35.距離感 ⭐︎
「い、いたたたたたたた……っ」
「……あんな無理するからだ」
鬱蒼と茂る森の中の樹上で、肩から指先までの痛みと後から来た筋肉痛に耐えながら、初音は上手く動かない腕に涙ぐんだ。
「ーー腕自体には問題はなさそうだな。疲労と酷使による痛みだろう」
初音の両腕を注意深く探っていたジークは、ふぅと息を吐く。
「はつねっ、いたい?」
「あらあらあらあら大丈夫ー?」
「もー。お兄がいるのに何でこんなことになるのっ!?」
「あ、今日はシマウマが狩れたんだけど、初音ちゃんも食べるかい? いやぁ、ジークがいると炎を使うのも楽だなぁ」
「あ、ありがとうございます……っ」
「ーー…………」
わらわらとアイラをはじめとしたヒョウ一家と人型になったネロが、初音とジークを取り囲む。
象たちが立ち去り夜が明けて、そもそも戦意喪失をしていた様子の人間たちに更に脅しをかけたジークは、日中気温が上がりはじめた昼頃に、ぶるぶると震える人間たちの目隠しと足の拘束を外して解放した。
「口が使えるとまた良からぬことを考えるかも知れないからな。人間の街に着けるかは運次第だ」
口と腕は拘束されたまま、蜘蛛の子を散らすように一目散に逃げて行ったその姿を見届けた初音とジークとネロは、アイラたちヒョウ一家の待つ樹上へと戻って来ていた。
「だめよぉ、ジーク、女の子に無理をさせちゃぁ」
ヒョウの赤ちゃんをその腕に抱いた女性のクロヒョウーーアイラのお母さんが眉をハの字に傾ける。
「ジーク、はつねっ、づかいっ、あらいっ」
「お兄ったら全然成長しないんだからっ!」
「いやいや、アイラ、そんなことはないぞ! こないだの夜なんてもの凄くカッコよく初音ちゃんを迎えに戻ってーー」
そこまで口にしたヒョウーーアイラのお父さんは、その気配を察してギギギと視線を動かす。黙り込む一同と共に、初音はゆっくりとジークを振り返った。
「……ジーク……?」
無言だったジークは、ジロリと睨みを利かせてから立ち上がると初音へと手を伸ばす。
「あっ、ジー……わわっ!?」
ガシリと初音をその腕に抱いて、これでもかと言うくらいに眉間にシワを寄せたジークは、不機嫌そうに大木を飛び降りた。
「若いねぇ」
誰とともなく呟いたそんな言葉が耳に入る暇もなく、2人の姿は木々の隙間に消える。
「ジ、ジーク、いいの……っ!?」
「面白がってるだけだ。放っておけ」
「ネ、ネロは……っ!?」
「……来たきゃ来るだろう」
ふんと鼻息荒く答えると、ジークは手近な大木の上に飛び移って初音を降ろす。
「えっと……っ」
いささか手持ち無沙汰になりながら所在なさげに棒立ちになる初音を見上げて、腰を下ろしたジークはスイと腕を伸ばす。
「……っ」
その様を見下ろして、ピシリと一瞬固まって視線を揺らした後に、初音はそろりと近づいたその腕を取る。
「わっ」
そんな緩慢な動きの初音の腰を無言で引き寄せたジークは、初音をその膝上に抱き込んだ。
音を立てる心臓と上がる体温を感じながら、その金の瞳としばし見つめ合い、しばしの後に唇が重ねられる。
合わせた唇が離れるのと同時に、ジークは初音諸共コロンと樹上の幹に転がった。
「……ジーク?」
「……眠い」
「あ……寝る?」
「……昨日は寝られたのか……?」
「ジークよりは……。でも、ジークが寝るなら私も一緒に寝ようかな……?」
「……ん……」
昨日の騒ぎで無理もないけれど相当に眠いのか、両腕に包まれたままに見上げたジークの金の瞳は既に閉じられていた。
伝わる鼓動がジークのものか自身のものか判断がつかないまま、初音は熱くなる身体を自覚しながら大人しくその胸に抱かれる。
クロヒョウたちを助け出したあの夜以降、ジークとの距離感は日増しに近くなっていた。
抱き止められ、唇も重ね、精神的な距離も近くなったと感じる。初音を扱うジークの指先は、いつも優しい。
けれど一方で、グローミング的な親和行動以上の意味合いとして扱って良いのか、どこか不確かなその関係を初音は掴みあぐねていた。
ーー何か言われた訳でもないし、キス以上は……別にされないしなぁ……。
じゃれつく猫を脳裏で想像して初音は眉間にシワを寄せて1人うーむと悩む。
そんなことを思いながらその美しい顔立ちを眺めて、むしろその先を望んでいるかのような自身の思考に気づいた初音はハッとして頭を振った。
気温が高まる頃合いに、頭上の木陰から溢れる光と影が気持ちよく、吹かれる風が心地よい。
ふと、グリネットにつけられたジークの頬の傷が目に止まり、そっと指先を伸ばす。
「……さっきから1人で騒がしいな……」
ぎゅうと回された腕に力が込められて、初音はピクリと身体を強張らせる。金の瞳と至近距離で目が合って、固まった。
「……えっ……と…………っ」
緊張で思わず引きつる口端を自覚しながら、スリッと額に鼻先を擦り付けられてピクリと身体が反応した。
今更ながらにぴったりと触れ合った身体と、腰と背中に回された腕を自覚して動揺が走る。
「……人間はか弱いな……」
「……そ、そぅ……っ?」
「加減を誤りそうだーー」
背中に回されていた手が初音の右頬に触れて、その親指が唇をなぞる。
五月蝿い鼓動の中で、間近にあるジークの金の瞳から目が逸らせなかった。
鼻先同士が触れ合い、互いの吐息が混ざる。割った指先に良いようにされる唇を塞がれる直前に、ジークはぴたりとその動きを止めた。
「ーー……続けていいのか?」
「ーー……い、今さらこの状況でそれ聞く……?」
今にも触れそうな間近の距離で問われ、初音は思わず聞き返す。
いいも何も、既に事後感が強い。
「ーー俺は獣人で、初音は人間だ。……イヤではないのか」
この世界で問われたその言葉にどれだけの意味があるのか初音にはまだ正確には計り知れなかったけれど、近くなった距離感はむしろ初音に安心感を与えていた。
いたく真面目に涼しい顔で返ってきた言葉に、初音は真っ赤な顔でしばし口をパクパクさせる。
「ーーい、イヤ……じゃ……ない……けど……っ…………っ」
「…………けど?」
「ど……して……キス……する……の……っ?」
「……? 仲を深めるのに、人間もするんじゃないのか?」
まぁまぁ勇気を振り絞って聞いた答えとしては、いささかモノ足らない返答が涼しい顔で返って来た。
「え? あ、いや、まぁ確かにする……けど……んっ」
言い終わる前に唇を塞がれた。思わずギュッと目をつむる。
「……っ…………っ……んっ」
上向かされた態勢に余計に呼吸を圧迫され、酸素を求めた唇をペロリと舐め取られて思わずジークの衣服を握りしめる。
「ふ……ぅっ……ぁあっ!?」
気恥ずかしさに思わず顔を逸らした所で首筋に顔を埋められて、目を見開くと同時に変な声が出たことに顔が熱くなる。
うぐっと涙ぐんでジークの顔を見やれば、何やらやたらと余裕のある様に腹が立ってきた。
「もう……っ!」
腹いせにぴこぴこと動く黒くて丸い耳に優しく触れれば、ジークはビクリと身体を硬直させて目を見開く。
「……えっ! ご、ごめん、痛かった……?」
「……痛くはない……が、本当にいい度胸をしている……」
いつもの無表情を悪そうに歪めて、ペロリと唇を舐めるその色気に当てられて、初音まで変な汗が出てくる。
「え……っ!? ちょ、まっ……んぅっ!?」
不穏な光をその瞳に宿したジークが言うが否や、仕返しのように責め込まれて、初音は少しばかり後悔したーー。