28.これから ⭐︎
「あれは多分グルーミング……あれは多分毛づくろい……っ……アログルーミングは毛づくろいを親和行動の一種として行う猫同士の愛情表現で、飼い主などに対しても見られる行動で……っ」
「……何1人でぶつぶつ言っている」
「はつねっ、どうしたっ」
ジークに突然キス的な行為をされたという衝撃が未だ冷めやらず、自身を襲った事態を理屈で落とし込もうと初音は必死に頭を悩ませていた。
現にジークはあれからも普段通り、特段の変化を感じさせない憎たらしいほどの通常運転。
「親和行動、つまりは仲間意識。そう、仲間意識。それが近い気がする……っ」
変な汗をかきながらまだ湿った身体と衣服を風に吹かせつつ、初音は服を乾かすと言ったジークに連れられた大木のてっぺんで誰にともなく呟いた。
白い雲の浮かぶ空は青く、暖かな陽射しと乾いた風が髪を攫い気持ちいい。広がる森と、遠くに広がる平原。そのさらに向こうには霞むように建物の影が見えている気がした。
腕に抱いたネロの温もりに安堵を覚えるのと同時に、背後から伝わる熱に鼓動が落ち着かない。
「……あの、なんか……近くありません……?」
「…………別にいいが、落ちても知らないぞ」
大した足場もない樹上から、目も眩むような高さを見下ろした初音はごくりと喉を鳴らす。
樹上が得意なクロヒョウのジークにとっては何てことないのだろうが、自力で降りられないこの現状は、一歩間違えば樹上に運ばれたエサと言う貴重な心境を体験できた気もした。
「…………もし、人間の中に居場所がないなら…………《《ここ》》に居てもいい。初音には借りもできたし……アイラも喜ぶ。反対する者はいないだろう」
ネロを抱いた初音を背後から抱えるジークに、落ち着かない心境で1人じりついていた初音は、ジークの呟きに動きを止めた。
「獣人と人間の関係は最悪だ。人間は魔法で獣人を制圧し好き放題。人間への鬱憤を溜めた結果、ハイエナみたいに問答無用の敵意を露わにするヤツや、単純にエサとして見るヤツも多い」
「……昨夜は魔法使いも多くいたのに、皆んなだけで本当に対処できたの……?」
「昨夜は特別だ。あそこにいた獣人たちの《《敵》》は理由を挟む余地がないほどに明確だった。あの頭数で魔法を完成させる暇さえ与えなければ、魔法のない人間など俺たちには赤子も同然だ」
「……それなのに、人間にはやっぱり敵わないの…………?」
魔法が脅威であることは理解しているけれど、本当にこんな事態となるほどに手立てがないものなのか不思議な気がした。
うまく言えず言い淀む初音を見下ろして、ジークが視線を遠くへと向ける。
「俺たちが勝てない理由は、獣人を妨げる魔法陣と魔法、それに人間の団結力だ。人間はまとまるのが上手い。対して俺たちはそもそもの捕食関係や、認知、力の差、利害関係が強すぎて互いに背中など預けられない。協力すれば済むことだとわかりきっているのに、結果これだけ人間に良いようにされている」
「ーー……じゃぁ、私やネロをそばに置いてくれるジークは、ハイエナたちが言ってたようによほど珍しいんだ」
ははと苦笑した初音に一瞬目を丸くしたジークは、視線を横へずらして戻す。
「……まぁ、それはお互い様だな」
「…………っ!?」
ぐいとジークに頭部へ顔を埋められた気配を感じて、初音はピクリと身体を強張らせる。
「……ここが安全だとは言えないが……もし初音が残るなら、できるだけの事はする」
「あ……ありがとう……」
そろりと背後を伺い見れば、いつもの無表情に近い、けれどどこか柔らかいジークの顔があった。
昨夜から出たままの黒くて丸い耳と尻尾がぴくりと揺れる。
「人間の街に帰りたいなら、それも可能な範囲で協力する。契約を破棄する方法を探してからにはなるが、初音がしたいように、すれば良い」
「…………」
どちらでも自由にしろと言う、ジークの空気が伝わって来た。どちらを選んだとしても、その選択を尊重してくれるとその瞳が告げている。
しばし言葉を失って初音は視線を揺らすと、乾きかけた制服が目に入り、初音は無意識にその衣服を掴んだ。
生活の基盤さえあれば、人間の街に居た方が住み易いのであろうことは理解できる。しかし現状そこに初音の居場所はないどころか、身の危険すらあるのは変わらない。
ジークやアイラに甘えて、正体不明の力を解明しながら暮らすことは、嫌どころかこれ以上ない程にありがたかった。
そう言って貰えたことが嬉しい。けれど何も知らずにその言葉に飛びつけたのは、きっとあの施設を見る前までだったと、どこかで何となくわかっていた。
「…………まだわからないことだらけだし、ジークやネロとの魔法……契約? のことも調べないといけない。私自身に何ができる訳でもないかも知れないけど、もしかしたら、ネロの時や昨日みたいに、何かできることがあるんじゃないかと思ってる」
屋敷にあった大量の資料を、火の海の中からわざわざ回収したジークや、手伝ってくれた動物と獣人たち。その意図は、聞かなくてもわかる気がした。
「もしまだあんな環境に取り残されてる動物や獣人たちがいるなら、何とかしたい。それにーー」
必然か偶然か、なぜか狙われる異世界者にとって、この世界が生きづらいことは身をもって知った。
「この制服の学生を探せないかなって。多分きっと、私と一緒で、どこかで1人、困ってると思うからーー」
思い出すのもおぞましい出来事の連続の中で、差し出されたその手が、縋りついたジークの手がなければ、どうなっていただろうと、今でも恐ろしい。
「……それにできたら……私も皆んなと一緒にいられたら、嬉しいーー」
ジークの心の内はわからない。 《《使い道》》として見られているのも確かであろう一方で、単身1人、明らかな危険も顧みずに舞い戻った、昨夜のジークの姿もまた真実だった。
そっと振り返ると、思ったよりも近い距離でジークの金の瞳と目が合った。
「……俺が断る、理由はないな」
「ネロもっ、いっしょっ!」
ふっと笑んだジークと、すりっと甘えてくるネロにほっとして、初音は息を吐く。
「ーーとりあえず寝るぞ、眠い」
「えっここでっ!?」
ジークの言葉にギョッとした初音の声だけが、乾いた風に攫われて流れていったーー。




