどこにもなかった。
その時、耳元で小さな声が囁いた。
「……見えてるくせに」
パニックになった俺は次の日すぐ引っ越しを決めた。
退去の日、最後にエレベーターを使うのがどうしても怖くて、重い荷物を持ちながら階段を下りた。
エントランスに出てホッとした瞬間、後ろで「チン」と軽い音がした。
振り返ると、エレベーターのドアが開き、中にあの女が立っていた。
今度はまっすぐ俺の方を見て、笑っていた。
引っ越し先のマンションは新築で、安心して暮らせるはずだった。
だが一週間ほど経ったある夜。
帰宅してエレベーターを待っていると、どこからか小さな声が聞こえた。
「……見えてるくせに」
扉が開いた。
中には、誰もいなかった。
だが床には、女の裸足の足跡だけがくっきりと並んでいた。




