1.遠征の終わり
その戦いは終結に向かっていた。
戦いは追撃戦に移り、多勢が無勢を蹂躙し、戦果を拡大させている。
争いが発生する前はやや乾いた灰色だった土地が、赤い斑模様になっている。空から見るとよくわかる。
そろそろ陽が落ちるし、頃合いか。
ユウにとって、勝利にそれほどの感慨はなかった。勝てる戦いであったことはわかっていた。むしろこの戦いを挑んできたクナイフェル侯爵軍の兵に憐れみを覚えるほどだ。
「いかがでございました」
地に降り、翼をたたんだユウに副官が声をかける。
「勝ち過ぎだな。戦は終わりだ。兵を引かせて野営の準備を」
「ほう、それほどですか。ここからでは、ちと」
やや小高い丘に陣を敷いているが、戦場すべてが見渡せるわけではない。歳は五十を超えるかどうか、ユウよりも三十年近く戦塵を浴びているであろう副官は、西日を遮るように手庇を作って目を細めた。
「偵察の竜騎兵を出すか」
ユウの提言に副官は首を振る。
「いえ。少将閣下の見立てに間違いはございませんでしょう。なにせ飛竜と同じ目を持ってらっしゃる」
正確には目ではなく翼だがな、というやや皮肉的なセリフをユウは飲み込んだ。副官の物言いは好意的であり、彼を取り巻く環境においては少数派であろう。
ユウのような有翼人は今や希少である。そもそもユウ自身も自分以外の有翼人を見たことがない。
特に翼がある以外、通常の人間と姿かたちの変わらない有翼人は、現在でいうハイライン王国領内にいくつかの集落を持つ少数民族であったが、先代の”狂王”リヒャルト3世の時代に他の亜人族同様、徹底的な弾圧と迫害にあった。それは十年前のクーデターまで続き、今でもその影響は亜人族排他思想とともに色濃く残っている。
「なれば後を任せる」
副官が敬礼ののち踵を返すと同時に、一人の兵士が気だるげに丘を登ってきた。全身が血で汚れている。ただ平然としているところをみると、ほとんどが返り血だろう。それは戦果の証拠でもある。足取りが重いのも頷ける。
「よう」
兵士がユウを見て口の端を歪めた。表情に乏しいこの男らしい笑みだ。黒く艶やかな長髪に加え、顔のつくりが冷たい印象を与えるが、ひどく美形なので、それだけでも凄みを感じさせる。ユウ自身もそれなりに整った顔立ちをしているのだが、それでもステウスの隣にいると霞むのがわかる。ただ見た目の優劣だけで嫉妬するという歳でもないし仲でもない。
「ステウス。今回もご活躍だったな」
「敵が弱過ぎだ。碌な戦士もいない。雑魚を多く斬った程度では活躍と言えんよ」
ステウス・レイ・レカンザル。ユウの幼い頃からの友達であるこの男は、れっきとした貴族である。レカンザル子爵家は優秀な文官を輩出することで有名な家系であったが、ステウスはなぜか軍事方面に進み、またその才能もあった。貴族であり士官であるにもかかわらず、前線に飛び出していくのが玉に瑕だが、大剣を振るい嵐にように敵陣に突っ込んでいくその姿は、兵士たちに妙な人気がある。
「クナイフェル侯は戦場にいなかったようだな」
「おそらく城で震えているんだろう。借りた兵で数だけ揃えれば勝てると踏んだのだろうが。その兵も今頃チトー連邦に向けて一目散さ」
「城攻めはしたくないな。降伏してくれたらいいんだが」
クナイフェル侯爵が籠るアムスタッド城はこの戦場から徒歩で一日かからない程度の距離だ。ユウが率いる六千人の軍勢を考えても二日あれば到着できるだろう。とはいえ、古い時代には蛮族からの侵略を悉くはね返したといわれる頑健な要塞である。
「まあ、そこらはおまえに任せるさ。とりあえずこの戦いがひと段落付けば凱旋だと、兵たちの士気は高いし、どうとでもなる」
ステウス自身も決して戦略の才能がないわけでもないのに、ユウと戦場に出るときは作戦立案には積極的に関わろうとはしなかった。戦略はユウ、戦術は俺、といった暗黙の役割分担が出来ているのだろう。
「これで、おまえの兄上の体制も盤石だな」
「そうだな。これで争いが終わってくれたらいいんだが」
将官にしては簡素な兜を脱ぎ、ユウは自身の赤い髪をかき上げた。兜だけではなく、具足も軽量なものにしている。理由は単純に重いと飛べないからだ。ただ将兵の目印になるよう、髪と同様、赤で統一していた。
「もう十年以上戦続きだ。ヨシュア様もさすがに飽きただろうよ」
「みな飽きてるさ。飽きてないのはおまえくらいだ」
「俺だって退屈な戦いは好みじゃないさ」
じゃあ退屈じゃない戦いはどうなんだ、と問う前に「返り血を流してくる」と戦闘狂疑いは自陣へと去っていった。
ユウはほとんど動くものの無くなった戦場に再び目をやったが、頭にはもう戦いのことは無く、ひとりの男のことで占められていた。
現ハイライン王ヨシュア。辺境の一領主から旧体制に対しクーデターを起こし、王位の簒奪に成功した男。もちろん前政権の異常性から王国民には歓喜を持って受け入れられ、多少の軋轢はあったものの、ヨシュアの政治的手腕と軍事的才能により、王位の移譲は史上類を見ないほど円滑に進んだ。
そしてヨシュアはユウの兄である。歳は五つほど上だろう。歳の差が正確ではないのはユウがヨシュアの父である、先代マルクト伯ヨアヒムがどこかで拾ってきた子供だったからである。当時は赤子だったし、ヨアヒムもその後数年して病死したため、拾われた経緯は今や不明である。ただ、その身元もわからない子供を弟としたヨシュアは、実の弟のように、いやそれ以上の愛情を注いだ。有翼人であるユウが、今もこの世に存在する最も大きな要因である。
ユウもヨシュアをこの世の誰よりも尊敬し信頼し、兄の役に立ちたいと考えていた。そのため、クーデターの際には先頭に立って戦い、それから十年以上、旧体制派とそれを支援する周辺国との戦いに明け暮れている。今もヨシュアに対する気持ちに変わりはない。ただ、クーデター前夜に兄と交わした約束が心の奥底で疼く以外は。
「変わったのは俺か、兄さんか」
呟きは戦場特有の生ぬるい風の中に消えていった。
いつまでも感傷には浸ってられない。アムスタッド城に向けて行軍の準備だ。
ユウは踵を返すと、夕陽の熱を背に感じながら本陣へと向かっていった。
「なかなか粘るじゃないか」
取りついた城壁の上から石を落とされ、落下していく兵にステウスが眉をしかめる。
アムスタッド城は北方にあるアムスタッド湖に抱かれるようにして立つ平城だ。湖が天然の堀を成し、南方だけを固めればいい。攻め方は自ずと限られる。正門に続く石橋を渡り、分厚い扉を破るか、大人五人分はあろうかという城壁を登るかだ。
正門に続く橋は馬車2列分の幅。もちろん敵の攻撃も集中するため、早々に諦めた。そして兵数を活かして城壁からの攻略を選択したわけだが、こちらも敵の抵抗は激しい。三日前の野戦よりも敵の士気が高いのは、やはり自分たちの拠点を守りたいという意思の現れか。民兵も相当数混じっているのだろう。
ユウ率いる兵たちも決して弱卒ではないが、やはり連戦の疲れもあった。城の周囲に立つ城下町の影に隠れながら接近はできるものの、堀を渡るための仮設橋や、その先の城壁を登るための梯子をかけようと躍起になっているが、やや動きに精彩を欠いている。対する守城側の兵士たちは城壁の歩廊から落石や弓矢、それに魔道士が放つ火球等を打ち下ろし、近付けさせまいと戦況は硬直していた。
「報告! 第三部隊のマイヤー隊長が負傷。副隊長に一時指揮権を委譲、後方に下がられます!」
「第一部隊の消耗が激しく、至急応援乞うとのことです!」
各部隊の伝令が矢継ぎ早に叫ぶような報告を行い、新たな命を受け、また原隊に駆け戻っていく。副官が対処療法的に指示を出しているが、効果は薄いようだ。
被害が拡大し始めている。ユウは顎に手をやり、思索を宙に舞わせた。ユウの軍に参謀がいないわけではないが、助言を求める程度で基本的には彼が作戦立案を行っている。独善的ではあるが、立案から実行までが早いという大きなメリットもある。
城の周囲を包囲し、無理な攻めを行わず相手方の食料や士気が枯れるのも待つという方法もあった。ただ飲料水は湖があるし、長引けば、この地より遥か北方に国境線を敷く連邦からの援軍があるかもしれない。ここは早めに決着をつけたい。
あまり気が進まないやり方だが、致し方ない。
攻城戦にはあまり気が乗らない様子のステウスを戦線から呼び戻した。
「破城槌の準備と部隊を組織してくれ」
「それはいいが、門を破るのに時間はそれなりにかかるぜ。城壁からの攻撃をなんとかしないと、あっというまにハリネズミだ」
「心配するな。竜騎兵で上空から黙らせる」
「それが出来れば楽だが、バリスタはどうするんだ」
飛竜に乗って戦う騎士、竜騎兵はハイライン王国を強国たらしめる要因のひとつだ。とはいえ、その数は決して多いとはいえず、今回の遠征に参加している竜騎兵も五十騎程度である。貴重な兵種であるため、投機的な作戦には投入しづらい。特にアムスタッド城の塀には飛空騎兵対策として全周囲にバリスタが設置され、あれをくらえば竜騎兵といえども、ひとたまりもないだろう。
「目をくらませる。工兵長を呼んでくれ」
ユウの指示がとび、後方に控えていた工兵長がユウの元へ参上し敬礼した。
「こちらへ」
工兵長を伴い、城を取り巻くようにして立つ城下町を指し示す。
「あの街を焼いてきてくれ。城に近い家屋だけでいい」
「……よろしいので」
鼻の下に立派な髭を生やした工兵長が息を飲んだ。おそらく市民あがりなのだろう。
「事前に避難勧告を出している。無人だ」
いくら人がいなくても、その家屋や中にある家財は市民にとってかけがえのない資産である。それをユウは焼けと命令した。作戦の中身や言い訳がましい理由などは付け加えない。ここは戦場だ。指示命令は簡潔であることが望まれる。
「ご期待に応えます」
一瞬の逡巡があったものの、工兵長は敬礼すると部下の元へと走っていった。年若く、有翼人ではあるが、ユウ・マルクトは将として有能なことはこれまでの戦いで証明されている。身分の差にとらわれず、賞罰も公平で明瞭だ。将兵たちからの信頼は揺るぎないものとなっていた。
「竜騎兵隊隊長、ライト・ウル・ドラモンド、参りました」
「同じく竜騎兵隊副隊長、ライム・メル・ドラモンド、参りました」
竜騎兵用の軽鎧を身に着けた兵士がユウの前に跪いた。ライトが兄、ライムが妹の双子である。異性なので似ないはずだが、どちらも中性的な見た目なので後ろ姿だと見間違えたりするほどだ。ただし性格はライトが温和で理知的、ライムが天真爛漫で感情的と正反対である。
まだ二十歳になるかならないかの年齢だが、竜騎兵の名門ドラモンド家出身で戦場での働きはユウの軍団の中でもステウスに次ぐほどの実績を上げており、現在は竜騎兵隊を率いる立場となっていた。
「待ちくたびれましたよ。このライムめがユウ様の敵を殲滅して御覧に入れます」
「落ち着けライム。あといつも言っているが、マルクト閣下と呼びなさい」
「私は落ち着いているし、それに呼び方についてはちゃんとユウ様に許可も得ている」
「時と場所、それに周囲に対しての示しもあるだろう」
「いちいち口うるさいぞ、ライト。おまえはアタシの母親か」
性格のせいか元々なのか、この双子の竜騎兵が揃うと口喧嘩が絶えない。ただ、仲が悪いわけではないのだろう、戦場での連携は空にふたりしか分からない連絡手段があるかのようなのだ。
「それはさておき、ユウ様。作戦をお知らせください」
ライムが立ち上がり、ユウに身を寄せてきた。戦場に高揚しているせいか、上司と部下の距離感にしてはやや近過ぎる。ライトはもう妹を咎めることを諦め、溜息だけを吐いた。
「今から工兵たちが城壁前の家屋を焼く。そこで上がる煙に紛れて」
ユウはライムに城の東側を指さした。
「ライムの隊はあちらから中央の正門に向かう形で歩廊の兵を一掃しろ」
次にライトには西を指し示す。
「ライトの隊は逆からだ。お互い息を合わせて同じタイミングでな。正門に達したらそのまま離脱し、抵抗が無くなるまで繰り返せ」
ライトもライムもユウとの付き合いは短くない。この程度の指示で自身に課せられた役割を理解した。
「かしこまりました。レカンザル様の露払いを務めましょう」
荷車に大きな杭を乗せたような破城槌を引く一団を率いていくステウスを認め、ライトは力強く頷いた。
「ここが正念場だ。俺もどちらかの部隊と共にいく」
ユウがそう言った瞬間、ライムが彼の腕に飛びついた。
「嬉しいです! 是非にとも我が方へ!」
妹の奇行にライトは一瞬気を失いかけたが、なんとか正気を取り戻し声を振り絞った。
「い、い、妹の無礼はひ、平にご容赦を……」
「気にしなくていい。ライムはいつもこんなものだろ」
「ご寛恕の程、まことに痛み入ります……」
「さて、そろそろ頃合いだろう。ふたりとも準備を頼む。俺もすぐ行く」
お待ちしておりますね! とライムは飛び跳ねるようにして自身の部隊へと戻っていった。まだ若干ふらついているライトとは対照的だ。
ユウも周囲の副官に不在時の指示をいくつか与えた後、自身のテントに戻り、軍団旗を手に取った。黒地に一対の翼が赤糸で刺繡され、更に金糸で縁取りがされている。通称「忠誠の翼」と呼ばれるユウ率いる旗印だ。ユウが将官となり、今回の遠征の際にヨシュア王より下賜されたものである。
旗を畳んで腰嚢に収めると、ユウは竜騎兵隊の陣へと向かった。ライトとライムが整列した五十騎の兵たちに作戦行動を伝えている。
その背後にある繫竜場では各兵の飛竜たちが大人しく出番を待っていた。竜騎兵が駆る飛竜はハイライン山脈に生息するワイバーン種と呼ばれる亜竜である。前脚は翼と一体化しており、竜族と違って火を吹いたり竜語を話したりはできない。ただそのぶん人に慣れやすく、騎竜といえばワイバーン種が一般的だ。
「いいか、今回の作戦にはマルクト閣下もご一緒される! 貴様たち、くれぐれも無様な姿を晒してくれるなよ!」
ライムはやや甲高いが、通りの良い声を張り上げた。小娘でもあり、物言いは乱暴だが、部下との信頼関係は出来ているようだ。兵たちの表情は自分たちにもその隊長たちにも自信に満ち溢れている。
「ハイラインの竜騎兵が最強であることを示せ。諸君らの活躍を期待する。ただ、気負い過ぎてケガをするなよ」
発破をかけ終わったライムに続いて、ユウが短い激励の言葉をかけた。二十五騎いる竜騎兵たちの一糸乱れぬ敬礼に対しユウも答礼を行う。
「総員、騎竜!」
ライトの号令に竜騎兵たちは一斉に愛竜へと走り、順番に空へとはばたく。やがて隊は半分に別れ、それぞれがライトとライムに率いられ、作戦位置へと向かっていった。
ユウも自らの翼で飛び立つと、城の東側の上空に待機するライム隊を追う。
「ユウ様、あれを」
ライムが指し示す先、バリスタの射程範囲外域からでも城周辺に白煙が上がっているのが見えた。城壁にも達している。
「うちの工兵たちは優秀だな」
「我々も負けてはいられません」
流線型をした飛空騎兵用の兜の下でライムが不敵に笑う。
「では、お先に」
背後の隊を振り返り、ライムは槍を振り上げた。
「ライム隊、かかれっ!!」
おうっ! という声と同時に、まるで弓から放たれた矢ように、竜騎兵たちはアムスタッド城を目掛けて突っ込んでいった。ユウも最後尾からついていく。
ユウの目論見通りだが、城壁周辺は白煙に包まれていた。これで敵は標準を付けられない。
もちろんそのエリアに突っ込む竜騎兵たちの視界もゼロに等しかったが、こちらは細かく照準を定める必要はなく、城壁上の歩廊をさらうように駆け抜ければいい。構えた槍と竜の質量でアムスタッド兵は不意を突かれ弾き飛ばされていく。反対側ではライト隊が鏡にように同じ動きで敵を打ち払っていた。
さらには煙で見えないが、この混乱に乗じてステウスの率いている部隊が破城槌で正門を砕き始めているだろう。
ライトとライムの隊は一回目の突撃を終え、2回目に向けて一時的に戦線を離脱していったが、ユウだけは正門上空に残った。煙の勢いは少しづつ弱り始めているが、城壁の敵兵も動ける者はそれほどいないようだ。
次で竜騎兵は退かせるか、と考えていたユウは、目の端に何か動くものを感じた。
城壁の最東端のバリスタに敵兵が取りついている。端だけあって煙は薄い。そして矢じりは再突入をかけようとしているライム隊に向けられていた。
「やらせるか!」
槍を振りかぶり、ユウは飛燕のごとく滑空した。敵兵の指はすでに引き金にかかっている。
刹那。
矢が放たれるのと、ユウの槍が弓兵の首をとばすのがどちらが速かったか。
その次の瞬間、再突入の先頭にいたライムは頭に強烈な衝撃を受け、悲鳴もなく後方に吹っ飛んだ。飛竜と引き離され、宙に舞う。
ユウが再び飛ぶ。
ライムが墜ちていく。
「ふわふわだ……」
見えない壁にぶつかったような衝撃で一瞬気を失ったライムは、朦朧とした頭で自分を包む感触を思わず呟いた。
「その様子だと少なくとも生きてはいるみたいだな」
耳元で誰かの声が聞こえる。とても近い、けど嫌じゃない。むしろずっと聞いていたい……ん? ライムの頭の中にかかっていた霧がようやく晴れ始める。
「あれ、ユウ様……え、え、えええええ!?」
なんとか地表に激突する前に地面を転がるようにしてライムを受け止めたユウは、その身体と翼でライムを落下の衝撃から守っていた。自然、抱き締めるような形になる。
「あの、アタシ、これは、どういう」
「とにかく大事はなさそうだし、離すぞ」
ゆっくりとライムから身を離したユウの背と翼に強い痛みが走る。身体はまだ鎧があるからいいが、翼は剝き出しなのだ。
ようやく事態を把握し始めたライムが起き上がったユウの背を見て息を呑んだ。その翼は地面に摺り降ろされ、至る所から出血している。
「ああ、ユウ様、アタシ、なんてことを……」
ライムの声が震える。自分のミスでユウの身体を傷つけてしまった。かけがえのない、その翼を! 私はどう償えば……。
「気にするな。お前が生きていてくれたんだから、俺は嬉しいよ」
ユウは肩越しに軽く微笑んだ。自分が多少傷つくだけで部下が救えたなら、それでいい。
「アタシ、なんでもします! ユウ様のためならなんでも!……うっ」
立ち上がりかけたライムが、また膝をついた。いつの間にかどこかにいった兜越しとはいえ、バリスタの矢を受けたのだ。激しい脳震盪でまだ彼女の世界は回っている。
「とりあえず今はまだ座っていろ。もうすぐ救援が来る」
ライム隊のうち、数騎が慌てた様子でユウの元へ飛んでくる。
「閣下、ご無事ですか!」
「俺は問題ない。それよりもライムがまだふらついている。こいつを連れて竜騎兵隊は全隊下がれ。ライトにも伝えてくれよ」
救援のうち一騎がライトに向けて伝令として飛び立ち、残りがライムの介抱を始めた。この場はもう大丈夫だろう。
アムスタッド城の白煙はほぼ消えていた。正門もあと一押しで破れそうだ。
「俺は行く。後を頼むぞ」
痛みはあるが、飛べるようだ。ユウは再び城に向かって飛んだ。後ろでライムが何かを叫んでいたようだが、正確には聞き取れない。まあ後でゆっくり聞いてやろう。
ユウが正門上部の歩廊に降り立ったとほぼ同時に、破城槌が正門を破った。二度にわたる竜騎兵の突撃から、城壁上方からの攻撃も沈黙している。
眼下でステウスが突入の合図か、ユウに向かって剣を振り回した。ユウは頷きを返す。
もともと寡兵であり、あてにしていた要塞も今や意味がなくなった。クナイフェル陣営の士気の低下と厭戦気分はピークに達しているはずだった。
自分の槍はライムの救出劇の際に手放してしまったようだ。ユウはそこらに転がっていた槍を拾い上げると、腰嚢に仕舞っていた軍旗を括り付ける。
そうして”忠誠の翼”はアムスタッドの空に翻った。
さて、一芝居うつとするか。ユウは息を吸い込み声を張り上げた。
「聞け、ハイラインの兵士たちよ!」
その一時、周囲の喊声が和らぐ。
「今この時この場において、同じハイラインの民でありながらも、一部の裏切り者が善良な民を扇動し、脅し、相打たせている!」
ハイライン兵だけでなく、クナイフェル侯爵兵も耳をそばだてている。
「私は裏切り者を憎む! この旗を見よ! 我々は愛すべき祖国に忠誠を誓う翼である! この旗に集う者たちは私と同じ気持ちであると思う!」
低く、地響きのようなざわめきがユウの兵中心に広がる。
「アムスタッドの勇士たちに告ぐ! おまえ達はよく戦った! だが集う旗の元を間違えている! 今からでも遅くはない! 同じハイライン国民ではなく、外患を誘致する裏切り者を倒せ!」
ざわめきはクナイフェル侯爵兵、いや、アムスタッド兵たちにも伝播した。
「さあ、裏切り者はあの城にいるぞ! 進め、我がハイラインの兵士たちよ!」
ユウは旗でもってアムスタッド城の中心、ひときわ高い場所に位置する侯爵城館を指し示し、翼を大きく広げた。鎧だけではなく、翼も含めて全身朱に染まったその姿は、兵たちの目には戦天使が地に降臨したかのうように映った。
おおおおおおおおおおおおお!!
戦場の興奮は最大限に達した。
今や敵も味方もなく、アムスタッドの地は鬨の声に揺れた。
そして侯爵城館から降伏の白旗が上げられたのは、それから半時間も経たずであった。
侯爵は家族を連れ、船で湖を渡ろうとしていたところをライト率いる竜騎兵隊に捕らえられた。話によると金銭や美術品等を満載して沈没寸前だったというのだから呆れた話である。
ユウに触発され蜂起したアムスタッド兵たちの武装解除もスムーズだった。味方のみならず、敵の被害も思ったほどではなく、上々の首尾といっていいだろう。
侯爵のハイライン首都ヒルモアへの移送、財産の接収等の指示をユウが行っていると、避難を行っていたアムスタッド市民の集団が兵に連れられてやってきた。
「ユウ・マルクトだ。この度は迷惑をかけた」
まさか先程まで敵だった相手のトップが、第一声で謝罪してくるとは思っていなかったのだろう。皆が目を白黒させている。やがておそらく街長なのだろう、初老の男性が一歩前に出た。
「ご高名なマルクト少将閣下からお労りのお言葉をいただき、まことに恐悦至極に存じます」
「戦を早く終わらせるためとはいえ、街を焼いてしまった」
「それは戦の常でございますれば……」
街長の声が消え入るように先細る。戦場で最大の犠牲になるのは、こういった善良な市民たちだ。徴兵され、財産を没収され、そして街を焼かれる。
「常でなくなる時代が来ればいいのだがな」
ユウは目で背後の兵に合図すると、大人が両手を広げた程度の長櫃を、ふたりがかりで街長の眼前に運んできた。
「金貨で五万枚ある。これで街を再建できるだろうか」
街長含め、市民たちは思わず息を呑んだ。なんだかんだアムスタッドは負けた側なのだ。略奪はあっても補償されるなど聞いたことがない。
「まあ驚くのは無理もないが、一時的に敵に回ったとはいえ、この地はハイラインの一部であり、あなたたちはその国民だ。国が民を助けるのは当たり前ではないだろうか。少なくとも私はそう思っている」
「……閣下。正直なところを申し上げますと、戦場になった街や村は、それはもう悲惨なものです。飢えるか子を売るしかない者たちが大勢出ます。当然、我々もそうなると思っていました。しかし」
村長は手で顔を覆い、声を震わせた。
「……これで我々は生きられます。冬に凍えずに、孫を飢えさせずに、娘を売らずにすみます。全市民に代わり、閣下のご厚意に深く深く感謝申し上げます……」
「そうか。それはなによりだったな……」
ユウはようやく、この戦いにおける充実感を得た。ユウもマルクト家に養われたとはいえ、リヒャルト3世時代にその迫害から逃れるため、街や村を転々とした時代がある。そこで様々な市民の姿を見たが、大半は飢えと苦しみだった。領主や貴族から踏みつけられるようにして生きる民たち。ヨシュアのクーデターに参加した要因のひとつでもあった。
「他に何か困ったことはないか?」
泣き崩れる街長の背後にいる、市民たちに声をかけた。すると前の方にいた少年が何かを言おうとして父親に止められていた。
「止めなくてもいい。少年、思うことがあれば言ってくれ」
ユウは父親を制し、少年の発言を促した。少年は初めは言いづらそうにしていたが、意を決して声を上げた。その眼には怒りが灯っている。
「……姉さんは治療師なので、治癒院に残ってケガした人を助けていました。でも、さっき戦争が終わったから急いで姉を訪ねて、みると……」
治癒院は城の外縁部にあり、早期にハイライン軍の占領地となっていた。少年はしゃくりあげ、それ以上を声にできないようだった。仕方なく、父親が言いにくそうに後を引き取った。
「……まことに申し上げにくいのですが、閣下の兵に乱暴され、そのショックで……」
その父親はユウの怒りの表情に、思わずそれ以上の口を噤んでしまった。
ユウはゆっくりと少年に近付いた。少年の発言が怒りをかったと勘違いした父親がその前に跪く。
「お許しくださいお許しください、閣下! 決してこの街を救っていただいた兵士の方に遺恨があるわけではなく!」
平身低頭する父親を軽く押しのけると、ユウはしゃがんで目線を少年に合わせた。
「俺の兵士がしたことは俺の責任だ。だから俺はおまえに対して謝罪と、おまえの姉さんに対する責任を取りたい。受けてくれるか?」
ユウの優しい声に、しゃくりあげていた少年がようやく息を落ち着かせ、頷いた。
「よし、強いぞ。少年、名は?」
「……エミール」
「よし、エミールだな。わかった」
ユウは立ち上がり背筋を伸ばすと、改めてエミールに声をかけた。
「ハイライン王国少将、ユウ・マルクトはエミールに対し、貴君の姉上を害した者、またはその罪に関わった者を必ず厳罰に処するものとする」
エミールは呆然と、導かれるようにユウに向かって微かに頷いた。
そう宣言した後、ユウはエミールの方に手を置き、再び彼の前にしゃがみこむ。
「こんなことをしても姉上は返ってこないだろう。だが同じような苦しみを生まない世界にするため、俺は努力する。今のところはそれくらいで勘弁してくれ」
そしてユウは立ち上がり、踵を返すと副官を呼びつけ、エミールの姉に対する暴行の他、似たような事件がないかの調査を直ちに命じた。
結果として暴行や略奪の罪により、十七名の兵士がアムスタッド街の広場に首を並べることとなった。
こうして、ヨシュア王への反対勢力の駆逐を目的とした三年近くの遠征は終わりを迎えた。大規模な野戦は七回、攻城戦四回、自軍の死者は八二二名、敵軍の死者は各勢力を合計して六〇八一名。これらの戦いによって傷ついた者は数えきれない。もちろん当事者であるユウも含めて。