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取り壊さない部屋

大学に入学して間もない頃、俺は地方から上京してきて、安いアパートに住むことになった。

二階建ての古い建物で、壁は薄くて隣のテレビの音まで聞こえるくらいだったが、部屋は角部屋で日当たりもよく、家賃も破格。学生にとってはありがたい物件だった。

ただ、一つだけ妙なことがあった。

俺の隣の部屋だけ、ずっと「空室」の張り紙が貼られていたのだ。

不動産屋に聞いたときは「修繕が必要でして、今は貸し出せないんです」と言われた。深くは気にしなかった。


入居して数日が経った頃、夜中の二時ごろに目を覚ました。

壁の向こうから「ギシ、ギシ……」と床を歩くような音がする。

最初は「隣にも人が住んでるんだな」と思った。だが翌朝、ポストを見たら、やっぱり「空室」のまま。

気のせいだと思い込もうとしたが、その夜もまた音がした。

それだけじゃない。低く笑う声のようなものまで混じっていた。

布団を頭までかぶって震えながら、朝が来るのを待った。


不安になってゴミ捨て場で近所の老婦人に話を振ってみた。

「あの……隣、空室なんですよね?でも夜に人の気配がして……」

老婆は一瞬顔を曇らせ、しばらく黙り込んでから言った。

「……あなたも聞いたのね。でも、あの部屋のことは、あまり詮索しない方がいいわよ」

それ以上は何も教えてくれなかった。


数週間後、アパート全体に異臭が漂い始めた。

生ゴミの腐ったような、獣の死骸のような匂い。

住人たちが苦情を出し、ついに管理会社が隣室の鍵を開けた。

中はがらんどうで、家具も何も置かれていない。

だが、壁と天井には無数の手形がびっしりとついていた。

大人のもの、子どものもの、赤黒く変色した大小さまざまな手形が、壁一面を埋め尽くしていたのだ。

特に寝室側の壁は、何度も黒く塗り潰された跡で真っ黒に染まっていた。

作業員が壁を削ろうとした瞬間、全員が同時に耳にした。

――「ここは、私たちの部屋だ」

囁き声が確かに聞こえた。誰の口から発せられたわけでもないのに。

それ以上の作業はできなくなり、部屋は再び施錠された。

不思議なことに、異臭もその日を境に消えた。


やがて俺は卒業し、そのアパートを出た。

数年後、ニュースで「取り壊し決定」と報じられた。古い木造建物だから当然だろうと思った。

ところが後日、久しぶりに現地を訪れた友人が言った。

「……変だったんだよ。建物は更地になってたのに、隣の“あの部屋”だけ残ってたんだ」

俺は笑ってごまかしたが、鳥肌が止まらなかった。

ブルーシートで覆われた一角に、壁一枚分だけの「部屋」がまだ立っているというのだ。

今も続く音

そして今でも時々、夜になると夢に見る。

あの隣の壁を、何かがコツコツ叩いている音を。

あの声が耳元で囁く。

――「次は、お前の部屋だ」


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