1 「理想」の不在証明
「甘蔗くん。職場体験ってさ、やったことある?」
君月が言うまで、相談所は珍しく静けさに包まれていた。
藪から棒な質問にユユは作業の手を止め、ちょうどしょぼしょぼしてきた目をパソコンから離す。静かだったというだけあって、決して捗っていたわけではない。打鍵音はとっくに途切れていた。
ユユは背もたれ越しに首だけを捻って後ろを見やり、
「中学で行くやつです? ならありますけど」
「お、よかった。どこ行ったんだい」
「ユユはペットショップ行きましたー。シャンプーしたり掃除したり、思ってたより大変だったんですけど、もうとにかくかわいくて! すっごい楽しかった」
思い出して、ユユは手を顔に当ててはーっとため息をついてしまう。
人懐っこい子犬が膝に乗ってきたこと。初めて触れた子猫の手触り。後から後から思い浮かんでくる。
その様子を見てか、正面の景が微笑む。
「いい思い出だったみたいですね」
「一生忘れないですもん。うちペット飼えないとこだったので」
「ちなみにだけど本郷くんは」
「くじで負けて老人ホーム」
「ははは、傑作」
君月が鼻で笑う一方で、ユユは当時を思い起こす。
『神』にババ──あくまで不人気という意味で──を引かせるとはすごいくじ引きもあったものだ。
「他は……幼稚園とかコンビニとか? 本屋さん、お花屋さん、区役所にいってた子もいました。接客系なら品出しとかレジ打ち、パンとかお弁当とか簡単なのなら作ったり、書類作ったとかも聞いたような……これで答えになってます?」
「意外と体験って言ってもしっかりしてるもんだねえ。うん、十分参考になったよ」
君月からOKサインが出た。ユユとしても、確かにいざ社会に──フリーターだが──出てみると、中学生でも意外とやらせてくれていたんだなあと思う。
なんなら、最後のはまさに今やっていることだし。ユユは先ほどからずっと書きかけのままの書類を眺めて、うんと頷いた。
──ギブ!
「ここなんて書けばいいんですかー? 景さん」
ユユの裏返したパソコンを、自身の作業を中断した景が「どこでしょう」と覗き込む。
そろそろ事務作業もできるようにと書き方を教わり、初めて一から書いた報告書だ。それを彼は一瞥すると納得したように頷く。
「ああ、今回のケースては必要ないくだりですね。それ以外はよくできていますし……結論に移ってもいいと思いますよ」
「はーいっ。じゃああとちょっと書いちゃいます」
ラストスパートにユユはふんっと気合いを入れる。自身もつい先日関わった一件だ。
いわく、どんな病気でもたちどころに治してしまうという『神』──しかし、その実態はマッチポンプだった。報告書にはばっちり病気が生まれる瞬間を捉えた写真も添付してある。
「すなわち、謳われていたような奇跡は確認されなかった。不在証明の完成、そう書いといてくれたまえ」
「なんですそれ?」
「俺はいいと思いますよ。適切かどうかは……別として」
ふざけた書き方はNGだと景に言われている。今、彼が微妙な顔をしているのがその証拠だと、君月のしたり顔をユユは自信を持って無視した。
景の渡してくれたテンプレートと例文は非常に分かりやすく、ほとんどがなぞるだけで事足りるレベル。たんっと最後の句読点をエンターキーで確定させると、ユユは「終わったーっ」と快哉を叫んだ。
「お疲れ様です。拝見しますね」景がユユのパソコンを手元に寄せる。確認を待つ間、手持ち無沙汰になったユユは報告書内の一件を思い返した。
季節は冬も終盤。二月に入りたての、ユユとしては確定申告の締め切りが気になり始める時期。
それなりに色々と見てきて思ったのは──信仰を集めたいなら、『神様』ってやっぱり随分遠回りなことをしているんじゃないかということだ。マッチポンプだとかをするよりも。
「こんなにいろんなことができるなら、願いとか望みだって簡単に叶えられそうなもんですけど」
「それだけはできないんだよ、やつらは」
ユユの独り言に君月が答えた。
「人の望みを叶えるには必ず代償がいる。これこそ、やつらが本物の神ではなく化け物たる所以だ」
ふうん、と自分で聞いたことだが気のない返事をしてしまうユユ。あんまりイメージのつかない内容だった。
スッと目の前にパソコンが差し出されたので見ると、「終わりましたよ」と景が告げた。
「そろそろ依頼人が来られる頃ですから、今日は俺の方で軽く修正したものを出しておきます。修正点はコメントを入れておいたので確認しておいてくださいね」
「う、はあい」
「もうそんな時間か。報告して無事、対象者が抜け出せたら改めてここを潰す。その話もしておかないとね」
今回の依頼は友人を教団から抜けさせること。そのための反証集めと報告書である。
先に全部まとめて退治できれば解決ではとユユは聞いたのだが、「洗脳ってのは『神』が消えたくらいじゃ終わらないんだよ」ということらしい。
返ってきた細かい添削付きの報告書を薄目で流し見て、ユユは「景さん、なんか先生みたい」と呟いた。君月が面白そうに笑う。
「へーえ。どう? 向いてるんじゃないかい」
「ご冗談を。付け焼き刃ですよ」
「けどほんとにそれっぽいです。なんかやってたりしたんですか? さっきの職場体験の話じゃないですけど」
「僕も景も行ってないよ。だから聞いたのさ」
君月の答えに景が首肯する。少し遅れて、そういえば中学校中退だとか言っていたような、とユユは気づく。だからだろうか。
ユユが黙って見ていると、ふむ、と君月が腕を組んだ。何か思いついたような顔。
「あとでアキくんもいるときにしようかと思ってたんだけど……次の依頼の話。先に聞くかい?」
「え、聞きます! 先に!」
「いいね。──とある村から奇妙な大量の求人募集があった。そんな情報提供があってね。あまりに妙な内容だから職業体験ってやつかとも思ったんだが、これもまた違いそうだ」
そう言って君月が羅列したのは、「漫画のトーン貼り」「仕込みのみ早朝勤務」「テレビ番組のケーブル巻き専門スタッフ」といった単に聞きなれないだけのものから。
「特殊含む清掃スタッフ」「遺体搬送・安置業務」「医療事故の対応に慣れている医者(無資格でも可)」──などと不穏さを感じさせる業務まで様々。
確かに、その裏の意図が何か勘ぐってしまうような内容だった。
「単に働き手を探しているというより、不自然に人を呼び込んでいると言い換えるべきか。というのも、その村には一年前にある宗教団体が集団ごと移住しているんだ」
「もしかしてそこ、村を乗っ取っちゃったとか」
「まさに。甘蔗さん、『理想郷』という名前を聞いたことはありませんか?」
ユユは首を捻る。うーんと唸りつつ記憶のタンスを大掃除して──あった。
隅の方にしまわれていたそれを引っ張り出す。
「聞いたことあります、結構有名なとこですよね? 何年か前に『夢を叶えられる』って盛り上がって、そういえばいつの間にか聞かなくなってた……」
「そうですね。以前は都内で活動していましたが、移住してからは静かなものだったかと」
夢が叶う。したいこと、やりたかったことを誰にも邪魔されずにできる。
そういう触れ込みのチラシをあちこちで見かける時期があった。
いなくなったと思いきや、拠点を移して続いていたことにユユは驚く。それに加えて、疑問が一つ芽生える。
「村丸ごとそれなら、どうやって入り込むんですか? 前みたいに関係者のふりするのは、」
「今回の依頼人はまた別口なんだ。同じ手段は難しいだろう──今がたまたま、正規の手段で入れる時期じゃなかったらね」
君月がにんまりと笑い、意味ありげに片目を瞑った。
「奇しくも同じタイミングで、彼らは一周年記念の祭りをやるそうなんだ。これまで関係者以外の立ち入りを禁じていた『理想郷』が一般公開される。この機に乗じようじゃないか」
「えー、ほんとにたまたまですか? それ」
「そこも含めて、調査というわけです」
景がまとめ、それならばとユユも納得。──いやどうだろう、うまく丸めこまれた気もする。
ただし異を唱えたところでどうなるわけでもないから、「それで、いつ行くんですか」と気になっていたことに話題を移す。
「また明日とか、急じゃないですよねー」
「これはそうでもないかな、今やってる件も先にけりつける必要があるしね。いつだっけ」
「祭りの本番は来週の土日、距離を考えると前日からの三泊四日でしょうか」
「んーーと、空けます!」
約二週間後。我ながら大して悩むこともない即答だった。「いいね」と君月の適当なグッドサインが返ってくる。
土日のどちらかには掛け持ち先のシフトが入っていた気もしないでもないが、代わりを探すことにした。今のユユにとっての比重はそんな感じだ。
「そろそろ時間です」景が自身の腕時計を見やった。「よしよし」と奥の所長椅子から君月が来客用ソファへと移動してくる。
「ああ、そうそう。ちなみに一つ忠告がある」
「え、何……?」
「今回、美曙は来られないから。護身用には替えの電池を用意しておくといいよ──アキくんに頼りたくないんならね」
一気にユユの顔の皺がむにゅっと中心に寄る。
「……なんで美曙さんいないんですかぁ」と、顔を顰めさせたもう一つの要因を避けてぼやく。実際、美曙がいないとなると相当に心許ない。シートベルトがない車に乗るような感覚だ。
それに対して君月が肩をすくめる。
「祭り系にNG出されてるんだよ。どうしようもない」
「なんですかそのNG」
「色々あるんですよ」
割と雑に話をはぐらかした景が立ち上がり、食器棚からカップやソーサーを取り出し始める。
ユユも来客前のそわそわした雰囲気に当てられ、ツインテールに乱れがないかソファに預けていた後頭部を触って確かめる。ふと訂正が必要だったことを思いだして手を止めた。
「あと、ユユのスタンガンは充電式です」
「……あ、そう」
◆
『理想郷』──一般名詞ではなく、その村はそう呼ばれる。
正式名称を名仙村。しかし公的な場面以外ではもうほとんど使われていない、いわば旧名だ。
村といっても以前関わったような僻地ではなく、都市圏の外縁部に位置している。電気とガス完備はもちろん、フリーWi-Fiもあると期間限定民泊のホームページに記載があった。
特徴はその付近にスーパーやコンビニといった店がないこと。道路によくあるはずの東京では見かけない大きさの立て看板も含めて、文字がないのだ。
ここ数分、車窓を眺めていてユユが見かけたのは「直売所」だけ。
それがどこか、異世界に迷い込んだような感覚を生み出していた。
「『理想郷』は理想の実現のほかに自給自足も掲げているからね。あの直売所はそれだろう。対外的にはむしろ、そのための地方への移住らしい」
君月が語るところによると、元々の居住者は今の住民の六割程度。残りのおよそ四割が『理想郷』関係者であるそう。
ただし。「少なくともですがね」と景が付け足したように、人口の増減で分かるのはその最低限。──一度水面にできた波紋のように信仰は広まり、信者は増えるもの。
「わざわざこんなところまで着いてくんだからガチっすよね。それに、んな大勢で行って受け入れられたって時点で怪しいもんすよ」
反対側の窓からの風景を眺めるアキが言う。なお、今日の昼頃に出発前の相談所にて久しぶりに顔をあわせたが、 その場では「レポートがない期末がない、食費も宿泊費も浮く。パシってくる姉貴もいない。完璧じゃんよ」とやけに意欲的だった。
「なんかテンション高くないです?」
「期末のない世界がどんだけ幸せか。分かるか高校生」
どうやらやっとの思いで一月を乗り越えたらしい大学生に言われたので、「ユユ、こんなにかわいいですがエセJKです」と胸を張っておいた。そうだったわ……とため息を吐かれた。多分前半の発言も無視され、なんだか釈然としない。
時間を現在に戻し、確かにそうだとユユも頷く。
以前からの住民であろうとなかろうとまずは信用しないのが吉、当たり前ではあるけど──そう考えていると、出し抜けにがたっと車が跳ねた。転石に乗り上げたのかもしれない。
不運だったのはそのとき、ユユがギターケースを正面に抱えていたことだ。
「いったい頭ぶつけた! っもう、先輩これ重いし邪魔です!」
「後ろに入んなかったんだからしょうがないだろ! いや持たせて悪いとは思ってるけど重くはなくないか? 中身ただの刀だぞ」
「ならもうそのまま素で持っちゃえばいいじゃないですか」
「どっかの姉貴みたいなこと言うなよ。捕まるわ」
「ただの刀って言っちゃってるんだからもう変わんないと思いますー!」
ぐぅ、とユユは額を押さえつつアキと睨みあう。前回の一件でちょっと見直したと思ったのも束の間、やっぱりノンデリだしぶっきらぼうだしで苦手だ、という結論に落ち着いた。恐らくあちらも似たようなもの。
──言い合えるようになったのは? まあ多少、変化かもしれないけれど。
そんな初遭遇から一か月は経っているのに変わらない色落ち金髪をかき上げ、アキが「そもそも」と鋭い目線を向けてくる。
「そっちが大荷物抱えてくるからトランクが埋まったんだろ。一週間も行かないのにでかいわ重いわ、持ったときビビったんだが」
「ユユのは必需品ですー。っていうか、せめて先輩が持っててくださいよこのケース」
「試したけど俺の筋肉と喧嘩したんだよ」
「どうでもいいがオレを挟んで喧嘩すんな。やかましィ」
真ん中に座る鼎から苦情が入る。
『神』のくせに左右からユユたちがやりあうたびじわじわと身を屈めていき、ついに膝に肘がついたところだった。顎に拳をつけて、見るからに鬱陶しそうに口をひん曲げている。見下ろしたその恰好にユユは思わず呟いた。
「すっごいコンパクト……」
「だァれのせいだと思ってんだ」
「皆さん、そろそろ到着です。準備をしておいてください」
「っす」
「はーい」
やむを得ない休戦状態となったアキとユユが同時に返事する。不機嫌継続中の鼎からはなし。
余談だが、運転席からかけられた景の声がまさに引率の先生じみていた。しかしそれをユユが思っても口にしなかった理由があり──。
「っはは! 幼稚園の遠足みたいだったねえ今の。先生も大変だ」
「あー、絶対煽られるって思った!」
助手席で肩を揺らしている君月が見え、ユユは天井を仰いだ。言葉を選ばずに言えば、うざい。
「無駄に反応すんなよ後輩。この人十倍で返してくるぞ」
「うーわ、アドバイスどもです」
「最近気づいたんだけど君らさ、僕を敵にしたときだけ仲良くなるよね」
「そんなことないでーす」
「マジでないっす」
「なァよお、オレの気持ちが分かったか? ニンゲン」
「うん、いいからそこで縮こまってなよ」
にやついて絡みにいった鼎に対し、振り向きもせず穏やかなトーンで吐き捨てられる辛辣さ。
また別の組み合わせで再び険悪になる車内に、何があっても笑顔を絶やさない景のため息が珍しくこだました。
「──本当にそろそろ着きますよ。それに、今回はどうやらお出迎えもあるようです」
景の言葉に、ユユは抱えているケースと前方の助手席を避けてどうにか見えないものかと限界まで窓の方に体を寄せた。
ぴたっと頬を付けた窓ガラスから冷たさが伝わる。「わ、ほんとだ」こぼした息でガラスが白く曇った。
カーブミラーの遠く向こう側、確かに大勢集まっているのが見える。『ようこそ理想郷へ』という垂れ幕や、手を大きく振っている人。
和気あいあいとした出迎えに対し、君月が皮肉げに失笑した。
「大歓迎って雰囲気だね。逆に怪しさがすごい」
「すぐ疑うなァ。職業病じゃねエのか」
「大事な心がけさ。──さて、復習だ。僕らは『自給自足の村』に興味があってここに来た。甘蔗くんと本郷くんが乗り合わせたのは、知り合いである僕らの目的地が偶然同じだと聞いたから。忘れちゃいないね?」
「ばっちしです」
「へえへェ」
「ようし。じゃ、到着だ──『理想』なんざ化け物に作れやしないこと、証明してあげようじゃないか」
君月が座席の間から後部座席を覗き、自信に溢れた横顔で啖呵を切る。
背もたれによって意外にも月に一回は染め直していそうな金髪部分が隠れると、少し年齢が下がったようにも見えるのが発見。
そして、その言葉を合図にしたように車が停止した。ウイーンという作動音とともに運転席の窓が下降していく。
「──ようこそお越しくださいました! どうぞ、短い間でしょうがゆっくりしていってください」
開いた窓の方へいの一番に歩み寄ってきた男性が張りのある声で出迎えた。一拍置いて、その後ろに控える老若男女が声をそろえて一斉に繰り返す。
誰もかれもが陽気に笑い、一年ぶりの来訪者を喜んでことほぐ。それは本当に「理想」の実現された世界の住人だからなのか。
信仰だけを欲する『神様』が人を幸せにすることなどあるのだろうか。
──しっかり見て判断しよう、次は赤の一つも入らない報告書を書き上げられるくらい。ユユはそう決めて、深呼吸した。
◆
「久野様、三名様と……甘蔗様、二名様ですね。伺っております。皆さん一緒のお車で来られてましたが、お知り合いでしょうか?」
「ああ。僕らもたまたまここの案内を目にしてね、彼女たちには足がないというから」
「それはそれは。何分不便な土地でして、わざわざご足労ありがとうございます」
代表らしい男性がかしこまって頭を下げる。先んじて車から降りた景が会釈し、
「椿原と言います。もしかして、こちらの代表を務めていらっしゃる方でしょうか?」
「ははは、いいえ!」男性はおかしそうに大笑した。
「まさかまさか、わたくしはただの『郷民』の一人ですよ。ここに我々の中での上下はありません。皆同じ、いち郷民です」
「平等で公平。まさに理想だね」
「ええ、まさに。──ここ『理想郷』で崇められるべきはただお一人。『白瀬』様です」
運転席まで身を乗り出して会話していた君月がようやく助手席から降りる。彼の指し込んだコメントに、郷民が深く同調した。心底幸せそうに限界まで細められた両目が、その対象への信仰心を物語る。
手伝いを申し出た村人と一緒にトランクから荷物を下ろしつつ、後方でアキが口を開いた。
「『白瀬』。そうだ、祭の名前と関係あるんすか」
「はい。『白瀬』さまあっての『理想郷』、そしてこのたびの『シラセ祭』ですから」
「なるほどっす。……あー、そのボックスはいいんで、そのままにしといてください。ただの水っす。そっちは──」
『シラセ祭』。村の一周年を記念した祭りだということ以外、『理想郷』のホームページを含めてどこを調べても載っていなかった。
アキが荷下ろしに戻っていったあと、郷民もそれ以上の説明はする気がないようでただにこやかに佇んでいる。
そんな光景を眺めながらユユも降りると、「お荷物お預かりしますよ」とやってきた女性がいた。正面に抱えているギターケースのことだろう。──まずい。
「あっ……と、せーみつなやつなので! 持っときます。大丈夫です!」
作り笑いでごまかしつつもユユはきっぱりと断った。「分かりました」と機嫌を損ねることもなく引き返していった女性に安堵。
車内ではああ言ったが、これに間違っても本物と認識されるほどの重さはない。ただ邪魔なだけ。
──あとで先輩に報告しようっと。
これはお礼を言ってもらわねばならないとユユは思った。
「ユユちゃん、バッグから出すものある? あとで背負っちゃう前に、ほら」
「あ、耳当てとマフラー! これだけ取らせて、両手ふさがってるけど、」
「俺が持っておきますよ。ありがとうございます」
自身のリュックを背負い、前面にユユのリュックを抱えるのは猫かぶりモードの鼎。
気配りの上手い景にも感謝しつつ、ありがたくチャックを開けて中のものを取らせてもらった。冬のツインテールの強みはマフラーに巻き込まれないところ。首と耳がもふもふに包まれる。
そうこうしているうちに、一仕事終えた感のある息をつくアキが横にやってきた。
移動の準備が整ったあと、別の郷民に案内されたのは村の中央にあるという集会所だった。
広々としたスペースに畳が敷き詰められており、靴を脱いで上がる。
「では、参加者の皆様が揃われましたら、『白瀬』様から挨拶がありますのでお席に座ってお待ちください」
はーい、という各々の返答を確認して郷民が戻っていく。次の参加者の迎えに行くのだろう。
ユユたちが到着した時点で、そこにはすでに十人程度、外部からの参加者と思われる人たちがいた。皆物珍しそうにあたりを見回したり、同行者らしき間で喋っていたりと思い思いのくつろぎ方をしている。
『理想郷』というのは世間に知られた名前ではある。アポをとるのも簡単だった。しかし一年間もの間、ここは立ち入り禁止の場所だったのだ。
──よく緊張しないなぁ。
角の方に固まった相談所の面々の中で、さらに端っこの座布団を確保したユユがひっそり思っていると、にわかに反対の頭上から影が差した。
「こんにちは。外から来られた方々ですよね。はじめまして」
談笑していた男性陣もそれを機に会話を止め、声がかけられた方へ目を向ける。
見上げた先には長い黒髪を一つにまとめた、はっとするような鮮烈な印象の女性がいた。
「はじめまして? そういうからには、君もかな」
「ええ。私、フリーライターをしております。梶とお呼びください」
そう言って名刺を差し出すスーツ姿の長身女性──梶に、「これはご丁寧に。頂戴いたします」と景が立ち上がる。彼が名乗りを終えて名刺を渡したあと、
「久野です。生憎名刺を切らしていてね、申し訳ない。せっかくだが後ろの彼らにも持ち合わせがないもので、一枚で十分だ」
横から君月が注釈を入れる。
「突然押しかけてしまってすみません」そう梶はにこりともせず、ただ鋭くも大きいアーモンド形の瞳を伏せることで謝意を示した。
自己紹介が続く間も彼女の表情筋は微動だにしない。──それなのに不快感を覚えないのは、綺麗だから?
人形のように整った相貌が崩れないのは、そう作られたからだ。
そんな与太話に近いことまでがユユの頭に思い浮かんだとき、ふいに脇腹に痛みを覚えた。「ぃ、ちょっとっ」
隣の鼎がこづいてきたのだ。何を考えているのか、本人はしれっとした顔で梶に質問をぶつけている。
「記者さんなんですね。ここにはやっぱり、『理想郷』の記事を書くために?」
「ええ。そして何より『シラセ祭』です。神の交代と継承をこの目で見れる機会など、そう多くはありませんから」
「『神』の交代すか?」
「あら、お知りになりませんでしたか」
驚いたように梶は口に手を当てた、かと思うと「確かに広く公開されている情報ではありませんでしたね」と一人で納得したふうに目を閉じた。
「もったいぶってないで聞かせてくれよ」と胡坐をかいたままの君月が梶に絡み、急かす。「僕らもここに興味があってやってきてるんだから」
「それはまたのちほど、詳しくお聞かせ願いたい話ですが……そうですね」考えるそぶりを見せたあと、梶はしゃがみ、口のそばに手で戸を作った。
内緒話が行われる気配を察知し、一番近いユユを中心にして全員が多少にじりよるのを待ってから。
「ここの神は襲名性なんですよ。年に一回の継承の儀式はこれまで『理想郷』内部のみで執り行われてきた。──新しい『白瀬』の生まれる瞬間が、もう間もなく。そそられるお話でしょう?」
蠱惑的に囁かれたのは、これまで聞いたことのない『神』の生態。
嘘か誠か、それこそ与太話のような空気感をともなう語りに、君月が「へえ」と笑みを含ませた。
「さすが、堂に入った紹介じゃないか。おかげで俄然楽しみになってきたよ」
「恐れ入ります。……さて、どうやらお時間のようですよ。残りはまたのちほど」
その小声を最後に梶は膝を伸ばすと、自分の席へ帰っていった。促されたこちら側もばらばらと、それぞれの座布団の上に戻る。
タイミングを同じくして、最奥のふすまがゆっくりと開かれていく。
気づいた参加者から順にざわめきが消えていき、静寂が訪れる間際。それが奥の暗がりから姿を現した瞬間、かわりにどよめきが上がった。
「……なに、あれ」
ユユが声を震わす。片手は自分の身体を抱きしめ、もう片方の手は無意識に、畳の上に置いたマフラーをつかんでいた。耐えきれないほどの悪寒を感じたのだ。
入口で出迎えにきた郷民とともに壇上に立ち、その隣に佇む人影。煌々としたシーリングライトに照らされる異形。それが『白瀬』なのだと、誰に言われずとも分かった。
手足は四本のみ。胴体の長さや首の太さ・長さも平均の範疇。線の細い身長と絹のような長髪からすると、恐らく女性。
見た目はただの人間のよう──そう断じるには、そこには異物が多すぎた。
まずその眼球には黒目しかない。塗りつぶされた黒いひし形が二つ並んでいる。
頭には四枚の薄くて平たい膜状の──翅だろうか。葉脈のような筋も見えた。それが月桂冠のようにぐるりと巻き付いている。
口から二本はみ出ているのは一見して牙かと思いきや、エアコンの風にそよそよ揺れている。それは櫛のような、細長い葉のような繊細な構造をした触覚だった。
体に纏っているのは、飾り気のない薄黄色の生成りのシャツ。異常な頭部と比較するとあまりにも普通で、逆に一番不気味さをかきたてるのがその服装だった。
継承、代替わり。襲名。梶の口にしたフレーズが、嫌な実感をともなって理解の下地となる。
「──人が、代々の『白瀬』になってきたんですね」
喧噪に紛れた景の発言は、きっと全会一致の代弁。
顔をしかめたユユがこっそり見回すと、周囲の表情は驚愕が五割、畏怖が四割。前方に座っている梶などは見えない。
君月は顎に手を当て興味深そうにしていて、アキは口をへの字に曲げたドン引きの顔。
そして鼎はと隣を見る。何も変わらないかと思いきや、眠そうな目がぱっちりと見開かれていた。
その不自然さに、まさかとユユは冗談めかして耳打ちする。
「……ねえ、もしかして知り合い?」
「あァ」
「え?」
「ありゃァ、知り合いだ」
まっすぐに壇上を見据える鼎は、さらりと小声でそう明かした。




