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最後の客
深夜2時を過ぎても営業している小さな個人経営のバー。店長の加藤は、閉店間際に一人の客が入ってくると、少し気が重くなる。
その客はいつも決まって同じ時間、同じカウンター席に座り、同じウイスキーを頼む。会話はほとんどしない。だが一つだけ習慣があった。飲み終わると必ず、「今日で最後にします」と小さく呟くのだ。
最初は冗談かと思った。だが、毎回そう言う。それが一週間、二週間、ひと月と続いた。加藤は次第に、その客が「自殺を考えているのではないか」と思うようになった。勇気を出して声をかけても、客はただにこりと笑うだけで、何も答えない。
ある夜、客がグラスを置いたとき、加藤はついに切り出した。「もし何かあったら、俺に話してくださいよ」客は少し驚いた顔をしたが、やがて静かに笑った。「ありがとうございます。でも大丈夫です。……今日で最後ですから」
その言葉を残して客は去って行った。――翌日から、ぱったりと姿を見せなくなった。
数週間が経ち、警察が店にやって来た。「最近、この辺りに住んでいた男を見かけませんでしたか?」差し出された写真は、あの客だった。加藤は背筋が冷たくなった。だが警察の話を聞いて、さらに凍りついた。
その男はもう三年前に病死していたという。だが遺族の証言によると、生前の口癖は――
「今日で最後にします」




