59.仇(あだ)
はぁはぁと息を切らせて走る初音は、まるで遊ばれているように追い詰められているのがわかって唇を噛む。
「い……っ」
薄暗く足場の悪い洞窟で足を取られて転んだ先で膝を擦りむき、たらりと血が伝ったのがわかった。
「ほら、言わんこっちゃねぇ。こんなところで人間が走るからだ」
「……っ!!」
じゃりとその存在感を誇示しながらも、腹が立つほどに余裕しゃくしゃくな顔でゆっくりと後を追ってくるアレックスの気配。
「……くっ!!」
痛む足を叱咤して、初音は歯を噛み締めて再び走り出す。
そんな初音の肩をぐいと掴んで、事もなげに壁へと押しつけたアレックスはニヤリと笑う。
「いい加減に諦めて、俺様の女になれ。安心しろ、見ての通り女の扱いには慣れてるから、痛くなんてしねぇ。……大人しくしてたらな」
ぐいとあごを掴まれた先にある肉食の瞳に、初音は目を見開いたーー。
時は少し遡り、突然に現れた訪問客の存在が意識されながらも、特に変わり映えのない日々が過ぎていた。
「……あの人たちいつまでいるの?」
「アイラちゃん……」
街の店先で騒がしく飲み食いしているアレックスの一団を遠目に眺めて、ボソリと呟くアイラに初音が苦笑する。
「……あの人たちは……誰ですか?」
珍しく反応を見せた蘇芳に少し驚きつつも、初音はそっと耳打ちした。
「へぇ、ライオン……」
相変わらず反応は薄いけれど、少しばかり動くようになった表情に初音は頬を緩める。
「アスラっち疲れてない?」
「うん、多少交代してるとは言え、どうしても動向が心配だからってずっとついていてくれてるから……」
「そろそろ帰って欲しいところなんだがな……」
腕を組んではぁとため息を吐くジークに、初音は再び苦笑する。
アスラの案内の元に国を満喫するアレックスたちの一方で、アスラが抜けた穴を補填するに足りない途上国の整備は日に日に滞っていた。
「初音」
「え?」
穏やかに話していた空気が一変し、にわかに緊張が走るジークの声音に顔を上げた初音は、気づけば目の前に仁王立ちに立っているアレックスに仰け反る。
「久しぶりだな、クロヒョウと女。滞在中の歓待を誠に感謝する。実に素晴らしい」
「お気に召したようで良かったです」
警戒心マックスのジークに代わり、初音は意識的な笑顔を浮かべて口を開く。
「実に良かった。人間の暮らしとやらも悪くない。……でだ」
余裕の表情で笑うアレックスは、ジークを流し見て、初音を見下ろす。
「喜べ女、お前を俺様の女にしてやろう」
「……は……?」
目を点に戸惑う初音とは対照的に、即座に青筋を浮かべてアレックスを睨み上げるジークは牙を剥く。
「寝言は寝てから言え……っ!!」
「お前は王に相応しくない。そして、女は強い者のモノであることが相応しい」
「アスラっ!!」
初音をアイラたちと共に背後へ追いやって、焔を巻き上げながら叫ぶジークに素早く距離を取るアレックス。
「碌なこと考えてなさそうだとは思ったが、正面突破とはほとほと恐れ入る……っ!!」
ボヤきながらも、アレックスに向けて即座に詠唱を始めたアスラの間に、女ライオンの獣人が分け入った。
「おい、邪魔だ……っ!!」
「あんたもねっ!!」
「……っ!?」
別にいた女ライオンに至近距離でその爪を振りかぶられたアスラの思考が一瞬停止する。
「アスラ殿っ!!」
バッと両者の間に分け入った白虎に阻まれた女ライオンは、分が悪いと見るや即座に引いた。
「初音様っ! アイラ様方もこちらにっ!!」
騒ぎを聞きつけて飛んできたヘレナに誘導される初音たちは、アレックスに対峙するジークを振り返る。
「……私から離れないで下さい……っ!!」
「…………お姉……っ」
気づけば向かう先を、円状に女ライオンの獣人たちに囲まれていることに気づいたヘレナがジリと後退る。
「……狐風情が私たちに勝てる訳ないでしょ……っ!!」
「…………っ!!」
身構えるヘレナの直前で、女ライオンがその身体を魔法の呪縛に囚われる。
「アスラ様……っ」
思わずとその姿を振り返るヘレナの横で、アイラの悲鳴が上がった。
「アイラちゃん……っ!」
同時に三方向から近づく女ライオンを見て、アイラに手を伸ばした初音の腕をヘレナがとっさに掴む。
「アイラ……!?」
アレックスへ焔をまとって飛び掛からんばかりだったジークが動きを止め、アイラに近づく女ライオンたちへ焔を投げ放ちながら距離を詰める。
そんなジークに女ライオンたちは身を翻すも、焔を潜り抜けた1人の爪先は止まらない。
「…………っ!!」
イヤな音と共に散り飛ぶ赤い鮮血に、その場の全員が目を見開いた。
「蘇芳くんっ!!」
「スオーっ!?」
アイラを庇うように割り込んだ肩口の肉が裂かれ、初音とアイラの声が響く中、蘇芳は顔を歪めて声もなくしゃがみ込む。
「スオーっ!? スオーっ!!」
油汗を浮かべる蘇芳に動揺するアイラをはじめとした周囲の隙を突いたアレックスが、固まっている初音とヘレナの前に踊り出ていた。
「邪魔だ」
「…………っ!!」
「ヘレナっ!!!!」
無造作に振り払ったその太い腕に跳ね飛ばされたヘレナの身体が、宙を舞うのにアスラが叫ぶ。
「ヘレナさ……っ!!」
「初音っ!!」
「動くな」
初音の細い首に、アレックスの大きな手が掛けられていることにその場の全員が動きを止めた。
「少しでも動けばこの首をへし折る」
「…………お前ぇっ!!」
ブチ切れたアスラの声と同時に瞳に映るのは、うめく初音の声と宙に浮く足。
「動かないで」
ピタリと動きを止めたアスラの首元に突きつけられる女ライオンの爪先から、一筋の血が流れ落ちる。
しばしの膠着状態に、その場が静まり返った。
「心から申し訳ないとは思っているんだ。嘘じゃない。だが、わかっただろう? お前じゃ何も守れない」
首を掴んだ手はそのままに、アレックスは初音の腰を荷物のように抱え上げる。
「……本来なら男と子どもはすべて殺すものだが、俺様に従うのなら功績と歓待の礼代わりに特別に見逃そう。……何、心配するな、この女を殺すなんてつもりはない。ただ、邪魔なく静かに話したいだけだ」
自分勝手な理論を、その場の壮絶な空気を全く汲みせずにアレックスは並べ立てていく。
「またな、クロヒョウ」
悠然と笑うアレックスを、ジークの燃えたぎる金の瞳が見つめていたーー。




