1. 記憶の記録
午後の遅い時間に連絡が入る。先生から。200年より少したった。枯れたアケビのツタを片付けを中断する。時間障壁の振動のうるさい外から家に戻って通話をつなぐ。
「久しいな、ネリ。教え子として協力をしてくれないか。コーヒーの記憶だ。マニアのものが欲しい?」
「いいえ。特段においしくはないものです、捨てる人は多かったけれど。ありきたりな、悪い記憶しか」
「そうか・・・では、俺が捨てた記憶を探してほしい」
「そんな趣味、あったんです?いつごろのことです」
わたしは灰色のソファーに背中を預ける。先生よりも古い毎日が背筋を包み込む。わたしに仕事のイロハを教えてくれた。3度目の”バカンス”を期に脚をあらって、劇団を立ち上げた。
「苦い水を飲んで喜ぶ人生なんざ、ずっと前に捨てたさ。だがすこしばかり必要にもなってな。遠い時代の劇をやる。老骨の恋の話だ。俺はちょうど4度目の時期の最後、老人だからな」
詳細を聞いて、通話を切る。売り先も忘れてしまったと、言い残す。沈黙が窓の内側を撫でている。一つ仕事ができた。エージェントに連絡を入れて、夕暮れを確かめる。
「もっと刺激的で体を整えるものがそろってるからな」
エージェントの横河が応える。わたしに依頼をもってくるついでに、わたしの趣味に付き合っている。
横河はエージェントを生業にする以前は、記憶の整理屋をやっていた。わたしのこだわりに付きあってもさほど苦ではない、と言う。
「人権教会に聞いてみるから。しばらく仕事は回さないでもらえれば」
「わがままだ。急な要件は聞いてもらうが。短時間で済ませろ。伊ケ崎に会って話せ。恩師だろ」
そうする、と応えてからわたしは先生の自宅を探す。大宮南の中央だ。
先生の自宅は劇場と一緒になっている。バーカウンターと舞台が一階。古い照明を吊った鉄骨の下、屋根裏に先生は寝床を敷いている。
「わざわざ顔を見せにきたか。劇を見てほしいところだが」
「物語にあまり興味をもてなくて。インテグレータの記憶にはそういう余技は含まれたいなかったせいかな」
「だが今回の劇はきっとよくなる。”配慮”と善意のはなしだ」
布団を丸めた先生は、同じく曲がった背のまま咳をする。白髪を細い腕がなでる。
配慮が善意に先行して長い。心を置き去りに、争いを避けるすべだ。この閉ざされた時間障壁内・・・大宮以南から神奈川以北まで領域でいきる人類には必須の社会通念だった。親愛と演じ、思いやりを張り付けるモラルを人類は手に入れた。
「しかし、心なき言葉に何の意味がある」
先生がテーブルに腰を下ろし、炭酸水の瓶を煽る。
「老人の戯言でしょう?再生すれば、消える悩みです」
「そうさ。だからこそ、俺の古い記憶が必要だ。俺が本当の老人だった時期の・・・誰かと一緒におれは苦い水を楽しんだ」
「付き合いのある記憶管理会社を教えてもらおうと思って。近場でしょう?」
街に出たついでに事務所に出向けば直近の廃棄記憶は探ってもらえる。光の届かない屋根裏に隙間風が吹いて、わたしは雪の気配を感じる。
「かまわないが、まともには取り合ってはくれんぞ。代理店だ」
実際、収穫はなかった。細いカウンターの向こうで唖然と口をあけてデータを探す店員はよだれを拭く時だけわたしに会釈してあとは沈黙していた。けれど、売りての人間が相談するのと客のインテグレータの訪問とでは得られる情報に差は出てくる。
「ああ、伊ヶ崎さん。このところ、物忘れがひどいみたいですよ。だから、古い記憶にこだわってるんじゃないですか?捨てた記憶と忘れた記憶の区別がなくなってきてるんですよ。もっとも、人類は記憶のインポートはできませんがね」
わたしは曖昧に頷く。記憶をロードできるのは、その端子を設計に組み込んだ模造人、インテグレータに限られている。
「でも、伊ヶ崎さんの劇、好きですよ。善の種類がテーマで次の演目を」
店員はゆっくりと続ける。ティッシュペーパーを片付けてる。
「演劇のことはわからない。わたしには仕事を教えてくれた恩師だから」
「そういう経験が元になっているんだそうです。みんな、配慮して微笑んで善行だって積むんです。でも心は伴わない。本当の善意を見極めないと偽物に埋もれてしまうって。お弟子さんたちは、みんな善意をう持っていたんだと」
「・・・先生はおしゃべりになったのね。手筈が整えばいいでしょう?」
「伊ケ崎さんは違うみたいですね」
よだれを拭いたティシュを片付けた店員が、契約書の約款をカウンターに広げる。
「精神衛生のために限られます、売り先の伊ケ崎さんの記憶の卸先です」
リストをダウンロードする間のわずかなこめかみの圧迫と熱感に、わたしは目を閉じ店員に会釈する。
通りでタクシーを待つ間に、ニュース入る。Goodthingたちのテロ事件の影響で交通規制が入るという。続けて、エージェントの横河から通信がはいる。緊急のマークが視界の端で明滅している。吹き出物が浮くように。
「主犯が面会を求めている。危険が伴う。人というわけにはいかない」
旧駅の北口と待ち合わせ場所を伝えて、通話を切る。
移動の間、死亡者のリストが転送されてくる。限られた領域内の人口は調整されている。死者はこの時代、こういった事件でしか生まれない。スクロールして空白を確かめる。次の世代の誕生予約が埋まっていく。傷を隠す血の流れと同じように。
横河と合流して小さく頭をさげる。顔を直接見ると人なりの疲れが肌に浮いている。横河は何度バカンスを経験しても、中年の容姿のままでいる。もともとは科学者だと聞いている。
「犠牲者の共通点はわたしにはわかりません。横河さんは」
「悲しみの共有人格の稼働している。遺族ロビーに犠牲者の親族が集合している。ネリの参加は人権教会経由で認めさせた。経歴を偽装して調整するから主犯とのやりとりに備えてくれ」
横河はタクシーの快適速度の設定を調整している。
「適切な思想を見極めなんて。わたしが出来たことありますか。遺族の気持ちだってわからない」
「テロリズムの扱いだって、形式があるんだよ。印象を記録してくれればいい。時間開放教団の政治圧力は無視できもしない」
シートに背中を預けた横河はそのやつれた頬に爪をたてる。
車座に並んだ椅子に肩を落とした遺族たちの輪に紛れこみ、膝の上で手をあわせる。心理共有補助人格がどこにいるのか、参加者には隠蔽されている。記者とわたし、それに教団の職員には開示されている。同情と緩和を適切に促すうちに、人々はおちついていく。長く生きて飽和した人生は、その終わりを受け入れる知恵を身に着けている。
「犯行声明はでていますし、弁明にも応じるんです。判決にも時間はかかりませんし」
共有補助人格が促す。
「生ぬるいんですよ。だって、死刑にしたって。マイナス人員には数えられるんでしょ?」
長い髪を指ですいていた女性が唇をすぼめる。
「それも考えものです。人口の調整は必要ですから、死の選択と誕生はバランスを取らなくてはいけません。しかし、犯罪者のマイナス人員と引き換えの誕生は記録としては・・・いやな思いをしますよ」
「引き換えの情報流出は止めれないですからね。赤ん坊を作る側は気にしますね」
思い思いの発言を続けるうちに、共有補助人格の誘導で被害者たちは緩慢な社会批判に飽きて席を立つ。
そのころには、死を受け入れている。残響が消えるように遺族ロビーから一人、また一人と去っていき最後にわたしと共有補助人格がのこる。
「お疲れ様でした、記録は必要ですか?」
共有補助人格がほほ笑む。中年女性の姿をした彼女の目元のシミがゆがむ。
「ありがとうございます」
わたしは小さく会釈をしてデータを受け取る。この時のためだけに生まれた人格へのかすかな好感を覚えておくために。データを開くことはない。
「33人が犠牲を受け入れました。1人は何の感情もわかない、と」
横河に伝える。横河はタクシーのシートに背中を離しフロントガラスの汚れを爪で擦る。遠い昔の人の唾のあと。
「仕事を控えてもらう約束です」
「俺にとっちゃ、緊急な事件だったんだよ」
雨が降っている。ありふれた事件は排水溝に流れる雨水ににている。横河はテロリズムを嫌っている。
死の珍しさに色気だつ人々とは別のところで肩を落としている。
主犯の目的もありきたりなものだった。時間解放教団の教義に従っただけだと。政治見解では、その解釈は誤解とされている。わたしたは同情心を見せ、インテグレータだと気づかれる。汚れたシャツの襟をいじった若い男は短く笑い、立ち上がる。
「時間障壁前の時代の模造人だろ。仲間と一緒に死ぬのが本望じゃなかったのか。ここで殺しても、いいだよな・・・」
ちらちらとあたりを見回す。
「それはそうです。わたしたちは、人ではない。人権委員会の活動で生きる権利はあたられています。けれど、殺人罪には問われない。命の総量に数えられていない」
おお、と男は応えてわたしの首に手を伸ばす。首を絞められている間に判決がきまり、彼の釈放がきまる。廊下の長椅子で少しの間、息を整える。
先生は主犯の意図をもっと詳しく聞きたがる。釈放された、と伝える。
「コーヒーの記憶を探すほうが先です」
わたしは先生に応える。声がすこしの疲労で乾いている。
「いいや。犠牲者の話だ。俺の知り合いがいた」
一階の舞台を見下ろす木製の手すりが軋む。けば立ったとげが人差し指にふれる。
「劇の話だ。そのために、俺は劇と作りたかった。その方法を模索していた。そのときやりたかったのは生徒に暴力を振るう教師の話だ。お前の孫弟子にあたる男、樋橋という若い男だ。撲って育てようとしたそいつは、自らの命を絶とうとした」
「亡くなったんです?」
わたしはコートの前を合わせる。襟から雨の匂いがする。
「生き残ったさ。一度目の再生もしていない古い時代の話。俺は泣いて謝罪して・・・受け入れられた。だが、それまでだ。俺は涙を流しながら、そのシーンをやりたかっただけだとわかった」
「樋橋さん・・・が犠牲になったんですか?」
「そうだ。あっけない。劇には来てくれた。時々だが。コーヒーを教えてやりたかったな」
「探します、急いで」
わたしは応えて、テーブルの苦い水に口をつける。味がしない。