間取り図
大学進学を機に上京した慎司は、安いアパートを探していた。見つかったのは築三十年の物件だったが、室内はリフォームされていて思ったよりもきれいだった。大学からも自転車で十五分ほど。周囲は静かな住宅街で、これなら勉強にも集中できるだろうと思った。家賃も相場よりかなり安く、これ以上ない条件に思えた。
ただ一つだけ妙な点があった。部屋の壁に、額縁が掛けられており、中に「この部屋の間取り図」が飾られていたのだ。不動産屋は「前の入居者が残していったものでして。釘跡が残るので外せないんです」と説明した。慎司は少し奇妙に感じたものの、安さに惹かれて契約を決めた。
新生活は順調に始まった。講義に出て、サークルにも入り、夜はアルバイト。大学の友人と居酒屋で笑い合うことも増え、ようやく都会での生活に慣れ始めていた。部屋に帰れば一人きりの静かな空間が待っている。それが少し寂しい反面、心地よくもあった。
だが、数日経ったある夜。布団に入った慎司は、隣の部屋から足音を聞いた。誰かが歩き回るような音だ。安堵し、「隣にも学生が住んでいるのか」と思った。ところが翌朝、廊下で隣のポストを見たとき、そこには「空室」と貼り紙があった。
嫌な予感がした。だが疲れていた慎司は気のせいにして眠った。
ある朝、ゴミを出そうとすると、隣の棟に住む老婦人に声をかけられた。「新しく越してきたのね? よろしくねぇ」と穏やかに笑う人だった。話の流れで「隣の部屋って、誰か住んでるんですか?」と尋ねると、老婦人は一瞬だけ黙り込み、やがて曖昧に笑った。「ええ、長いこと誰もいないわよ」――。
その夜、帰宅した慎司は壁の額縁に違和感を覚えた。間取り図の「隣の部屋」に、小さな赤丸が描き込まれている。最初からあったのか、誰かが足したのか分からない。気味が悪いまま眠りにつくと、今度は隣室からすすり泣きの声が聞こえた。女の声だ。眠れぬまま朝を迎え、不動産屋に電話をかけると「隣はずっと空き室です」と冷たく即答された。帰宅して間取り図を見ると、赤丸は「×印」に書き直されていた。インクは新しくにじみ、まるで今描かれたばかりのようだった。
その後も、間取り図には少しずつ書き込みが増えていった。押し入れに赤丸。台所に斜線。風呂場に黒点。奇妙なことに、それが描き込まれた夜には必ず音がした。押し入れから布を引きずるような音。台所からは濡れた足音。風呂場からは子どもの笑い声。翌朝になると印は濃くなり、形は人影のように歪んでいった。ただ一室、慎司の寝室だけがまだ何も描かれていなかった。
耐えられなくなり、大家に相談した。古びた家に住む無口な老人は、話を聞くなり「……間取り図、まだ掛けてあるのか」と呟いた。慎司が「あれ、外していいですか」と尋ねると、老人は首を横に振った。「外すな。前の住人はみんな、それを壊そうとして……いなくなった」 それ以上は何も言わなかった。
やがて慎司は夢を見た。夢の中で、自分の部屋の間取り図を俯瞰で見下ろしている。そこには人影が描かれていた。赤丸の部屋には膝を抱える女。斜線の台所にはしゃがむ老人。黒点の風呂場には横たわる子ども。そして寝室の前には、まだ空白が一つだけ残されていた。目を覚ますと、壁の間取り図の寝室に、鉛筆で人影の下書きがうっすらと描かれていた。
恐怖のあまり慎司は額縁のガラスを叩き割った。その瞬間、部屋の灯りが消え、視界が歪む。気づけば自分の部屋を上から見下ろしていた。夢で見たとおり、まるで間取り図の中に取り込まれたような視点で。
部屋の各所に影がうずくまり、寝室の扉の前で、何かがゆっくりと立ち上がる。声を出そうとしても出ない。影たちは一斉に顔を上げ、こちらを見た。
そこで慎司の意識は途切れた。
数日後、不動産屋が部屋を訪れると、荷物は残ったまま住人は消えていた。壁の額縁には修復されたガラスがはめ込まれ、間取り図には新たに「若い男の影」が寝室に描き加えられていた。