64.いつだって
初音の隣の女ライオンが、声もなくジリと初音の背後を見つめているのがわかる。
そっと背後を振り返り、初音は恐怖で震える身体を落ち着けるように、息を長く吐き出した。
「……ここからが本当の追いかけっこ……」
岩山から遠目に見た水辺にある大きな影。それがカバであることは、その動向から何となくわかった。
一見すれば大人しそうなその草食動物は、ライオンやワニ、蛇などものともしない水陸両用の強さと獰猛さを兼ね備えている生き物。
それでも子どものカバが肉食獣に襲われることはある訳で、そのテリトリー内でこれだけ騒げば、臆病で獰猛なカバたちが怒らないはずもない。
人間を1番殺す生き物が蚊であるならば、その生息地域においてテリトリーに入ってしまった人間を桁違いに殺す野生動物がカバであると、初音はその並いる巨体の群れを仰ぎ見た。
あわよくば話が通じないかと淡い期待をしていたカバの獣人が見当たらない一方で、近くで見ると想像よりも遥かに大きなその体躯に圧倒される。
「走って!!」
未だガタガタと呆けている女ライオンの腕を取って、初音は恐慌状態に陥っているハイエナたちの群れへと突っ込んでいく。
「ぎゃぅっ」
背後を絶えず確認しながら、初音は女ライオンの腕を握ったままに入り乱れるその場所から一目散に逃げていた。
「ギャァっ」
時折り聞こえるハイエナたちの悲鳴の中、パニック状態の現場を縦横無尽に逃げ回る。
驚きに固まっていたのか仲間意識が高かったせいか、ハイエナたちは全力を出せばカバより足は早いはずなのに、未だ混乱の渦中にいるようだった。
とは言え人のことなど心配はしていられない。時速40キロで走る自動車とも言えるカバから、この場で1番逃げきれない可能性が高いのはどう考えたところで初音だった。
ーー獣人もいない、カバの声も聞こえない!! 向こうもパニックってこと!?
「おい、来てるぞ!!」
はぁはぁと荒い息で走りながら、疲労と驚きで未だ身体がうまく動かないらしい女ライオンが叫ぶ。
「ギリギリまで引きつけてから横に飛んで!!」
「無茶言うな!!」
言うが否や、猛然と突っ込んでくるカバを避けて2人は別方向に転がり跳ぶ。
「で、さっさと起きて走って逃げる!!」
「お前ぜったい馬鹿だろう!?」
「私が馬鹿なら、私をまだ見捨てないあなたは大概お人よしでしょ!!」
付き合ってられんと叫ぶ女ライオンにそう返して、初音は極限状態過ぎていっそ笑えてくる頬を叩いた。
「水辺からはだいぶ離れたし、もう少し距離を稼げたら諦めてくれると嬉しいんだけど……っ!」
「向こうもだいぶ興奮しているっ! 数は多少減ったが諦めそうにもないぞ……っ!!」
「とにかく走って!!」
2人で全方位を確認しつつ、叫びながら走り続ける。
「カバ共は自分たちだけで固まって、聞く耳なんて一切と持たないヤツらなんだ! 私ら獣人だって、余程の理由があっても近づかない相手なんだぞ!? わかってやったんならどんな頭をしてるんだ!?」
「文句は逃げ切ってから聞くから!!」
女ライオンに怒られて、そもそも交流するつもりがゼロであることが、カバたちの声が一切と聞こえない理由かと初音は思い当たる。
「おい!! 右!!」
「え!?」
「よくもやってくれたわね!!」
大きな影にだけ集中していた初音の背後から忍び寄る影に、女ライオンが声を上げるも時は遅い。
ダメージを受けて血を流しながらも、目を血走らせて髪を振り乱した女ハイエナに予想外の方向から体当たりをされた初音はゴロゴロと嘘みたいに転がった。
「い……っ!」
直ぐに立ち上がって動かなければいけないとわかっていながら、初音の全身が悲鳴を上げて立ち上がれない。
「ザマァみなさい!! カバ共に潰された後に骨まで貪り食ってやるから楽しみにしときな!!!」
あはははと高笑いを残して消えた女ハイエナを、気にする余裕もない。
「おい、生きてるか!?」
女ライオンの声に返答をすることもできず、ブルブルと震える身体を起こした初音の視線の先で、一体のカバとその視線が交錯する。
ーーやばい……っ!!
ざわりとした感触が初音の背筋を走り抜け、軽い助走をつけながら一直線に向かってくる巨体に、初音は目を見開くしか出来なかった。
ーージーク……っ!!
「初音っ!! 頑張って!!」
パッと目の前に現れた美少年に、初音は呆然とその赤い瞳を見返した。
「早く! 立って!!」
必死な表情のネロに無理矢理とその腕を引かれて、痛む身体に歯を噛み締めるとそこから飛び逃げる。
今さっきいた場所を通り過ぎる巨体の気配を感じながら、初音は受け身も取れずにネロと一緒に転がった。
「ネ、ネロ……っ!? は、早く逃げて!! まだ間に合うから!!」
「もう大丈夫だよ」
通り過ぎた後に再び初音たちへと向きを変えるカバや周囲のカバに焦る初音に対し、ネロはその赤い瞳を緩ませる。
「初音っ!!」
豪と立ち昇る赤い焔に、初音の瞳が囚われた。
初音を囲むように円状に燃え広がる焔を飛び越えて、血相を変えて走り寄ってくるその姿に、初音の視界が滲む。
「ジーク……っ!!」
「怪我は……っ!?」
「だいじょ……っ」
ペタペタと初音の頬や頭に触れてその無事を確認すると、両者はその勢いのまま、どちらともなく口付けたーー。




