62.恐怖
昼でも薄暗い洞窟を初音はひた走る。
遊ばれるように初音の後を追ってくる気配に、身体が恐怖で萎縮するようだった。
途中で転んだ膝が痛い。血が流れ出ている感覚が、気持ち悪い。
そんな初音の肩が掴まれて、岩壁へと押し付けられた初音は荒い息でその姿を見上げる。
「いい加減に諦めて、俺様の女になれ。安心しろ、見ての通り女の扱いには慣れてるから、痛くなんてしねぇ。……大人しくしてたらな」
ぐいとあごを掴まれた先にある肉食の瞳に初音は目を見開くと、全力で暴れてその手から逃げ出した。
元よりこの追いかけっこを楽しんでいるアレックスだからこそ、逃れられているのがわかるから腹立たしい。
「ほんとに出口なんてあるんでしょうね!?」
「俺様は嘘は言わない」
悠然と後を追ってくるアレックスは、時折初音を捕まえて無遠慮にその身体に触れると、それを嫌がる初音に笑みを溢して解放することを繰り返す。
圧倒的強者が弱者で遊びを繰り返すように弄ばれて、初音は歯噛みするも逃げる他に手立てがない。
そうこうしているうちに、洞窟へ差し込む薄明かりに気づいた初音が一縷の希望とでも言うように足を早めた瞬間、その身体はいたく簡単に引き倒されてのしかかられた。
「離せったら!!」
「ほんの少しの抵抗すらできんとは、人間とは難儀なものだな。安心しろ、俺様を愛している限り、初音は俺様が守り続けてやる」
「…………っ!!」
もう突っ込むのもアホらしくて、めちゃくちゃに振り回した腕もいとも簡単に捕らえられる。
両手をびくともしない腕に掴まれて、身体の上に乗られ、首元へ唇を寄せられた感覚に初音は悲鳴をあげた。
「ジーク……っ!!」
強くつむった瞳で顔を背け、押し殺したように漏れた悲痛な声に、アレックスはぴたりとその動きを止める。
「アレックス様」
暗がりからすっとその姿を見せた女ライオンの獣人を視線だけで振り返り、アレックスは荒く舌打ちをした。
「つくづくタイミングを考えない小僧だ。まぁ手間も省けて丁度いいか」
「ジーク……?」
ポツリと、呆けたように涙に濡れる瞳で溢す初音を見下ろして、アレックスは嘲るような、呆れるような、羨望のような顔で見下ろす。
「あの小僧の首でも持って来てやる。希望には絶望が不可欠だろう?」
「あんた……っ!!」
「俺様が初音の希望になってやるから、楽しみに待っているといい」
「ジークたちにこれ以上、傷ひとつでもつけたら許さないから!!」
自身の下で非力に騒ぐ初音にアレックスは笑う。
「いいぞ。その調子で、俺様のことだけ考えろ。小僧を始末すれば、時間はいくらでもあるからな」
もうどうすればいいのかわからなくて、初音の瞳から泣きたくもないのに涙が溢れた。
「この人間は私が」
「あぁ、丁重にな」
溢れた初音の涙を指先で拭い取って口に運ぶアレックスが、言いようのない化け物に見えた。
女ライオンの獣人に後ろ手に捕らえられた初音は、洞窟を元来た方へ戻るアレックスをどうすることもできずに見送る他ない。
「お願い、あなたたちにとっても、私はきっと邪魔でしょう? 消えるから、私を解放して」
ガタガタと震えて俯く初音を少し気の毒そうに見やりながらも、女ライオンの獣人はその手を緩めることはなかった。
「アレックス様は私たちのリーダーで、アレックス様が今何よりも興味を持っているのがあなただ。そんなあなたを取り返そうと追いかけて来たクロヒョウが諦めない限り、双方の闘いを止めることはできない。それが、私たちと言うものだ」
「なんで……っ」
どうすればよかったのか。嘘でもつけばよかったか。素直に契約をすればよかったか。そもそも、招き入れたことが失敗か。
獣人であるジークを好きになったのが、間違いか……?
「お願いだから離して!!!」
「……人間では、私たちには100にひとつも敵わない。アレックス様の指示がある以上、ここで大人しくしていていろ」
魔法のあるジークなら大丈夫と思う一方で、拭い去れない不安が恐ろしかった。
多勢に無勢だったら? 初音をはじめとした誰かを人質にしたら? 一瞬の余地なくジークの命を狙ったら?
いやな想像ばかりが頭を巡って、ぐらぐらと地面が揺れている。
「………………」
「………………」
重苦しい空気だけがその場に満ちる中、初音が目指していた出口から踏み入ってくる気配に2人はその視線を向ける。
「あら、お姫様。王子様とはぐれちゃったのねぇ? かわいそう」
「あなた……っ!?」
「マジ相変わらずうまそうな人間だな、マジで!!」
「以前はよくも逃げ仰せてくれましたねぇ。とんだ大迷惑だったんですよぉ」
ハッとして顔を強張らせた初音に対し、2人の男ブチハイエナをあいも変わらず引き連れた、女ハイエナの獣人が黒い瞳でニタリと笑った。




