隣の部屋
俺が大学二年のときに住んでいたアパートでのことだ。
木造二階建ての安アパートで、壁は薄いが、駅から近く家賃も安い。社会人や学生が多く住んでいて、治安も悪くないと思っていた。
俺の部屋は二階の端で、隣の部屋には年上の女性が住んでいた。挨拶程度しか交わしたことはないが、いつも夜に帰ってくるらしく、ドアの開閉音や足音で「ああ、帰ってきたな」とわかる程度だった。
ある夜、深夜二時頃。レポートを書いていると、壁の向こうから小さく「トントン」と音がした。
最初は何かを叩いているのかと思った。だが不思議なのは、その音が一定のリズムを刻んでいたことだ。
「トン、トン、トン……」
数十秒続き、ふっと止む。それがまた数分後に繰り返される。
試験勉強で神経質になっていた俺は、翌日になって隣人に軽く聞いてみた。
「昨夜、何かしてました?」
女性は少し間を置き、「……いいえ」とだけ言った。笑顔でも愛想でもなく、ただ無表情に。
そのとき、妙に背筋が寒くなった。
それから数日後も、深夜になると「トントン」と音が続いた。
あるときは壁のすぐ近くで、まるで机を指で叩いているような軽い音。
またあるときは床を這うような音。
しまいには「ひっひっひ……」という小さな笑い声まで聞こえた。
しかし翌朝、廊下で顔を合わせると女性は無言のまま洗濯物を干している。
俺はだんだんと、壁の向こうに「彼女一人しかいないのか?」という疑念を抱き始めた。
耐えきれなくなり、大家に相談した。
「あの、隣の人……深夜に変な音を出してるんですけど」
すると大家は一瞬だけ顔をこわばらせた。
「……隣は空き室ですよ」
俺は絶句した。確かに、郵便受けには何もなく、表札も空欄のままだった。
だが、毎晩確かに音がするし、女を見たはずだ。
「いえ、でも女性が住んでて――」
と言いかけると、大家は手を振って遮った。
「気のせいだよ。空き室だ。誰も住んでないんだ」
それ以上は聞けなかった。
恐怖よりも確かめたい気持ちが勝り、俺は夜中にそっと廊下へ出た。
隣のドアの前に立つと、中から確かに「トントン」という音がする。
勇気を出してノブを回すが、施錠されている。
そのとき、耳を近づけると、中から女の声がした。
「……聞いてるの、わかってる」
心臓が止まりそうになり、慌てて部屋へ逃げ込んだ。
数日後、俺は引っ越すことを決めた。
退去の立ち会いで再び大家に会ったとき、思わず聞いてしまった。
「本当に、隣は空き室だったんですか?」
大家は沈黙したあと、しわがれた声で答えた。
「……三年前に、若い女性が住んでいたんだ。夜中にずっと壁を叩いていてね。ある朝、部屋で首を吊ってるのが見つかった。それ以来、あそこは貸してないんだよ」
背筋が凍った。
俺が見て、声を聞いていたのは――。
新居に移ってから一か月ほど経ったある夜。
ふと机に座っていると、壁の向こうから「トントン……」と音がした。
一瞬、息が詰まった。
ただの偶然かもしれない。隣人が何かしているだけかもしれない。
だが、俺にはどうしてもそうは思えなかった。
なぜなら、その音は以前とまったく同じリズムだったのだ。
「聞いてるの、わかってる」
声が、すぐ耳元で囁いた。




