2. List=[] #記憶
意図を聞かれたらわたしはどこから説明したらいいだろう。この行動の意味を尋ねられたら?
ずっと昔、時間障壁の駆動する以前まで遡ればいいのか。嘉陽との大陸間戦争の過程で変化していった模造人の歴史から。それともヤツフサ帝国の消滅の原因となる弾道弾の炸裂から。その歴史は、わたしには重要な過去だけれど人間にはどうだろう。わたしのこの趣味は理解されるだろうか。こうしてわたしの意志をつくった捨てられた記憶の塊をノートに書き連ねるこの行動と成果に。鉛筆の黒鉛で汚れたわたしの手元は。
大宮北の小屋に一人きり。壁紙は新しくした。孤立しているわけではない。人権協会との付き合いも長いし、横河とのエージェント契約も長い。偽装天面を日が滑っていく。夕暮れが声を低くして歩んでいる。
ドローンが神奈川東からの配送をもって空に点を打っている。老朽化した道路を修繕をやめて輸送は飛行機械に頼っている。与えられた街で、人々は与えられた自由を味わっている。時間障壁の外に待つ真空崩壊の波を防ぐ手立てを探しながら。
いつの間にか寝入ってしまって、ベルの音で目を覚ます。日暮れの影に郵便配達が一人手紙を手に手持ちぶたさでいる。横河は通常の依頼には郵便配達人をつかう。ドローンもつかわず、インテグレータを一人、それ専門に雇って仕事をまわしている。偏屈なのはわたしだけじゃない。”記憶”の買取りをめぐる犯罪に対処は人間の警察組織だけでは対応が難しい。記憶唖と呼ばれる渇望に駆られる人々が起こす犯罪に駆り出されるはわたしたち、前時代のインテグレータたちだ。記憶を書き込む通信ポートが生体に組み込まれたわたしたちは、この仕事に都合がいい。人の記憶の消去と保存は簡単だ。難しいのは書き込みのほうで既存の記憶との整合性が取れずに分裂してしまう危険性があった。現在では、記憶の書き込みは禁止されている。インテグレータはあらかじめ基礎人格を遺伝情報に組み込むことでその問題を解消している。
時間障壁が稼働してからの、戦争時期の復帰計画の計算表にわたしたちは勘定にいれてあった。初期は頑丈な肉体労働者として。バカンスが始ってからは、記憶犯罪の対処のために。戦争のために用意されたしなやかな体。それを駆動する記憶。そのセットがインテグレータだ。
手紙を手渡した彼が首をかしげてほほ笑む。彼もインテグレータで、わたしとは違う欲望におぼれている。とろけるような笑顔ではにかむ。それは、彼に恋する兵士を生むために用意されている。媚態を演じ、愛されるための努力をおこたらない。
「よかったら。聞かせてください。どんな事件の依頼なんです」
彼は郵便鞄についた塵をそっと払って目を細める。わたしは小さくうなずいて、彼を招き入れる。
依頼人は市原絹。金剛石のネックレスを大切にしている。大昔、ヤツフサ帝国の大正時代のものでずっと大切にしてきたという。”大切だ”という記憶は捨てずに、今日まで生きてきたという。バカンスも数回を超え、記憶の容量の残り少なくなっている。この”大切だ”と感ずる記憶を消すか迷っている。
ーなぜこれを大切にしている。大切にしているわけは?ー
自分なりに売却記憶のリストをたどり、業者を辿ったが買い取ったインテグレータは戦死したという。
「諦めきれないから、探してほしいって」
わたしは手紙を閉じてテーブルに乗せる。
「望みはないんじゃないですか?記録に残っていないのですから」
「横河は別の考えみたい。行政の記録の中でもインテグレータに関する文書はいい加減だから」
天窓を雲の幻が消えていく。美しく作られた郵便配達員の名前をわたしはしらない。インテグレータに名前が付ける風習が出来たのは、人権協会が出来てからのこと。それまで、わたしたちに名前はなかった。
「無くなった記憶の補間はわたしの仕事じゃない。死んでるなら断るけれど」
念を入れるために、わたしは横河に通話をつなぐ。
「神奈川制御権騒乱の犠牲者だと記録されている。だが、生きてるって情報はある」
「どういう理屈?そんな偽装って意味がないわ」
「インテグレータだからだろ。人権協会には都合が悪いことが起こった。こいつは戦いをやめられなくなった。大宮の大断絶帯で革命端末とやり合っているんだと」
「断絶帯で・・・戦いが好きでも場所がよくない」
「興味あるだろこいつの記憶に。妄信はインテグレータの性質だ」
見透かされてつま先がいら立つ。組んだ足先のスリッパがずれて、左手で戻す。
戦後省の仕事は人造知能が続けている。神奈川以北との騒乱続きだった数年前は人間の管理者が頑張っていたがそれも落ち着いた。大宮断絶帯は、外の時間と時間障壁の内側の時間の歪みを調整するために設けられている。鴻巣から大宮にかけたその土地に時間に歪が集積している。崩壊を防ぐための知恵を絞る時間稼ぎをこの場所が引き受けている。
だが、その意思は長い時間のうちに忘れ去れている。自動戦争が断絶帯の間で続き、とらわれた革命端末と取り残されたインテグレータ戦いを続けている。断絶体に入るには、時間断絶を実現した祥子さんのアルゴリズムに従って移動経路をたどる必要がある。それを管理しているのが戦後省だ。経路の検索を待つ間に、わたしは人造知能と言葉をかわす。
「依頼者さんはなんの記憶をさがしているんです?」
「大切なアクセサリの記憶。どうしてその指輪を大事にしているか理由がわからないって」
「人には、心を動かすのに何かを理由がいるものですか?私たちは、いつもで理由なく情熱を」
「そういう風にもできるでしょ。わたしだって知らない」
記憶に妄執するわたしの行動にも理由はない。リストをつくって、中身を傍観するわたしを祥子さはからかって笑っていた。
大宮北の小屋に一人きり。壁紙は新しくした。孤立しているわけではない。人権協会との付き合いも長いし、横河とのエージェント契約も長い。偽装天面を日が滑っていく。夕暮れが声を低くして歩んでいる。
ドローンが神奈川東からの配送をもって空に点を打つ。老朽化した道路を修繕をやめて輸送は飛行機械に頼っている。与えられた街で、人々は与えられた自由を味わっている。時間障壁の外に待つ真空崩壊の波を防ぐ手立てを探しながら。
ごめん、と謝ってからむっとされた。代書屋の関口はインテグレータがかかわるあれこれを記事にして暮らしている人間だ。インテグレータには表現の自由は認められていない。代わりにあれこれと代書屋が表にしてくれる。商売としては継続しているけれど、今となっては真偽不明な情報を垂れ流すメディアとして成立している。
「まだ依頼を受けてすぐ。始めたばっかり」
言い訳をすると関口は乱れた髪の分け目に指を通す。
「”大切にする理由”か。断絶帯のほうが興味があるな。悪い情報を待ってるぜ」
「いいも悪いも人の仕事でしょ?わたしにはわからない」
「俺達はさ期待を確かめたいのさ。絶望か希望か。絶望の予想を補強してやるのが、儲かるもんだ。ついでに、もうひとつたのむ」
「なにがさ」
わたしは彼に背をむけて、玄関の取っ手に指をのせる。鍵が小声でわたし挨拶する。
「その記憶がわかったら真偽を疑ってくれ。思い出が作り物だったら、愉快だぜ」
気が向いたらと応えてわたしは扉を閉じる。
螺旋軸と直交軸の写像時間単位をたどって移動する二連結列車で彼が送られた北元駅に降りる。専門大学近くの下宿街には原子砂が赤く積もっている。戦後省にもらった地図を確かめながら歩いていると自立装甲車が止まり、どうも、と挨拶を交わす。よく一緒に戦線を組んだ製品だ。霞んだ企業ロゴのアルファベットを撫でると、赤い砂の粒が肌に淡く刺さる。
「桐原、とい名前がついた個体。探している」
「すいません、わかりません。しかし、時間壁の突端にいるでしょうか。あなた達はいつも前線にいきたがった。よかったら、わたし地図を共有します」
ありがとう、と頷いて受け取った詳細地図を時間軸に沿ってたどる。同じ軸単位をはずれないように。
並走する自立戦闘車が大宮の近況を尋ねる。特に言う事はない。
「こことは、時間的には1990年の差があるです。新兵器もあるでしょう」
「限られた人数でいるんだから」
口を噤む。人は破滅の脅威の対処を諦めている。残り時間のあまりの長さを理由に。いいえ、確実な私達に迫っている時間障壁の向こう破滅を理由に淡く絶望している。
「期待するほどの成果なんてない」
応えたそのとき、銃声が破裂する。慣れた動きで自立戦闘車が斜線を遮る。
「センサを共有します。生データで大丈夫です?」
「大丈夫、判別できる」
革命端末は4脚の小型で大陸渡航のコストとのバランス型。姑息な手は使わないし、オーソドックスな包囲線を繰り返す。銃弾を自立装甲車データから動作を割り出す。遠い記憶。インテグレータからは消えない戦い方の記憶。そのために、私達には記憶の領域が実装されている。外階段で二体と屋上から二体を破壊したところで、戦闘車の投擲弾で部隊は撤退する。
「工場は時間障壁の外です。革命端末は増えはしないのですから修理して戦闘を続けてきます」
戦闘車が礼を言って銃口をしまう。
「久しぶりにあなた達と一緒に戦えてよかった」
「桐原を探しに来たついでなの。感謝される筋合いはない」
わたしは受け取った地図のデータを広げる。
「彼がいきそうなところは?」
「予想ですが。医者を尋ねるでしょうか。あなた達インテグレータは怪我をしますから」
地図上の一点が光る。時間軸にそった道筋が示させる。軸が一致する夜明けを待たなくてはない。
焚火を焚いて取り留めもない夜を戦闘車と続ける。彼の名前を考える。Prompt と名付けると不満げでいる。夜明け前に、Emu -t と決める。
「しっくりきます。ずっと昔に、そう呼ばれていた時があったような」
「良かった」
そう応えて、わたしは地図データを開く。
半地下の商店街の跡を進み、割れた看板の残るスナックの奥からさらに地下倉庫へ進む。声の凍る鉄筋の一室に医師は、スタンドライトをつけたまま眠っている。手元には古い文庫本が裏返してある。人を狩る趣味の犯罪者が出てくる推理小説。わたしはその緑の背表紙を確かめる。医者が目を覚まして、乱れた頭髪を整える。
「治療か?」
医者は書棚のガラスに映った自分の影を確かめている。
「人を探しに。推名さんっていう。インテグレータ」
応えたわたしに、医師は椅子に座るように促す。
「いいや、少し待つことになるだろうしな。あいつらが連れてくるまでに」
「連れてくる?誰かが怪我人を運ぶの?」
自立戦闘車か?彼らには救護の意識はない。残存戦力の計算と円滑な協力、連携する選択が優先される。地下のこの場所に、運び入れることもできない。
「革命端末さ。あいつらには敵が必要なんだ。破壊の実績を積まなくては。廃棄本能が駆動して工場へ還ってしまう。時間障壁の外で消滅さ。敵に生きていてもらわないとな」
医師はそういってあらためて待つように促す。わたしは頷き、脚の低い椅子に腰を落とし背を丸める。
「ここは戦争が続いているんだ。引き延ばされた時間の中でな」
男の指は骨ばって、肌が薄い。大宮以北では無くなった、明確な老いとシミが時間を恨んでいる。
「逃げだすことができないならな。保たなくてはならない。革命端末に限らない。ここのインテグレータも・・・それに」
医師が差し出したコップをうけとり、くちを着けずに書棚の淵に置く。医師は疲労した微笑みをうかべて一つ息を吐く。
「・・・それにな。俺も同じだ。ここで修理をするインテグレータがいなくなると困るんだよ」
貧乏ゆすりを続けた医者の脚が意図をもって動作する。わたしはその行動の意味を考えながら、折れた椅子の脚の上でバランスを崩し、床に膝をつく。医師の立ち上がった影が上から降ってくる。記憶端子のある首筋に影の手がのびる。
「お前もここで戦うんだよ」
膝の痛感としぼんだ肺が古い時代の暴力を再現する。長い時間がすぎた。人は若返る道を選んだ。わたしたちはただ、長く壊れないでいる。わたしたちは暴力を忘れないでいる。腕を振ったあとには、医師は薬棚を壊して息を詰めている。
「ごめんなさい。ずいぶん時間がすぎたから。わたしたちは人を損なうこともできるようになっていて」
わたしは医師を助け起こす。治療ベットに腰を下ろし、彼は書棚のガラスで切った腕の傷を汚れた布で拭っている。そうして止血が終わると、医師は背を向けてベットで寝息を立てる。
うす暗い血のシミの浮いたカーテンの向こうにキッチンがあった。乾いたバケットと固いベーコンでサンドイッチを仕立て、持ってきた紅茶をたてる。路地栽培の茶葉は、どれだけ時間がすぎても上等な味はしない。医師を起こす。医師はああ、と応えて目の下の隈をひっぱるようにし顔を掻く。
「俺に構わなくても、革命端末が推名を運んで来るぞ」
「いくつか・・・わたし記憶は受け取っていて。あなたの記憶も持っているの。あなたがわたしをつくった」
医師は顔を上げる。血管が土産をねだる子供のように眼球に手を広げている。
「わたしたちは、買い取った記憶でつくられていた。北鴻巣にわたしたちのインストール施設があったから。記憶が買い取られて。バカンスは始ったばかりだったけれど」
「お前には大昔か。俺には・・・10年もたたないな。偶然か?」
「最初のころの製造には記憶がたくさん必要だったから。あなたの記憶はひどい。けれど」
セクハラがひどくて、看護師が何人もやめた。自動戦争の戦線がここに迫る中、疎開をする人たちもおおかった。
「あなたは、怪我人を救った。記憶が残っている。撃たれた妊婦の子供と母を救った」
「それがどうした。医者だったんだ。当たり前だろう」
「いいえ。その救った子と母の記憶もわたしに」
わたしは礼をいうタイミングを無くして、食器をかたずける。蛇口から薄れた思い出ように細く水が流れる。
推名は傷を負っている。傷が吐いた血が汚れたシャツを濡らしている。革命端末ベットの上に彼を乗せ、金属の4つ脚を鳴らして階段を登っていく。
「朝まで持たんな、首の傷が深い。革命端末がやりすぎたな・・・」
医師が昇圧剤を投与し、バイタルモニタのセンサを手首に巻いていく。
「落ち着くまではわからんが。お前も手伝え」
棚の薬剤瓶を揃えて処置台にのせる。医師は推名の目を確かめている。
「依頼があるから。記憶を受け取ることは?」
「瀬戸際だ。あとにしろ。手は尽くすんだ」
推名は夜半過ぎに意識を取り戻す。医師の名札をその時に初めて確かめる。わたしの記憶の一部を担う名前。姿と感覚の違う過去が今の体を否定し胸が締め付けられる。インテグレータ特有の思い出の痛み、と言われている。それが本当か、わたしにはわからない。杉尾、その名前をこの先引き連れて過去を思い返す。疲労して、机に肘をつき、うなだれている。たるんだ下瞼に染みが赤黒い肌で瞬いてる。
「なあ、俺たちは頑丈だな」
推名が深く長い息のあとに薄目をあける。わたしは短く頭をさげる。見分けがつかなくても、わたしたちは匂いで互いがインテグレータだとわかる。人造の血と体臭が人と私たちとわけている。
「大宮以北のやつだな。記憶関連の仕事を請け負っている。ネリと言ったか。何の用だ」
「あなたの記憶に用がある。依頼人が売った記憶。ある指輪を依頼人は大切にしていた。そのわけを思い出したいと。あなたの記憶にある。引き渡してほしい」
推名の会話を横目に、杉尾医師は貧乏ゆすりをはじめる。
「朝まで持たない、意識が戻したのは・・・貴様のためじゃない。・・・言い残すことぐらいは俺や・・・革命端末たちに残していいだろう。そう思ったからだ」
「いいんだ、杉尾先生。俺は。向こう見ずに戦うのが俺たちだったはずだ」
長い息のあとで、推名は胸に手をのせる。痛みも感じなくなった、と続ける。
「記憶はお前にはやれない、悪いな」
推名は左手をでこに乗せて目を隠す。
「それならば。教えてどうして、その指輪を大切にしていたの。話してほしい」
尋ねると蛍光灯が短く周波数で音をたてる。偽物の思い出が知っている音がする。
推名は夜明けとともに体を起こす。杉尾に痛み止めを要求し、数時間でいいから動けるように交渉する。
革命端末を最後までやるから、と言ってにやにやとしている。
「なぜ戦うの?あなたの記憶がそういう性質なの?」
「違うな。俺の本心さ。他人の考えで育って、他人の記憶で体の動きを動かすのがインテグレータだ。だが、これは俺の意思だ。他人ではない、俺自身がここで生きた結果を選ぶんだ」
「自動戦争には、もう意味がないのに?」
尋ねると推名は靴の紐を強く縛ってくれ、とわたしに応える。詰問しているようにしていたこと気が付く。わたしの趣味のせい。わたしの事態の意志のせい。
「ごめんなさい」
「いいんだ、すまないな」
推名はそう言って、血の乾いたコートを羽織ると階段を登っていく。悪い歯に触って神経が痛むような足音を立てて、遠ざかっていく。
時間の写像軸をたどって、鴻巣から大宮以北に戻る。設定どおりの時間に戻っても、三か月が過ぎている。偽装天面の季節は晩夏に差し掛かっている。天井の夜は青みを増している。代書屋の関口に連絡をとって、市原絹の住所を確かめる。面会の許可を得ようと横河につなぐ。
「病人だ、バカンスはもう十分だそうだ。死にかけに会いたいか?」
「わたしの記憶にはそんな経験がたくさん。消したい記憶なんて」
わかった、と横河が遮って通話を切る。
駅前のマンションの一室に暮らす市原絹は、介助ベットに横たわって眠たそうに眼を擦っている。
「苦痛を無くす治療もあるが。断ったよ。今はこの苦しみから解放を望むばかりさ」
「まだ、理由を知りたいですか?指輪を大切に思うわけを」
三か月のあとは、彼に長かったのだろうか。命を再生する手段を持った彼は何度も人生を生きた。そのたびにいくつかの記憶を捨てて。誰でもそうしている。
「解放を待つ身だ。だが、その考えはバカンスを選ぶ誰とも変わらんよ。どうせ、大宮の外には破滅が待っているんだ。将来なんぞ、暗がりをわかってしまって諦めた後には望むことはできない。あとは惰性で生きただけだ」
市原はベットの上で体を起こす。荒い息と咳を検知したセンサーがネットワークに危険予測数値を流す。
手にとった指輪の金の輪を撫でる。
「聞かせてくれ」
「その指輪はあなたが手に入れたもの。あなたの奥さんへの贈り物よ。前のバカンスがすんだ時期に、お互いに別れてる」
「別れたから、わたしは記憶を売ったのか?妻のことは覚えている」
市原は上着の襟を整える。鎖骨を包む肌の皺に電灯の光が照っている。
「とても大切にしていたの。けれど、あなたが盗んだもの。盗品よ。とても高価な。18金と天然ダイヤモンドなの。大宮以北から神奈川までしかないこの障壁の中では二度と手にできないもの」
市原は眉を顰める。わたしは推名の声のトーンを思い出す。罪悪感を捨てた。その罪悪感が、彼を支えた。戦う理由を作った。わたしはそう理解した。推名には伝えなかった。
「盗まれた彼はそれがもとで、自殺したわ。担保に融資を受けていたの。事業がたちいかなくなって、バカンスを受ける資金も失った。あなたは、妻との大切な思い出は残したかった。けれど、罪はわすれたかった。だから、記憶を捨てた。容量の削減の際に経緯が繋がらなった。奥さんとの思い出も整理しているから、大切だとだけ残ったのね」
「償いは?彼が死んだ分、誕生が許された命があるはずだ。探せるか?」
「わからない。けれど、償いなら続けている。その記憶を受け取ったインテグレータが。あなたの罪の記憶を大切にしている」
推名はわたしに記憶を渡さなかった。市原はああ、と低くうなずく。
部屋で記憶のリストの整理を続ける。関口の宿題は放置する。記憶を捨てた”なぜ”の理由をまとめていく。それが、わたしの記憶唖。わたしの執着。電気を切ったとき、通話通知が鳴る。ブローカーの横河から分け前の相談が入る。
「鴻巣までの時間軸の通行料。それに、何日か分の宿泊費と食費。残りはあなたに任せる」
わたしが応えると彼はしばらくだまりこみ、処理が済んだ、と言って通話を切る。
電灯を切った沈黙が通話後の時間に折り重なって、わたしは目を閉じる。瞼の裏の神経が揺らめいている。