65.どこから
「ちょちょちょ!! 僕もいるんですけど!?」
わぁとその綺麗な顔を真っ赤にするネロに、初音とジークが笑う。
「ジーク、俺様はっ!?」
「「……俺様?」」
いっそ名前すら呼びたくない初音の突然な発言に、ジークとネロが眉根を寄せた。
「初音と契約しているのもあってか、俺の方が早かったからな。追って来ていることには変わらないから、さっさと離れよう。カバたちに焔がいつまで牽制になるかもわからない」
「あ、多分それは大丈夫な気がする」
「なに?」
カバの唯一とも言える弱点が、紫外線や乾燥による肌の弱さであり、それをカバーするために赤い汗をかいて肌を保護すると言われている。
それであるなら、カバがわざわざと焔に突進するとは思えなかった。
「ジーク、お願い、女の子のライオンが……っ」
「……わかった」
皆まで言わずともこくりと頷いたジークが初音の身体を軽々と抱え上げると、心底愛しそうに、初音の頭に自身の頬を擦り付ける。
「しっかり捕まってろ。ネロは絶対に届かない上空まで上がれ」
「了解!!」
ジークの指示に短く答え、ネロは再び白いミミズクとなって空高く舞い上がる。
「小僧!!! 初音を返せ!!!!」
「……なんだあいつは……っ」
ピキリと即座に青筋を立てて凍土の瞳でアレックスを見やるジークに、初音は無言で口の端を引き攣らせる。とてもではないがアレックスとの間にあったことを話せそうになかった。
サーっと顔色を変える初音をチラ見したジークは、トンと軽く跳躍した高みから周囲を見回す。
「あそこか……」
複数のカバに囲まれて、逃げ道に窮している女ライオンの姿に目を止めたジークがそちらに向かい跳ぶ。
「お願いジーク!! 助けてあげて!!」
「……分かってるが、少し待て」
「ジークっ!?」
普段とは様子の違うジークに戸惑いながら、初音は三方向から次々と繰り出される突進をすんでで避ける女ライオンにオロオロと視線を揺らした。
「大丈夫だ。初音が助けて欲しいと思う相手に、怪我はさせない」
「え……?」
そう言うなり、ふっと笑うジークを初音は見上げる。
「お前ら俺様の女に何してやがる!!!!」
その場を震撼させるほどの怒声に、空気がビリビリと震えた。
ギョッとしてその動きを止める一同に対して、ようやっと辿りついたアレックスがその髪を風に靡かせて吠える。
「俺様の女に手を出したやつは全員噛み殺してやる!!! 1匹も逃がさねぇからな!!!!」
「アレックス様……っ」
さっとその巨体の隙間から滑り込んだアレックスが、カバに囲まれた女ライオンの肩を抱き抱えて牙を剥く。
「……危ない目に合わせて、悪かった……っ!!」
「いえ……っ」
チッと舌打ちして、その顔をカバたちに向けたままのアレックスに抱かれたまま、女ライオンがその瞳を潤ませる。
突然の乱入者に一度は怯んだもののその闘志は薄れることなく、再びとアレックスたちを囲み立つカバたちに、嫌な汗を流したのはアレックスの方だった。
百獣の王と言われるライオンでも、成体のカバにはその体格と力の差から敵うべくもない相手であり、それが複数ともなれば勝機がないどころか五体満足に逃げ仰るのかすらも怪しい。
「…………お前だけは俺様の命に換えても絶対に守るから、安心しろ……っ!!」
「アレックス様……」
ぎゅうと女ライオンを抱き寄せたアレックスに緊張が走った目の前で、豪と昂る赤い焔に2人はギョッとする。
「なん……っ!?」
思わずと目を見張るアレックスの瞳に、初音を抱えて遠目に様子を伺っているジークの姿が映る。
「小僧……っ!!!」
「……その女ライオンに感謝しろ。初音を助けてくれた餞別だ。お前を助けたわけじゃない」
「助けなんて必要ねぇんだよクソガキが!!!!」
「……焔が収まる前に、隙をみて逃げ出せ。……もし今度現れたら、その時は骨の一片も残さずに燃やし尽くす……っ!!」
焔に囲まれてがぁと吠えるアレックスに背を向けながらも、ジークがその金の瞳を仄暗く光らせる。
そのあまりの圧にアレックスが一瞬怯んだのを見届けてから、ジークはその姿を瞬く間に消したーー。
「もうやめましょう、アレックス様」
「俺様に指図するんじゃねぇ!!!」
大混乱だった水辺付近も今ではすっかりと落ち着いて、あれほど怒り狂っていたカバの群れも水中へと姿を消している。
最後の最後まで追いかけられていたハイエナたちも、蜘蛛の子を散らすようにどこかへと消えた。
ジークが言った通り、焔に近寄る気配のないカバたちの隙をついて脱出したアレックスと女ライオンは、自身たちの住処である岩山に舞い戻る。
そして戻ってきても尚イライラと、初音を取り返すべくぶつぶつと落ち着かないアレックスに言葉を掛けたのが、年配の女ライオンの獣人だった。
「あの人間の力とやらで、アレックス様が唯一の力を得てプライドが安定するならばと協力をしていましたが、これ以上は協力できません」
「何だと? 俺様に逆らうつもりか!?」
あぁ!? と語気を荒く掴み掛かるアレックスにも動じず、年配の女ライオンは冷静に口を開く。
「あの状況下で、あの子を助けに入ってくれたことが、私は嬉しかった」
「何……?」
何言ってるんだと眉をひそめるアレックスに、年配の女ライオンは尚も続ける。
「アレックス様があの人間に執着していたのは分かりましたから、取り返されたことに腹を立て、助かる見込みのないあの子を見捨て、人間を取り戻しに行くことまで、私は覚悟をしていました」
「俺様がそんなことする訳がねぇだろうが!!! 侮辱するのも大概にしろ!!!!」
思わずとその襟ぐりを掴み上げて噛み付かんばかりのアレックスを見て、年配の女ライオンは表情を緩める。
「はい、ですから、嬉しかったのです。アレックス様が、何も変わっていないことが、嬉しかった」
「は……?」
一瞬と呆けた顔をするアレックスに、年配の女ライオンは尚も続ける。
「私たちが必死に狩りをするのは、プライドと子どもと、私たちを守ってくれるアレックス様を支えるためです。追随を許さない力は私たちにとっても魅力的です。少なくとも、新しい雄ライオンによって我が子を奪われる可能性が減りますから。けれどその力のために私たちを袖にするのなら、私たちはアレックス様を追放しようと考えておりました」
「何だと……っ?」
追放という言葉にその顔色を変えたアレックスは、自身を見る女ライオンたちの視線を見回した。
「アレックス様がその本能に不安を感じているのは分かります。力は必ず衰える。強い者は必ず現れる。けれど、それは私たちとて同じです。それでも、私たちはアレックス様だからこそ、信じて、今お側にいるのです。我が身を顧みず、私たちを守ってくれる、強くて優しいアレックス様だから、付き従い、多少の無理難題も請け負います」
「……っ」
言葉に詰まるアレックスに、年配の女ライオンが微笑みかける。
「今一度、よく考えてください。私たちだけでは、いけませんか? あの人間が、アレックス様にとって、私たちよりも、本当に必要なのですか?」
「アレックス様……」
「お前……っ」
そろりとアレックスに近づいて、そっとその腕に触れる泥だらけの女ライオンの獣人の不安そうな瞳に、アレックスは言葉に詰まる。
「助けにきてくれて、私は嬉しかったです……っ」
瞳に涙を浮かべて、その腕に顔を擦り付ける女ライオンに、アレックスは思わずと唇を震わせた。
「…………俺様は……バカか……っ」
ははっと苦笑して、アレックスは片手で顔を覆う。
群れを守るために力を欲していたのに、どこからこうまで変になってしまったのか。
自分を信じてついて来てくれる者たちを、こんな目にまで合わせて、一体何がしたかったのか。
「悪かったーー……」
吹き抜けるような青空が赤く染まりかかる頃、アレックスの小さな声が岩山に溶けて消えていったーー。




