檸檬
肺を病んでからというもの、私の世界から色彩というものがごっそりと抜け落ちてしまったかのようだ。薄曇りの空のような天井をぼんやりと眺めては、ひとつ、ふたつと緩慢な咳を繰り返す。そんな単調で、色のない日々に、妻がどこからか一個の檸檬を手に入れてきた。舶来の果物屋ででも見つけたのであろう。ころり、と無造作に枕元へ置かれたその檸檬は、私の薄暗い六畳の病室にあって、あまりに場違いなほど鮮やかなレモンイエロウを放っていた。
その強烈な色彩は、私の濁った眼には少々刺激が強すぎるほどであった。まるで、凝縮された陽光の塊だ。日々、死の影がじわりと滲み出すこの部屋で、それだけが、傲然と「生」を主張しているように見えた。私は、力なくやつれた手を伸ばし、そっとそれに触れてみる。ひんやりと、そして驚くほどに滑らかな感触。微かに指先に力を込めると、瑞々しい弾力が押し返してくる。
妻は、白湯でも絞りましょうか、と尋ねたが、私はかぶりを振った。この完全無欠な球体を、刃物で傷つけ、二つに引き裂いてしまうことなど、どうしてできようか。それは、一種の冒涜に思えた。私はただ、それを眺めているだけで良かった。時折、掌の中でゆっくりと転がし、その重みを確かめる。この小さな球体の中に、一体どれほどのものが詰まっているのだろう。カリフォルニヤの青い空か、それともイタリアの照りつける太陽か。異国の乾いた風と、豊かな土壌の匂いが、この小さな果実の中に封じ込められている。想像するだけで、病み疲れた心は、現実の息苦しさから束の間、解き放たれるのだった。
ふと、あの得体の知れない憂鬱が、再び胸の奥から這い上がってきた。それは、病そのものへの恐怖というよりは、むしろ、このまま世間から忘れ去られていくことへの焦燥であった。机に向かい、何かを書き付けようと試みるも、咳がそれを阻む。言葉は、もはや私の中から湧き出てはこない。インク壺は乾き、原稿用紙は白紙のまま、静かに埃を被っていく。社会という名の巨大な歯車から弾き出された、ちっぽけな、錆びついたネジ。それが、今の私の姿であった。
そんな時、私は、再びあの檸檬に救いを求めるのだ。鼻先へそっと近づけると、清涼で、それでいてどこか心を落ち着かせる芳香が、深く淀んだ肺の隅々まで染み渡っていくような錯覚を覚える。その香りは、私の内に巣食う黴臭い死の匂いを、ほんのひとときだけ、遠ざけてくれる。
ある午後、悪戯心が芽生えた。私は、その檸檬を、長年読み込んできた画集の上に、そっと置いてみた。煤けたような色彩の、古びた西洋画の上に、檸檬のイエロウは、まるで画面から浮き上がるかのように鮮やかに映えた。それは、実に奇妙で、それでいて完璧な調和を生み出していた。退屈な静物画が、突如として、生命を宿したかのようなのだ。私はそれに気を良くして、次には、積み上げられたままの書物の塔の頂に、それを戴冠させてみた。まるで、知識の城の主であるかのように、檸檬は誇らしげにそこにあった。
そうだ、この檸檬を、私の憂鬱のすべてを詰め込んだ、美しい爆弾に仕立て上げるというのはどうだろう。このまま朽ち果てるくらいなら、いっそ、この鮮やかな色彩と芳香と共に、すべてを木っ端微塵にしてしまうのだ。そんな馬鹿げた空想が、病んだ頭を駆け巡る。もちろん、私にそんなことをする勇気などあろうはずもない。私は、ただ、この檸檬という美しい幻影に、己の惨めな心を仮託しているに過ぎないのだ。
からり、と障子が開く音がして、妻が薬湯の盆を手に部屋へ入ってきた。彼女は、書物の上に鎮座する檸檬を見て、僅かに眉をひそめたが、何も言わずにそっとそれを手に取り、元の枕元へと戻した。「お薬でございますよ」と、静かに告げる声には、何の感情も含まれていないように聞こえた。彼女もまた、この色のない日常に、疲れ果てているのであろうか。
その夜、私は熱に浮かされながら、夢を見た。夢の中で、私は、果てしなく広がる砂漠を彷徨っていた。喉は渇き、足は鉛のように重い。もう一歩も歩けぬと、その場に崩れ落ちた時、空から、あの檸檬が、ゆっくりと、ゆっくりと降ってくるのだ。それは、神が与え給うた、奇跡の一滴であったのかもしれない。
目を覚ますと、東の空が白み始めていた。傍らには、相も変わらず、あの檸檬が静かに佇んでいる。その黄色は、夜の闇を吸い込んで、昨日よりも一層深く、鮮やかに見えた。私は、もうそれを爆弾に見立てるような真似はすまい、と思った。これは、爆弾などではない。これは、私の、ささやかな希望そのものなのだ。
いつか、この肉体が塵に帰し、私の存在した証が、この世から跡形もなく消え去ったとしても、この一個の檸檬が放っていた鮮烈な光と香りだけは、誰かの記憶の片隅に、ふと蘇ることがあるやもしれぬ。それで、十分ではないか。私は、そっと手を伸ばし、最後の力を振り絞るように、その冷たい肌を、もう一度だけ、撫でた。