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3.うた=='歌' else 唄 #詩

 ページを捲ると罫線だけになる。その前のページに引いた文字の跡が薄く残っている。わたしは整理した記憶のノートにまとめている。過去は跡になっている。新しい一行めに、取り組んでいる記憶について記そうとペン先を近づける。このところ、歌手たちの記憶を整理している。いくつも受け取っている。その経験を恥にして捨ててしまう人たちも多い。乾いたインクのダマが文字の端に意図を与える。一文字をすべらせたとき、通話が繋がる。割り込み仕様の強制通信、横河から。

「直接取引としたいそうだ。セッティングは考えている。ネリが気に入りそうな和食堂を選んだ。確かめてくれ」

横河の手練れたところは好きになれない。何度目のバカンスがわからないけれど、、年齢を偽っているのだから。偽物の記憶(思い出)の一つに重なって、眉間に皺を寄せてしまう。映像処理が補正の通知をログを残している。

「人権教会の判断が必要。あなたの依頼の場合、アーリア教区長の」

「厳密だな、信頼を得られいないか。納得はするが」

教会のAIが通話に参加してくる。人格の基準はわたしたちと同じ、捨てた記憶でできている。有機体に記憶を量子転写したインテグレータと、言語化後にデータを学習したのか違い。記憶の売買が続いているのは、このAIの学習目的が主に変わっている。インテグレータの記憶唖の対処に使われる割合はすでに1割を切っている。

「特別に問題ありません。変更点があります。依頼人は横河さんの選んだ店を嫌だって」

AIがデータを送りながら短い黒髪を撫でている。その艶と毛先の乱れは誰かに似ている。指定された大宮新々都区大門前のホルモン店にわたしは同意する。派手な横河の笑声が耳に触って、消える。


 品書きを確かめる間に、男は酒を3人分注文する。女が膝の上に掌を乗せて彼の隣で肩をすぼめている。彼女は不安げに微笑んで頬の血色を青くしている。

人じゃない相手(インテグレータ)と飲むのは初めてだな」

紀伊と名乗り、指のうぶ毛を酔った目で確かめている。この男は、20回以上バカンスを過ごしている。500歳は超えているだろうか。

「これまで記憶を売っていないなら。そうかも」

ああ、と河原は破顔する。インテグレータの人造肌には見られない生き生きとした若い肌に光が照りかえる。

「そりゃあな。若くはないからな。忘れるのはいいことだ。新鮮な・・・インテグレータは上書きするだったか?劣化して混乱する前に」

彼の楽し気な声にわたしは頷く。わたしたちは劣化する。満杯にならない。生産時から歯抜けの記憶は整合性を取るための機能が劣化した記憶をつなげていく。そのアルゴリズムは記憶量が一定以下になると無限ループを起こし、同じ記憶でわたしたちを初期化する。

「この子のこと、知っているか?」

紀伊が尋ねる。

「わからない、仕事の話と関係がある?」

「ああ。人権教会に伝えた通りだ。この子の同席を許されるのが面倒だったぜ。依頼人は一人、俺だ。なのに、請求が2人前だったから」

「横河さんが説明をしたから。わたしは知らない」

「この子は歌い手だ。このところの人気の。大宮ホールの専属のNo1」

はじめまして、と彼女が頭をさげる。艶のある黒髪が頬を撫で、煙の匂いを掻く。

「璃々穂だ。知っているだろ?この子の昔の記憶を探してほしい」

皿が到着し、河原は彼女の前のグラスをどけて料理を並べる。璃々穂はそこで初めてジョッキに手を伸ばす。外の雨が反射する。半期清掃前の偽装天面の埃が混じった雨は灰色ににごって、街の灯りに涙色に汚している。挨拶がすんだあとの璃々穂は青い顔に血色をやや戻して食事に手をつける。

「歌い手の昔の記憶さ。そういうものに興味があるって聞いたぜ」

澄んだビールを煽った紀伊の頬に汗と焼いた肉のたれが混じっている。わたしはうなずき、コートを脱ぐべきタイミングを失ったことに気が付く。

「わたし、歌手を一回、諦めてるんです」

璃々穂の頬にもアルコールの酔いが混じっている。食事と声が過ぎる時間と厄介な未来に挟まれてわたしは彼女の声に耳を傾けながらうなずく。

 彼女は、かつて歌の記憶を売った。それは、歌で生きていく夢をあきらめるためだった。情熱が時間を焼き、声を未来にぶつけて生きていた。そんな過去を捨てて、生きてきた。

「昔の日記を見つけて。処分し忘れたんだと思います。けれど、書いてあることが・・・信じられなくて」

「信じられない?」

今、歌を仕事にしている。それならば、彼女の棄てた過去は今につながっている。もっとも、捨ててしまえば他人事と変わらない。

「いいえ、わたし・・・歌うことが好きで。みんなが聞いてくれるのが楽しくて。ホールのお客様の顔がキラキラして。そういう気持ちだから。でも、昔は違ったみたいです」

「違っていた?」

「ええ。でも、わたしの本心だったのか日記でわからないから。その記憶の今の持ち主に本心を聞いて」

それから・・・、そう言って璃々穂はまた頬を青くする。

「直接取引にした理由はこのあとからさ。横河に金を払い、人権教会にも話を通した。あんたの自由意志との取引を認めさせた。記録と報告の義務はない。その記憶を買ったやつを見つけて始末してくれ」

紀伊が天井を仰いで、ジョッキの底から照明を確かめている。

「あんたら、人権は与えられた。だが、排除されている。適切な社会通念の元にな。代わりに法的な義務を負わない。人にとっての違法行為はインテグレータ同士であれば、認められている」

「人がそれを依頼することは違法」

グラスに指を伸ばす。水滴の冷温にくらべてガラスの表面な生ぬるい。

「もちろん、違法なお願いをしたいの」

ほほ笑んだ璃々穂の表情を知っている。誰もが憧れる歌い手の幻影にそっくり同じ。

「わたしは今のわたしを完全にしたいの。わたしの声を愛するわたしを。自分の声を恥じて嫌ったわたしを排除して」


 わたしは依頼を引きうける。帰り道は灰色に曇っている。善悪はインテグレータには適用されない。ただ生き残った存在。時間障壁の内側に取り込野された先兵。大量死させるにも頑丈すぎて、限られた土地では処理が難しいから生かされているだけ。

法的な保護はない。人権教会のアーリア派の尽力で人と同じと主張する権利を認められているだけ。私刑が許され、処刑が通例だった。もっとも、アーリア派の庇護のもと、人に手を上げることも許されるようになった。教会の技術部門がそうしてくれた。引き換えにわたしたちは、大宮市街から追放された。人を損なう力を持っているから。


 なぜ生きているの?そう問われる記憶がある。記憶の中にある回答はさまざま。理解できる。思い出は他人のものだとしてもわたし揺さぶられる。肉体が。心臓が。胸が。けれど、今のわたしの応えは違う。そう決めたから。そう決めた時のわたしの思い出があるから。


わたしは生産工場で約束した。末期生産型のインテグレータのわたしは、つぶれかけの孫請け工場の最後のロットだった。廃業まじかで、記憶のインストールの作業後の確認もやらなかった。わたしは出荷までの安定待ち時間を蒲田のその工場で過ごした。工場長と社長の二人きり。2週間の試験期間。わたしたちは何をするでもなく毎日を過ごした。

 昼下がりの冬、わたしは庭の日当にいた。工場長がわたしの隣で言った。長く闘病中だった娘が死んだと。革命端末の胞子センサ喘息のせいだと。

「お前が生まれたとき、俺の娘が死んだ。俺は何もできなかった」

そういった。

「生きてくれ。最後まで」

わたしには彼の言葉が出来た。インストールされた偽の記憶に感謝した。償いをわたしに託している。


 璃々穂の記憶のエンドユーザは見つからなかった。代書人の関口に情報を頼もうとしてやめる。この前の依頼の顛末を伝えていない。個人契約を交わした情報屋に頼ろうと、連絡先を捲る。北原テネル。人間でありながら、インテグレータの住む大宮北に住む彼は、ここでボランティアを続けている。

資金を親元に頼っていた彼は援助を打ち切られた今は、野良に暮らして、物乞いとわたしたちの修理を生業にしている。

「インテグレータの権利を守るんだよ。そういう政治家になる。選挙権さえ獲得できればさ。みんな俺にいれるだろ」

テネルがそう計画して3年が過ぎた。璃々穂の記憶の手がかりがほしい、と伝えると壊れた家に招かれる。淀んだ空気の中で、古い映画が流れている。

「金でなんとなる記憶とは違うな。買い戻そうにも、見積りもかえってこないだろよ。薬売りが噛んで、飼ってるみたいだ」

テネルは映画の画面を端によけて、画面を拡大する。わたしは頷く。うるおいの無い喉の皮膚がたわむ。偽装天面の近く。発熱した空気が乾いている。

「飼っているのは、やくざとも政治団体ともいえるな。あんたら(インテグレータ)を監禁してるんだから、法的には裁けない。加えて、やくざを取り締まったらこの領域はあっという間に人口が半分以下にへっちまうだろ。狭い世間さ」

「どういう薬?」

「歌うたいの薬、だとよ。それを打って、天使の歌声を聞く。脳派がその声に反応するように調整されているんだそうだ」

テネルは上を向いて、端末の画面から目を細める。天井に空いた穴から偽装した春の光が彼の頬を照らす。

「許せないか?その女、インテグレータの歌い手には名前もないぜ。おそらく、璃々穂の古い捨てた記憶だけ突っ込んだ品だ。壊れるまで歌うだけ。別段、不幸ともわからないぜ」

頷くことができずに背中をむける。天井に空いた穴の影がわたしの先に伸びている。雨を嫌わない、テネルの性質。洗い流すから。この大宮以北の消滅を少しでも速めたいから。テネルはそう言った。

「依頼人の璃々穂さんは。その棄てた記憶が信じられない。そう言った。今は歌が好きだと。棄てた記憶では苦しいこと」

彼女が囚われている場所をもらう。その場所に行けば戦うことになる。人を殺すことになる。

わたし一人では出来ない。ただの、一人きりの、わたしだけでは。もうひとつ、わたしが居ないなら。

わたしはブートストラップ 先のわたしに相談ごと伝える。


 この領域の中央政府、時間保護局。理論物理学者と建築属議員、それに多様なゼネコンが母体のこの領域内の目的は、真空破壊爆弾の炸裂した衝撃を相殺する技術を生み出すこと。その技術開発の時間稼ぎを続けている。革命端末を自動工場の進化の先に予想される真空破壊に対処するこが不可能となったその時期、祥子さんが計画した突拍子もない計画だった。

そうして生まれたこの領域が恐れているのは、戦争が集結すること。終わってしまう戦争のために、この領域を保っているのではない。大宮以北と犠牲にして、平和が訪れるなら、いっそのこと滅んでも構わない。領域の安寧は、結論を求めている。消滅であれ、真空破壊の克服であれ、人は闇縛の未来は決まっている。戦争の集結による、保護局の努力が無に帰すこと。それに、祥子さんがつくったここの管理AIはヤツフサの国民の生存に最適な結論を選択する。

 爆弾が炸裂するその日、わたしたちはこの領域の予科練に呼び戻されていた。最終生産型のインテグレータ。その安定体の遊撃戦部隊。革命端末に優勢で別府戦線の越境飛行してくる革命端末を根絶やしにし、戦況をひっくり返しつつあった。大陸との革命端末の物量差を乗り越えるほど、わたしたちは大きな戦果をあげていた。それは、戦争終結の切り札になりえた。


 この領域に戻されたわたしたちの大きな力は、別の問題を生み出した。人との共存が不可能なほどわたしたちの記憶は改造が進み、精緻に洗脳されていた。切り貼りした記憶が作り出したわたしたちの基礎人格には、暴力を厭う思いと他人の痛みに共感する思いが欠如していた。そのように整理されてた。この領域でのわたしたちの扱いはその誕生の最初から一つの問題になっていた。解決策として生まれたのが、多重起動式だった。初期の模造人にはできなかった、記憶の書き換えと読み出しがわたしたちインテグレータの特性だった。実際の処理を受け持つ頭脳とは別にストレージに記憶を持つわたしたちは起動時にそのデータを主たる頭脳に展開し、駆動している。起動領域がその仕事うけもち、記憶を書き換えても、再起動時に頭脳に展開される。この起動領域に改良を加える実装は祥子さんが行った。

 わたしたちの行動を支える最低限の基礎人格部を起動領域移植し、残りの記憶領域を2つに分ける。

一つの領域にこれまでの記憶を追いやり、これを封印する。残り半分には、新しい記憶を埋め込みこの地で人との共存が可能なレベルに道徳を調整する。こうまでして、祥子さんがわたしたちを保護した理由はわからない。祥子さんはこのとき、時間保護局の技術長だった。


 目を覚まして、ベットを這い出しソファーに体を預ける。背中に毛羽立った羽毛が刺さる。テーブルの上には、水滴の乾いた汚れたグラス。それに潰された缶がいくつか。青いラベルの折り目がひねくれた目でわたしを睨んでいる。ノートがひらきっぱなしになっている。コップの底面の跡がシミになっている。

「声をかけてくれて、ありがとう。退屈よりはずっとまし。終わったあと、記憶のいいところをくれるなら、協力する。横河によろしく。」

わたしの古い人格が承諾のメッセージを残している。数字の羅列を確かめる。わたしの記憶の領域側。そこに彼女の戦い方が記録されている。わたしたちは人より、革命端末よりずっと頑丈だった。壊れなかった。それだけで、三次自動戦争の戦況をひっくり返す存在だった。


テネルから追加の情報が入る。上尾のモール跡の集団居住施設に歌うたいの薬の中毒者が暮らしている。売人もやっているという。モール跡の検問に教会の保証データを読み込ませる。奇異の目が疲労を背に背負ってわたしを確かめている。室外機に扇がれ乾いた空気にあえぐ犬のように、彷徨っている。

「当然だろ、そりゃあ。薬物だ、人は壊れる」

売人はわたしにアンプルの一つを見せながら咳を飲み込む。ベランダの手すりに顎を預けた彼の頬はやせこけ、力を失った腕を垂らしている。バカンスを経過すれば回復する体。しかし、ここの住人にはその費用を捻出することができない。その死は育児を望む人々に買い取られ、代わりにこの施設での生活を保証される。最後の人生を受け入れた彼らは”自暴自棄”になる自由を手に様々な違法事業に手を染めている。

「金が残ってればな、バカンスと記憶の売却で素に戻せる。もっとも、幸せな、恍惚の中で眠れるんだ。その体験を捨てたがる野郎はいないぜ。廃人になる代わりに、唄に飢える欲望だけに溺れる。他に考えることも無くなる。こんな世の中だぜ、あれこれ悩むことなんざ無駄だろう。領域の外に確実な滅びがある。俺達は遅かれ速かれ滅びるんだ。完璧で新鮮な唄に溺れて眠れる。そうしてそのまま死んで朽ちること。その希望を教えてくれるんだよ。この薬は」

男は震える手を見せる。骨と皮とシミの浮いた腕が小刻みに震えている。恐れの種をわたしの胸に蒔こうとする。

「俺もそうする。歌劇場で眠るんだ」


「泣きついているのか」

横河の声が灯りを落とした室内に消える。被った上掛けが額を軽く押さえている。目を閉じたまま次の起動先を設定して、起床時間を確かめる。

「依頼は人権教会に移管した。報告の義務はない」

「話をすることに、理屈がいるなら。聞いてもらう友人が必要だった」

好きにしろ、と言って横河は口を閉じる。

「この薬物に悪意を感じない。歌の理想を研究して人の歓びを求めただけ。造った人は届けようとしたんだと思う。やくざが絡んできたのは、流通の経路がそこにあったから」

「不満なら、人権協会に仲介を頼め。善悪を判断をインテグレータに任せることはない」

低い声は重力のように、わたしの手足を重くする。

「結果はひどいものになっている。だから、仕事はする」

「そうしろ」

「・・・祥子さんならどうしたと思う?」

わからない、と横河が返す。わたしは通話を切る。残った暗闇に、声の跡がのこっている。


 夜明け前の薄明かりがドアの隙間に差し込んでいる。ドアを叩く音が続き、端末の画面には郵便配達人の柔らかい微笑みとその後ろにスーツ姿の男が控えている。

「依頼について重要なお話があるそうです。この方たちが。急ぎのことだって」

郵便配達人は疑うことを知らない。誰かを疑おうと、信じようと彼の暮らしは何も変化しない。三つボタンのウールスーツは数十回目のリバイバルブームのときの仕立て。ベールで顔を覆うスタイルはここ最近の流行だ。

「協力をしたい」

ベットから体を起こし、ドアのほうに歩いていく。男の背中の人影が見える。画面を確かめながら、いくつかの記憶を読み出す。伝えてくれた記憶の一つ。分岐した選択肢の一つ。

 ドアが吹き吹き飛ぶと同時に、わたしは音に反応する記憶領域を例外処理に飛ばすように調整する。処理部に選んだ記憶を配置する。火薬が爆ぜる轟音が届き、柱がびりびりと振動する。

 わたしたちのロットは革命端末の自動工場を侵食を食い止めた。キッチンカウンターの影に身を渦巻く煙に目を凝らす。聞こえる爆音に交じった音の向こうに足音を捉える。わたしは行動の意味をかんがえない。彼らの行為の緊迫を考えない。その日の苛立ちを考えない。人を理解しない。反応する記憶が引き金と照準を動かしている。室内を踏む外履きのブーツの底は、わたしの毎日を踏み潰している。室内通信アンテナが壊れ外装が粉々になる。血と火薬の匂いを知っている。受け取った記憶はそれに鼓動を高め、わたしはそれを嫌悪する。


一人、顔をベールで覆った男だけを残し、彼らは命を落としている。わたしは傷を負っている。太ももの血を拭う。傷は塞がって、乾いた桃色をしている。男の身元の検索結果を確かめる。柊、と名前が返ってくる。ひび割れた壁に背中を預けて両足を投げ出している柊は上目を細くして小さくうなずく。

「あなた達が監禁しているインテグレータに用事がある」

「女は渡す。そのつもりで来た」

わたしは頷く。

「わたしの家を壊した。郵便配達人も怪我をしている。穏便にしてほしかった。どうして」

「単純な裏切りだな・・・俺の筋書きとは別だ」

柊は首筋を撫で、苦痛に顔を歪ませる。左手で擦った頬は埃が落ちて白くなっている。

「歌うたいの本質は苦痛だ。自分を嫌うことの苦しみ。その嫌悪こそが恍惚の正体だ。自分を取り囲む世界から目を背け自らの内側に閉じこもる。この世を捨てる自らを肯定し、共感するのがあの女の歌だ」

「それが、あなたの商売」

「いいや。そんな幸せは捨てるさ。お前がそのチャンスだな」

柊は膝をついて体を起こす。

「好きにしろ、気が済んだろ」

柊が背をむける。左脚をひきづっている。途中、いくつかの遺体を目で確かめている。割り込み記憶を素に戻す。柊の背中が俯きながら遠くなっていく。


 灰色のセダンの助手席で彼女は肩を縮めている。窓ガラスの泥汚れの向こうでうつむき、指の爪の汚れを確かめている。ノックをすると眉根をしかめる。ドアをあけてはくれない。あきらめて、ガラスを割る。彼女の肩をゆさぶる。口をすぼめるだけで返事をしない。抱きかかえても抵抗はせずに大人しく首に手を回す。手足が冷たく、鈍い呼気は暑い。

 1時間と少しで、後片付けがすむ。郵便配達人はだめだった。柊の責任、けれどインテグレータに法的な保護はない。歌姫をベットで休ませる。人権教会のアーリアから気候局に話を通してもらいその日の大宮北の天候を調整してもらう。壊れたドアと窓をそのままにしソファーで目を閉じる。

 柊の正体がわかる。翌日、送られてきたその記憶は、歌うたいの薬を開発主任の記憶だ。実験中に何人ものインテグレータが犠牲になる。その理由を確かめようと彼は自分自身を実験に使う。柊は彼の成果を手に入れる。記憶の最後にリンク情報があり、柊からのメッセージがある。

ー出来のいい弟だった。親父も母親も屑だったのに。裏稼業とも無縁な場所でいた。死を選ぶ理屈はなかったー

歌うたいの薬は弟の望みを叶える。壁の向こうにある絶望を前にもがく意味のない現実を肯定する。

柊はその薬がしのぎになっていること知ったのは、わたしがうろうろするようになってから。ほんの数日前のこと。


紀伊が午後の講演を調整する。歌姫の歌をわたしは聞く必要はない。

「いいえ、あなたにも聞いてもらいたいの」

璃々穂は歌姫を届けたホールでほほ笑む。若々しい肌に歌い終えた疲労を抱えた声がしわがれている。

その一時の不調を恥じて隠そうと、璃々穂は歌姫の小さな頭を撫でる。細い、汚れた髪が乱れる。

「わたしには歌はわからない。人には危険な歌」

「薬と一緒になって、効果がでるのでしょう?気にしないわよ、そんな偽物」

璃々穂は歌姫のやせ細った体を抱き、耳元でなにかささやく。わたしには聞こえない。紀伊が13時から45分間だけ時間をあける。歌姫の背中を叩く。

「約束は果たしてもらうわ。あの子の声も、姿も、歌もいらないわ。消してしまってね」

言い残した璃々穂は紀伊の小走りで追う。

 歌姫の公演が始まるまでの間、わたしは横河に通話をつなぐ。インテグレータを殺すことは犯罪にはならない。人殺し、には認定されるが保護はない。これまでも、やってきたことだろう。横河の声には煙草の煙がまじっている。バカンスで回復ができる病。煙草の健康被害は叫ばれなくなった。

「記憶をもってる。何人も、何体も命をうばってきた。いい気分の時もあった。今は違う」

「アーリアの管轄だ。俺はただのブローカーだ。お前と祥子と同じ仕事にかかわった。それも昔のことだ」

わたしは息をのみ、言葉を無くしてから通話を切る。昔のこと。ずっと昔の。


掃除管理人が控え、消臭業者の到着の連絡が紀伊に入る。スポットライトは全開で歌姫の姿は光に切り抜かれて白く、陰影を無くしている。

「ほら座って、一曲だけの間よ。一緒にききましょう」

璃々穂が自分の席の隣を叩く。わたしはうなずき、コートを裾をおさえて身をすくめて座る。

歌姫は翠色の目を伏せて、息を食うよう顎をあげる。偽物の太陽への不満と南風に笑えない自分を卑下するせき詩をこぼす彼女の声にわたしは目を閉じる。この世のあぶれ者をが脚を震わせて立ち尽くしている。インテグレータを唄った歌に聞こえる。わたしの左手に璃々穂の手が重なる。かすかな身の震えと身体の底で老いた神経を感じる。いくつも感覚を覚えて無感動を受け入れた冷静な態度の向こうに体温が隠れている。璃々穂の横顔を確かめる。細い涙を流している。歌い終わって、膝をつく歌姫の肩をステージ上がった紀伊が抑える。荒い息をしている。軽い咳のあとに、血痰がこぼれる。わたしは紀伊から受け取った護身銃のトリガーを上げる。危険だから、と紀伊を下がらせてわたしはうずくまった彼女を抱きとめる。心臓の位置を確かめて引き金を絞る。


「完璧ね。これでわたしの歌を嫌うものどこにもいなくなったのね。ねえ、わたしの歌も聞いていきなさいね。これも仕事のうちにしてあげるから」

掃除は10分で済み、午後の開園の時間が告知される。元通りになったステージに璃々穂が歩いてく。緑の光線が舞い、璃々穂を影にする。わたしはうつむき、その姿を上目で確かめる。星明りと未来への希望を歌っている。わたしは目を閉じている。一つの魅力もない、胸を打つ完全な歌に耳を傾ける。
























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