10.心残り
ーー暗い、怖い、苦しい……っ
冷たくて怖くて苦しくて、祈るような気持ちで初音は闇の中で1人、ただただ流れる水に身を任せて、縛られた両手で頭を抱えて小さくなって堪える。
聞こえていた水の流れと亀裂の距離からして少なくない水量が流れている気はしていたから、うまくすれば外に出ることができるのではないかの賭けだった。
賭けに負ければ終わりだが、ハイエナの群れに生きながら遊ばれ喰われるよりはマシな気もした。
落ちる前にあの女ハイエナの驚く顔でも拝めたらよかったのに。
そんなことを悔しさのあまり意地悪く考えながら、初音は必死に恐怖と息苦しさに耐える。
ーー苦し……っ
先の見えない恐怖と不安に、暗い水の冷たさは叫び出したいほどに怖かった。
いくら我慢しても無駄かもしれないと諦めかける自分に発破をかけて、初音はギリギリまで無駄に酸素と体力を使わないように堪え続ける。
ーー名前……聞いとけばよかった……。
アイラと共に並び立つ仏頂面の青年の姿を脳裏に浮かべて、少し後悔する。こんな時さえ、何て呼べばいいかわからないなんて寂し過ぎる。
ーーもしもう一度会えたら、名前を聞こう……。
ガボッと口から空気が漏れる。
ーーダメだったかぁ……。
ぼんやりと薄目を開けてそう考えた時、ぐいと身体が引っ張られる感触を感じた次の瞬間、恋焦がれていた明るい視界と空気が肺に入る。
ゲホゲホと肺に入った水を必死の思いで吐き出して、ぐったりとした身体にムチ打ちながら酸素を取り込んだ。
「生きてるかっ!?」
「……うっ……げほっ……はっ……っ!?」
大きく見開いた視界いっぱいに、少し焦りを滲ませた青年の顔が飛び込んでくる。
咳をしながらはぁはぁと荒く息をして、涙と水で滲んだ瞳がその綺麗な顔を映す。
岩壁に張り付いて、流れ出る水流から初音を引き上げてくれた青年は、そのまま初音を抱えるとピョンピョンと軽い足取りで岩肌を降りていった。
ようやく地面に達すると降ろされて、器用に伸ばした青年の爪の先で縄を切られて、顔を覗き込まれる。
「無茶過ぎるだろ……っ」
「はは……っ……さすがに死ぬかと思った……っ」
ぜぇぜぇとまだ整わない呼吸を繰り返しながら、ぎこちない笑みを返す。
「アイラちゃんは……?」
「無事だ。ひとまずできるだけ離れて身を隠すように言ってある」
「良かったぁ……っ」
はぁと息を吐いて笑うずぶ濡れの初音に、青年は何とも言えない顔を向ける。
「……私ね……初音って、言うん……だけど……っ……よかったら……っ……名前……教えてくれないかな……?」
「……急に何だ? どうでもいいだろう、そんなこと。……それより早く離れるぞ」
「……そう……だよね……っ」
ぜぇぜぇと息を吐いて、初音は目を瞑る。冗談抜きで身体が苦しくて嘘みたいだった。
「ーー掴まれ」
ふわりとその両腕に抱かれて、初音はぐたりとその鍛えられた胸に体重を預けて目を閉じる。
少し高い体温が、水に冷えた身体に気持ち良かった。
「……まったく、本当にしつこいヤツらだな……」
チッと舌打ちをする青年の声に、初音はその瞳を開ける。
気づけば、青年を4頭のブチハイエナが遠巻きに取り囲んでいた。
外見はどれも動物のハイエナそのままで、恐らく直接交渉してきた3人ではなく出口に控えていたハイエナなのかも知れない。
どれもぐるると威嚇しながら、ジリジリと距離を詰めてくる。
「……逃げられそう?」
「……大丈夫だ」
青年がピリピリしているのがわかる。初音を抱えて、果たして逃げ切れるのであろうか。
おちおちしている暇はない。でなければ洞窟の中の3人も大急ぎで向かって来ているはずで、合流されれば益々逃げることは難しくなる。
「……ねぇ、名前……教えて?」
「だからーー」
再び場違いに名前を聞く初音に反論しかけてから、青年は周囲を警戒したままに黙り込み、おもむろに口を開く。
「ーージーク」
「…………ジーク……」
青年ーージークの名前を、初音は何となく繰り返す。
「……似合ってて、いい名前……」
腕の中であはっと笑う初音をチラリと見て、ジークはその腕に力を入れる。
「……呆けてる暇なんてない。しっかり首に捕まってろ…………初音」
「ーーありがと……」
そう初音が返してジークの首に手を回した次の瞬間、2人を中心とした光り輝く魔法陣が展開される。
「えっ!? 何……これ……っ」
「魔法……っ!?」
驚く初音に対して明らかにギョッとして取り乱すジークは、その場から飛び退る。けれど魔法陣は、2人を追いかけるように足元に移動した。
「これは……っ」
「えっ!? な、何? 何が起こってるの!?」
「魔法が使えるのは人間だけだ! そのどれもが獣人にとっては碌なものじゃない!!」
見ればハイエナたちもひどく警戒して後ずさっている。
「どう言うこと……っ!?」
「俺に聞くなっ!!」
光を増した魔法陣は軌跡を描き、そのまま集約すると初音とジークの胸元へその軌跡を伸ばす。
昼の明るさに負けないほどに溢れた光が消え去ると、そこに残されたのは2人の胸元に残る紋様だけ。
「……何だこれは」
「しっ知らないっ!!」
これ以上ないほどに不審な顔で見下ろしてくるジークに焦りながら、初音は急ぎ首を振るしか手段がなかったーー。