54.まだ見ぬ先
「……どうでしたか」
ありがとな。ともう一度気まずそうに、けれど少しだけ吹っ切れたような顔でお礼を告げて、街の方角へと消えたアスラの背を見届けたヘレナが誰にともなく小さく呟く。
「……うん、多分、けっこう聞いてたと思う」
そう言ってばさりと空から降りたった白い影は、その姿を人型へと変えて地に降りた。
銀に近い白髪に赤い瞳の美少年ーーネロは、そのいくらか成長した姿でヘレナのそばへと近づく。
「……これが多少の牽制になれば良いのですが……」
「……ヘレナお姉ちゃんのことは皆んな一目置いてるから、効果はけっこうあると思うんだ。協力してくれてありがとう」
そう言ってぺこりと頭を下げるネロを見下ろして、ヘレナは口を開く。
「おやめ下さい。私は頼まれたから協力したわけではありません。先ほどアスラ様に掛けた言葉は、どれも嘘偽りなく私の本心です。わざわざ口に出す事でもないと思っていただけで、期待に沿うようにお伝えした訳ではありません」
「……それでも、ありがとう」
ふいと、珍しく気恥ずかしそうに視線を逸らすヘレナに一瞬目を丸くしたネロは、ふっと光が溢れそうな美しい顔で破顔する。
一見すれば形になりつつある人間と獣人と動物の共生である反面で、人間との間に生まれる軋轢は地下深くで沸るマグマのようにその気配を漂わせていた。
奴隷商などのわかり易い標的の大部分がいなくなったこの国で、その意識の先は広場で表舞台に引きずり出されたアスラに向けられる。
表立って何かが起こるというわけではない一方で、一部のまとわりつくような居心地の悪い空気が、この国を確実に蝕む類のものであるとネロとヘレナは感じ取っていた。
「………………」
「……ヘレナお姉ちゃん、どうかした?」
不意にいくらか思い詰めたように黙り込むヘレナへ、ネロが心配そうにその顔を覗き込む。
「……いえ、私は……アスラ様に、重荷を……負わせてしまったように思えて…………っ」
過去に犯した過ちを、この針のむしろのような場所で、明ける保証もない未来へと逃げずに向き合い続けることを望む。
アスラに本心から期待する一方で、その期待に沿いたいとアスラが思えば思うほど、その逃げ道は失われていくことになる。
「大丈夫だよ」
「え……」
もっとうまく言葉にできればよかったのにと顔を曇らせるヘレナに、ネロが笑いかける。
「こんな風に心配してくれるヘレナお姉ちゃんや皆んながそばにいて、僕たちに《《そう》》思わせてくれるアスラさんがいる。だから、絶対大丈夫。大丈夫だよ」
「ネロ様……」
にっこりと笑うネロをしばし呆けたように見下ろして、ヘレナは困ったようにふっと微笑む。
生きる為に他種族を捕食するのと、生きるために他種族を虐げること。
される側にしてみれば、どちらにしても大差はないはずで、大きなことも小さなことも、誰1人として人を傷つけることなく生きていける者がどれだけいるのか。
たとえ直接でなくても、たくさんの声の一つでも、言葉には出さなかったとしても、自身が気づいてすらいない所で、誰かを傷つけていることだってあるかも知れない。
過去は変えられない。勝手に終わらせることも、本当はできない。
相手をどれだけ深く傷つけたかは、傷つけた方にはわからない。
それでも、自分の過ちに気づきもせず、気づいてすら開き直るような者がいる中で、その過ちを自ら認めて心から謝罪できるその心が、折れないで欲しかった。
「……そうですね。アスラ様に期待を掛けるのです。悩んでる暇があるのなら最大限、私たちも尽力するべきですね」
「うん。……ぜったいに、初音とジークが作ってくれたこの夢物語は、僕たちが終わらせない」
初音とジーク《《だから》》できることと、初音とジーク《《だからこそ》》できないことがある。
大き過ぎる重荷を1人で背負う必要もないし、分け合って、支え合って、協力して細く続いていく理想の未来の先へ繋いでいく。
因縁や禍根をきれいに排除するだけではなく、折り合いや妥協点、解決法を皆で模索する未来。
そんなまだ遠く朧げな未来を見失わないよう、青空の下、ネロとヘレナは赤い瞳で微笑みあった。
「蘇芳くん……!」
「…………初音さん、ジークさん……」
ぼんやりと青空の下、胴元の施設の屋根の上で風にその黒髪を揺らしていた蘇芳は、声と共にジークに連れられて屋根上に降り立った初音を振り返る。
「……お久しぶりです」
「うっ! ご、ごめんね! ほっといちゃって……っ!!」
「いえ、皆さんに入れ替わりすごく親切にしてもらってるので……」
うぐっと言葉に詰まって赤くなる初音を無表情で眺めて、蘇芳はチラとその視線をジークへと移す。
その視線を受けたジークが蘇芳へ視線を返せば、蘇芳は無言でその視線を逸らした。
「ごはんは食べれてる? 身体の方はどうかな……?」
「……気遣ってもらってありがとうございます。少しずつではありますが……」
「……そっか、よかった」
「…………」
奴隷として、檻の中で今にも死にそうな様相でいた蘇芳は転生当時は中学生だったという。
転生した世界で右往左往していたところを、初音と同様に奴隷商に捕まった。その後は買い主の元を転々と売り買いされる生活で、飽きたらゴミのように売られることの繰り返し。
背中に焼き付けられた魔法陣の痛々しい焼印と、目を背けたくなるような身体中の傷跡がその壮絶さを物語り、その折れそうに細い体躯は目を背けたくなるような有様だった。
転生当時にまだ幼さを備えていた風貌と体躯は、そんな過酷な環境下でも成長して現在は18歳の青年にまで成長している。
本来であれば目を引きそうな整ったその容姿である一方で、解放された今現在でもその顔からは感情が抜け落ちたように心在らずだった。
「お姉! お兄! あ、スオーもいた!!」
「あ、アイラちゃん、おはよう!」
ひょっこりと屋根上へと顔を出してよじ登ってくるアイラに、その場の視線が集まる。
「もうお兄ったらお姉を一人占めしてほんと子どもみたい。お姉、身体大丈夫? お兄ったらほんと女の子の扱いってもんが分かってないんだかーー」
「ちょうどよかった。俺もアイラに山のように話がある」
「げっ」
アイラの頭を笑顔でガシリと鷲づかみするジークに顔色を変えるアイラを、初音は苦笑して、蘇芳は無表情に眺めやった。
「お姉っ! スオー! 助けてっ!!」
そんな叫びを上げながら初音と蘇芳の背後へ逃げ込むアイラに、初音は笑顔で、蘇芳は少しだけ驚いた顔で翻弄される。
吸い込まれそうなほどの青空に、街の活気づいた音と共に、アイラの賑やかな声が吸い込まれるように響いていたーー。




