76.鳥の獣人
「アレックスと契約する? 本気で言ってるのか!?」
謝罪に訪れたアレックスたちと距離を取り、初音が静かに告げたその言葉に顔色を変えたのはジークだった。
「……本気。でも、確証がある訳じゃないから、迷惑をかけちゃったら、ごめん」
「どうした、なんでそんな急に気が変わった? あいつが謝って来たからか?」
尚も信じられないと言うように顔を曇らせるジークに、初音は苦笑する。
ジークの心配ももっともで、傍目に見ても、きっと正しいのはジークの反応だとわかっていた。
「……それも、あるけど、何でもいいから、確率を上げたくて」
「……確率?」
「どこまでいっても、俺さ……アレックス……さんにとっては人ごとであることには変わらないから、ふとやっぱりやめようとか、戦況が悪くて気が変わっても不思議じゃない。だから、そうならない確率を少しでも上げたい」
失敗すれば、次はない。初音が巻き込んだ全てと、ジークを失うなんて、ぜったいに考えられない。
身体が震える。逃げ出してしまえるなら、今すぐジークと、皆んなと逃げ出してしまいたかった。
でも、そんなことももうできないと、わかっている。
やるしかないなら、考え得る限りの全てを注ぎ込む以外の手などないと、わかっていた。
唯一無二の初音を、初音と一緒にいるジークを助けに来てくれるように、使えるものは、全部使う。
決意を胸に、初音がジークを抱きしめた。
「……それに、今のアレックスさんなら、大丈夫な気がするってのも、本当……かな」
えへ。と、大した確証もないことを言う初音に、ジークははぁと大きなため息を溢す。
「危うく襲われているのに、何を悠長な……っ!!」
呆れたように眉根を寄せるジークに、そっとキスをする。
できることは、全部やる。
初音を何としても守ってくれるジークを、守ることができるのは初音だけだからーー。
獣人の攻め込みにバチんと音がして、獣人がリングを降りられないという魔法が解けたのがわかった。
その証拠に、ライラの大きな翼が伸び伸びと空を薙ぎ、どこまでも澄み渡る大空を舞う美しい姿に誰もが視線を縫い止められる。
「ら、ライラ……っ!!」
「おい、どこ行くんだ、逃げるぞ!! この愚図!!」
真っ青な顔でフィオナの肩を握り締めるフィオナの兄の手を、フィオナは振り払った。
「お前っ!! 一体何しやがるこの阿保が!!」
バシリとその白い頬を力の限りに打ち叩いたフィオナの兄を、その碧い瞳はギッと睨みつけた。
「逃げたいなら、お一人でどうぞ!! 私は死んだと、お父様とお母様にはお伝え下さい!!」
涙をいっぱいに溜めても、その瞳は強い意志を持って反抗を顕にした。
「なっ!? おい、本当に頭が狂ったのか!? おい! 死ぬぞ!! おい!!! おい!!!! ……フィオナ!!!」
ドレスが破れるのも気にせずに、フィオナは観客席を乗り越えて走る。
「ライラ! ライラ!!」
あぁ、あなたは、なんて美しいのか。
あなたのことが、大好きだった。
人間でも鳥でも関係ない。あなたはその外見に似合う美しい心で、美しい紫の瞳で、いつだってフィオナを穏やかに見てくれていた。
ライラの救出を打診しに行った時、本当は、殺してくれればいいのにと、ローブの2人組へ心の中で思っていた。
それくらい、ライラの居なくなった日々はフィオナにとって地獄だった。
死ぬよりマシだと、人は言う。けれど、愛されない者がようやくと愛を知り、それを失ったことの耐え難さをわかり得る者がどれだけいるか。
ライラはいつだって、フィオナの光だった。
出会って、話して、笑って、怒って、あなたの笑顔が、声が、体温が、フィオナの生き縋るただひとつの理由だった。
「ライラ……っ!!」
生きていてよかった。
奴隷に堕とされたきっかけのフィオナのことなど、見たくもないかも知れないけれど、それでも、それでも、それでもーー。
ただ、あなたが生きていてくれて、よかった。
その瞳から押さえがきかない涙が次々に溢れ、その白い頬が濡れるのも気にならない。
遥か上空をその翼で滑空する美しい姿を見上げながら、走る。
この騒ぎでは、フィオナの声がその耳に届くことがないとはわかっていたけれど、いても立ってもいられなかった。
「何もできなくて、ごめんなさい……っ!!」
届かないとわかっていたけれど、どうしても、伝えたかった。
「ずっと、ずっと言えなかったけれど、ライラの、ことがーー」
「迷子かな?」
「……っ!!」
混乱の中で会場を走るフィオナの傍らに、思うよりも近くに立つその巨体。
生物の生存本能か、一瞬でフィオナの小さな身体が最大レベルの警戒を掻き鳴らすのがわかったが、フィオナ自身にはそれをどうすることもできそうになかった。
「美味そう」
そう言って、その大口がフィオナに迫るその直後、けたたましい速度と重量の塊がナイルワニの獣人に激突する。
舞い上がる砂埃の中で、フィオナの身体がふわりと浮き上がった。
「フィオナ」
「……ライラ……?」
昔と変わらず、人型の、優しい紫の瞳がフィオナを見返していた。
「本当に、フィオナ?」
「本当にライラ?」
「あぁ、またこうして、フィオナのそばで、フィオナに触れることができるなんて、夢のようだ」
そう言って、その紫の瞳をひどく優し気に細めるライラに、フィオナの唇が震える。
「君は何だって、いつも危ないところにばかりいるんだ」
「危ないところに行ったから、ライラに会えたのを忘れたの?」
死のうと思った崖下の、窪みでケガを休めていたライラを偶然と見つけた、数奇な出会いを思い出したフィオナはその瞳に涙を溜める。
あなたと再び巡り合える運命だけを、ただ一本の糸を手繰り寄せるように、諦めることを許さなかったライラと言う存在に出会えたこと。
フィオナは心から感謝したーー。
「なぜ、獣が……っ!!」
種族を問わずに互いに協力し合う獣人と動物たちに、鬼がわなわなとその肩を震わせる。
アレックスに引き連れられて、どんどんと会場に乗り込んで来る獣人と動物たち。
観客は巻き込まれては敵わないとばかりに、血眼になって出口を探し、会場は混乱の極致だった。
「早く行け! 何とかしろ! 他は逃げようと死のうとどうでもいい!! あの女だ!! あの女だけは生かしておくな!!」
叫ぶ鬼に応じて、コモドドラゴンがその舌をぺろりと舐め上げる。
「はぁ、めんどうくさくなってきたな。好き放題狩りが楽しめると言うから来ただけなのに」
「何か言ったか」
「いーえー」
だんだんと戦況が悪くなっているのを感じ取ったコモドドラゴンの獣人のボヤきを敏感に察知した鬼に、舌を出して誤魔化す。
言うが否やため息を吐いて、コモドドラゴンの獣人はバチチとその身体に電気をまとう。
「はぁ、せっかく見つけた美味そうなエサがいなくなった。もういいや、その女、ちょうだいよ」
こんな場所には場違いな、小さく綺麗で柔らかそうなフィオナを食べ損なったと残念そうなナイルワニの獣人は、バチャリとその足元から水を沁み出させて初音を抱えるジークに近づく。
「……寝言は寝てから言え……!!」
その初音を抱える腕に力を込めて、青筋を浮き立たせるジークに立ちはだかるワニとトカゲの獣人。
そこに、ついと舞い降りる白い影。
「ネロ……?」
ーー初音、聞いて。
そのいつになく穏やかで大人びた声を、初音は敏感に感じ取る。
ーー僕らの王に、話しをつけて来た。人間に恋した、鳥の王だ。初音の力に、翼になってくれるって
「……ネロ?」
ーー……僕を信じて、初音。
そう言って、ネロは美少年の幻影でニコリと笑ったーー。




