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裏街バケモノカルト  作者: 楢木野思案
三・丑三つ時のにせものたち
37/40

10 寅の刻の告白



 神宿では深夜三時になろうが人通りは絶えない。

 たとえばユユがゾンビに追われた路地のように、神宿から一歩出たところでは当然規則正しく夜になれば明かりを落として沈黙を守っている。

 しかし神宿に入ればそこは『眠れば死ぬ街』。出来上がった酔っ払いにキャッチ、スリらしく目付きをぎょろつかせる人間はもちろんいる。しかしそれらはむしろ少ない方だ。


 宗教勧誘のビラ配りもいれば、数珠やら水晶を学習机半分ほどの狭い机上に並べ、店先でじっと客を待ち構えている人だっている。

 聞いたことのあるようなお経を練り歩きながら唱える人に、見たこともないぐねぐねした踊りを披露している複数人の白装束。ろうそくを路上の白線沿いに置いて回る人に、その数メートル後ろに張り付く人がそれを拾っては都度ゴミ袋に入れていた。

 肝試しか修行(・・)の一環だろうか、あろうことか路上で瞑想にふけっている人にはさすがに「やめた方がいいですよ」と声を掛けそうになったユユだった。


「こっちで合ってます?」


「はい、方角は。甘蔗(あまつら)さんこそ、よくこんなに複雑な道を迷いなく……」


「夜はそんなにですけど、一応結構来るので? バイトでー」


 真佐人(まさと)に声を掛けつつ、『TRIAINA』に向かってユユは一直線に角を曲がり、迷路のような路地を選び抜けていく。走ると逆に危険なためあくまで早歩きだ。誰かとぶつかったりしたらそれはもう終わり。


 ふと、耳に録音らしき劣化した音声が飛び込んできた。道端にぽつんと置かれた拡声器からだ。近くに人はいない。聞こえてくるのはまるで逆再生のような言葉が形成される一歩手前の未完成集合体、この声は聞いていると赤と紫が瞼の内側をたどって下りてそれは蟲の──「わっ!!!!」

「うっわ!?」


 突然大きな声を出したユユに真佐人が飛びのく。「えっちょ」「走ります!」その腕を掴んでユユは駆け足になる。走ると危険だといったが、今だけは例外だ。

 人をすり抜け音が聞こえなくなったところで、ユユは大きく息を吐いた。


「はーっ。また来てたんだ、あとで報告しなきゃ」


「今のは!? 急に目の前が赤くなって、腕が脚で足が翅に──」


「あれは聞いちゃダメなやつです。『本物』が信者の人使って、たまに録音だけ置いてて……呼ぼうとしてくるって言ってました。あ、まだ人間以外の足の感じって残ってます?」


「ないですしてませんよ、怖いな!」


 ぺたぺた自分の足を触って確かめる真佐人にユユの頬がゆるむ。

 君月曰く、大半は無害なパフォーマンスらしい。『神』にとって人を寄せ集める一番の餌は自らのもつ超常の力。布教効果はあわよくばといった程度で、評価を得たい信者の信仰を高めるため、もしくは非難を受けても逆に結束は強まるため、それらが目的の大半なのだとか。

 ただしその一部には本物が紛れているというのが、神宿を歩くうえで最初に教わったことだ。


「そろそろ出口ですけど、あとは真っすぐで、クリーニング屋が見えたら右曲がって三つ目の路地を左で右、でしたっけ?」


 案内役を交代して、ユユはついていきながら聞く。

 神宿の出入り口は少ない。玉垣がある場所は容易には乗り越えていけず、注連縄(しめなわ)をくぐっていくしかないからだ。数少ない通り抜けポイントへの到着を予告すると、ユユはそこから先の道順を確認する。

 数秒待った。返事がない。


「えっと、平気です?」


 おそるおそる肩に伸ばしたユユの手が空を掻く。

「あ」目に飛び込んできたのは指先をすり抜け、倒れ込むように走りだした真佐人の背中。まるで、何かに操られているような。


 瞬間、吹き抜けた寒風に脳の血管が収縮する。頭が冷える。

 ──神宿の外に出ようとしている。

 青ざめた顔で、ユユは自分が何をしたのかを理解した。



 ◆



「──ぁ、かかった、景さんっ!」


『もしもし、甘蔗さんですか?』


「今っ、神宿の外にいるんですけど、真佐人さんが! 大変なんです!」


『大変? 何かあったんですか?』


「っ、急に走り出しちゃいました。なんか様子がおかしくて! 止まってって言ってもダメで!」


『甘蔗? すげえ息聞こえるんだけど、(はし)──』


「走ってるから! 今追いかけてるので!」


 アキの声が聞こえてきて、先輩もいるんだとユユは息を弾ませながら思う。(かなえ)は合流していないのだろうか。

 ユユは突然一目散に走りだした真佐人を追いかけて追跡中──というか、置いていかれないよう必死の食らいつき中。スマホを持つ手が揺れて落ちそうになり、全力で耳に押し付けた。


 ──ほんとユユ、ここに来てから走ってばっかだ。


 視界の端を色とりどりのネオンが掠めていく。数メートル保っての追跡劇に、たまに遭遇する通行人がなんだという顔をして振り返るが構っていられない。とうに町の境界線はくぐり抜けたから、これ以上のトラブルとの遭遇は気にせず走っていられる。

 けれどきっともう、一刻の猶予もない。


「今のとこ、車とか来てないからまだっなんとかなってます」


『分かりました。判断を仰ぎます』ユユの下手な説明が通じ、冷静な声に少し息を吐く。コール音が一回して、電話の向こうで誰かが電話に出た。


『──はい僕!』


『甘蔗さんからです。真佐人さんが神宿を抜けてしまいました。現在追尾中だそうです』


『はあ!?』


 会話に参戦してきた君月は声をひっくり返させた。電話越しの更に電話越し。不思議な状況、だとかはもうどうでもいい。


「ユユです、ごめんなさい勝手に外出て! なんかそうしなきゃって、ユユが連れてかなきゃいけないんだって急に思っちゃって、」


『謝罪はあとだ。唐突に振り切られたんだね?』


「そ、です。あとから、おかしくなってたって気づき、ました」


『おかしく……ミツキさん、人を事故に遭わせる力の正体! これじゃないっすか』


 はたと気づいたように叫んだアキに、ユユは相談所で話したことを思いだす。

 カナワ様のかける呪いの正体。事故という偶然を引き起こすのはできるものなのか、そういう議論だった。


『ハッキング、侵入、寄生──なんらかの媒体を経由していれば化け物でも神宿に入ることも可能。ハリガネムシみたいなものか! 逃げ出したのは『自殺』を阻止されかけたため、』


『つかやばいっすミツキさん、甘蔗も呪われかけたんすよ!』


『それで影響を受けたんですね』と景が納得している。そういえばこおりの話をしている余裕はなかったと思い返す。

 ──ユユがおかしかったのは呪いのせい。手に入れた免罪符をユユは他人事のような心地で聞いていた。

 ぜいぜいという呼吸音しか拾わなくなったスマホに、焦ったようにアキが口を近づける。


『……おい大丈夫か、』


「へーき、です、それより」


 追いすがる背広が遠ざかっていく。見失っちゃいけない。持久走もいいところだ。とっくにユユの肺は限界を超えている。

 ただ、それよりも彼を。


「たすっ──……とめて! くださ、い」


 息継ぎの頻度が加速して、乾燥した喉は不明瞭に掠れた声だけを吐き出している。自分の声も上手く聞き取れない。伝えたいことの半分も伝わらない気がしてくる。


『なん、いや分かった。事故を起こす前に止めよう。現在地を伝えてくれ!』


 僕は行けない、と呟く声が聞こえる。問われてはじめて、ユユは真佐人から視線を外して辺りを見渡した。

 ──正気だったときの真佐人は『TRIAINA』に向かっていたが、今は違うかもしれない。重要なのは今いる場所の手がかり。


 車道は右側にある一車線。どこにでもある深夜の市街地だ。

 神宿からはそう離れていないはずだが、色味は随分と抑えられている。町を浮かび上がらせるのはネオンよりもLEDの白光。繁華街といえどクリーンな方。


「は、はっ、ふ」


 店じまい後の看板はどれも光量が絞られていて、店名が読みとれないものもある。ユユの横を通り抜けていくのは順にスナック、バー、飲み屋、よく分からない店、店店──いや違う。分かる。全部。


 視界が開けたような感覚がする。見覚えありまくりの道を踏みしめて、ユユは今の今まで走っていたことに気づいた。


「……で、ば、まえ、いますっ!」


『で……? すまない、もう一回──』


『──ああ分かった。語呂悪ぃんだよ』


「は」ユユは息をこぼす。続いて、笑みがこぼれた。


 ──ほんっとうに失礼な感想だ、ユユの職場に対して。

 そのおかげで伝わったのだから、感謝してほしいまである。少なくともユユは語呂最悪でありがとうと言いたくなった。


『俺が行きます。ケイさん、甘蔗と連絡とるんでそっちのスマホくれますか』


『どうぞ。アキ、気を付けてください。甘蔗さんも』


「っは、がんば、ますっ」


 返す言葉でユユが気合いを入れる。スマホを景から受け取ったアキの、力強く地面を蹴り出した足音が聞こえてきた。



 ◆



 ──だいたいこの辺りで始業5分前ならギリギリセーフ。駆け込みダッシュにはなっても遅刻は免れるくらい。


 街並みから『Divine♡』までの距離を計算してみた。合流まであとどれくらいだろうと考える。耳に当てているスマホは沈黙していた。当然だ、多分お互い走ることしかしていない。

 追跡はもう何分に及んだか、しかしまだかろうじてユユは真佐人を見失っていなかった。──その姿がふっと、崩れるように消えるまでは。


「っえ」


 眉間中央に寄っていた皺がほどけ、ユユの目が見開かれる。

 何事かと混乱した足が一瞬もつれ、つんのめりかける。危ないと踏ん張ったことで視線が下に移り、そして気づく。


「ころん、だ──!?」


 つま先を小さな段差に引っかけたのか。ユユが目にしたのは正面からやや右にずれて、びたりと地に横倒しになった彼がゆっくりと片膝をついて起き上がったタイミング。


 不注意か。もしくは操られるまま一定のスピードで走り続けていたものの、やはりユユにもあったような限界が体にきていたのかもしれない。

 痛いはずだ。声一つ上げず何の反応も見せないさまはやはり何者かの意思あっての動き。

 けれど、それは同時に。


「チャンス……っ」


 真佐人が体勢を整える前に、ユユは飛び出した。速度を上げて急接近。

 そして、


「っかまえた! 大人しくっ、してて!」


 その腕にしがみついた。斜め上から腕だけでも押さえつけるように体重をかける。「──」真佐人は進行を阻害されてエラーを吐くロボットのように、ただただ前進を続けようとしている。

「あ」

 ふいにぴたりと攻防が止む。彼は──それ(・・)は自身がその場に縫い留められた原因に気づいた。視線がユユに向けられる。ぐるぐると黒目が、眼球が回り続けている。


 ぶわり、その口から煙が吐き出された。


「ぁ」


 何かがユユの前に現れる。上から徐々に形作られていくそれは確かに、黒い(・・)牛だった。

 闇夜なのだ、数少ない光源はユユの後ろにある。逆光どころか順光。なのに、その全身に影が差している。影法師に黒く塗りつぶされていて元の色や顔、各パーツの境目は一切分からない。


 分かるのはシルエットだけだ。

 ──牛。そう形容するしかなかったのだと、ユユは悟った。


 頭上でピンと天に突き立てられているのは指だった。ごつごつした関節があって、長い爪が見える。それが二本。ツノのジェスチャー。『鬼は外、福はうち』で人が鬼のふりをするときの、あれ。

 ぱたぱた可愛らしく動く耳は、指を揃えた手のひらだ。親指は折りたたまれていて、四本分。


 もぞもぞと、恐らくは鼻に当たる部分の指が蠢く。よく見ると歯も、上半身のどこかの臓器も揺らいでいる。生きている。

 何本もの手と指が集まってそれ(・・)を構成していることを理解した。


 煙は異形に下半身を付け足していく。身の丈はユユが見上げておつりがくるくらいの長身。

 二足歩行の脚があった。──人間だ。耳があるのに? 違う。あれは指だ。人の指があるから、人の足があってもおかしくない。


 それ(・・)の足の指が地面に着く。

 クラクションがユユの鼓膜をつんざいた。そこからはもう何も聞こえない。


 ──ああ、そういえば真佐人が倒れ込んだのは右側の、車道だった。


 ここまで一台も来なかったのに。ずるい、と思った。腕を離すという発想も浮かばないまま、迫るトラックを見つめる。ぶつかる、その寸前。


 反対の腕を掴まれた。遠ざかる白い極光。アスファルトで跳ねた衝撃が、ユユを抱きとめた何者かの身体でふんわりと緩和されて伝わってくる。


「──ユユ!」


 眠そうなまなじりを吊り上げた険しい顔の鼎が眼前にいる。黒いアスファルトに広がる白髪が絨毯のようだ。ユユの背中にぐるりと一周分回された腕が痛くて、密着した胸が苦しい。

 ユユは鼎と折り重なって歩道に倒れていた。「かな……」懐かしいにおいに掠れた声でユユがその名前を囁きかけた、瞬間に意識がはっきりと戻る。


「っじゃない! トラック! 真佐人さんっ、『牛』!」

「おい動くなバカ!」


 いつの間にか抱きすくめられていた鼎の腕から這って抜け出し、ユユが目をやったのは車道。人二人を轢きかけたトラックは走り去ったあとで、誰もいないことに安堵する。


 じゃあ、と左側を見ると体をくの字に折り曲げ、明らかに膝か何かを入れられた体勢で倒れている真佐人がいた。

 それに覆いかぶさろうとする『黒い牛』。

 ──その黒色の半透明を透かして白刃がひらめいたのもまた、ユユは目にした。


「先輩!」

「うぉおおおっ」


 アキの力の入った掛け声とともに刀が振り下ろされる。

『牛』はぶわりと威嚇するように膨らんだ。膨張した身体の指と指の間を刀身がすり抜け、起きた現象の気味の悪さにアキはドン引きした声を上げる。


「うっわこれ手じゃねえ!? なんだくそ、キメエ! 逃げんなッ」


 いつも背負っているギターケースはそこになく、鞘から抜かれた刀は持ち主の気合いに合わせて二度振るわれる。

 しかし同じことの繰り返し。嘲笑っているかのごとき『牛』にアキの焦りが見え始める。

 ──次、車が通ったらまた導かれる。否、呪いの正体が事故そのものではなく自殺に誘導することなら、きっとやりようはいくらでも。


 膠着を破ったのは黒塗りの影法師、どこに目があるかも分からない化け物。

 その()がぐりんと動き、指でできた双眸が何かを見据えたことが不思議と分かった。何を視たのか、その答えはすぐ。

「なんで」その常軌を逸したふるまいに、ユユの脳が理解を拒んだ。


「──真佐人! 嫌ぁあああああっ!!」


 遠くから場違いな、あまりにも場違いな絶叫が辺り一帯を震わせる。

 目を凝らすと、その女はそこにいた。誰よりも不幸ですといった崩れ落ち方をして。


 ──なんでいるのか、どうして自分が呪った相手を。あれだけ言っておいて。『嫌』って、何。


 きっとそれはアキも同じだったのだ。だからぱたりと手を止めてしまった。

 隙を見た『牛』は細い煙になり、高嶺祥子(たかね しょうこ)が叫んだ方へと向かう。

 狙いを切り替えたのだ。「クソッ」気を取り直し、出遅れたアキが走り出す。間に合わない。


「せんぱっ、アキ先輩! 止めて、止めさせて、死んじゃう!!」

「もう見ンな。諦めろ」


 必死に名前を呼ぶユユの、背後から伸びてきた手が両目を塞ぐ。身を起こした鼎だ。

 ──何、してるの。どきりとしたが、硬直が解けるとユユはその手を押しのけようと力を入れた。「っ」固い鼎の指をどうにかこじ開け、隙間から覗く。目にするのが悲惨な光景でないことをただ願って。


 アキは間に合っていなかった。足を止め、無言で立ち尽くしている。

 やだ、とユユは声を震わせて俯きかけた──その視線を奥にずらすまでは。


 うずくまる祥子の前に、立ちはだかった和装の女性。


「……いいとこだけ持ってくな」アキがぼやくのが聞こえた。

 彼女がもう刀を振るったあとだと分かるのは、振り抜いたあとの残心の姿勢をとっていたから。


 また『牛』は群体をばらけさせた。手応えのなさに彼女は首を傾げると、


「イワシかしら。……そう、呪った相手しか食べる気がないの。もっと貪欲であるべきよ」


 刀を持つ手首を回転させ、凪ぐというより切り刻んでいく。そのたびに『牛』は身をよじり、分裂を繰り返して形が崩れていく。


 ──ォオ。


 いつしか耐えかねたように、美曙(みあけ)の言葉に呼応したかのごとく口が開いた。

 牙も舌も滴り落ちる唾液も、すべてが指。大きく十指を広げた三本の手が美曙を頭から飲み込もうとする。


「バカだな。アイツ」


 それが間違いだということは、その女性──美曙を知るその場の誰もが理解していた。

 結末を見届けるまでもなく、鼎がユユを目隠ししていた腕を外し、アキが自身の刀を鞘に納める。ユユは身体から力が抜けて全身を地面にゆだねる。


 ──ォ、オ。


 美曙を飲み込むために実体を持ち、その結果すっぱりと斬り落とされた『牛』の首が、するすると塵のようにほどけて宙を舞った。



 ◆



 ふっと、頭を締め付けていた何かが去ったような気がする。いなくなって初めて、何かが頭の中にいたことを認識できたのだ。

 だからユユは、「……呪い、なくなったと思います」と襲来を退けた実感を言葉にして伝えた。


「そう。魂食の類だったんでしょう? どこに潜んでいるか探すのは難しくても、見つけちゃえばあっという間だものね。お疲れ様」


「普通あっという間じゃねえよ……」


「鍛錬なさい」


 刀を納めつつ、美曙はくすりと目尻をたわませながらも手厳しい評価を弟に投げた。アキはうげえと声に出して嫌がっている様子。

 ユユはまだ自身に半分乗っかったままだった鼎を引きはがし──「土が冷てェ」と苦情が聞こえてくる──起き上がった。


「美曙さん……と、あなたも、なんで」


「オレはこの女のとこォ行けって言われた」


「私はもともと、『TRIAINA』を一晩中張ってる予定だったの。ここ最近ずっとね。通りを二つ曲がったところにある悪徳ホスト宗教団体なんだけれど、ユユちゃん知ってる?」


「……知ってるっていうか、こんな近くにって感想です」


「あら知ってたの。ダメよ? あんな甲斐性ない男ばっかりの場所に行っちゃ」


「多分もっと危ない理由あるんじゃないかなーって思います。どっちにしても全然行きたくないですけど」


 通常通りズレた感想を流し、ひとまずユユの中で納得は得られた。

 美曙もとい、別件での警戒対象がたまたま付近にあったおかげで駆け付けるのが早かったのだろう。『牛』に操られた真佐人の目的地も変わらず『TRIAINA』だったのだ。


 ──あれ、そういえば真っ先に駆け付けて轢かれる寸前のユユを助けたやつがいたな、とユユは思い起こす。振り返った。

 該当者が目を逸らす。


「たっすけてくれてー? ありがとう~?」


「感謝してろ。見捨てでもしたら刀持ってるこの女が何するか分ッかんねーだろ、あァ制服汚れたじゃねエか白なのによ」


「ユユが洗濯してあげよっか!」


「乾燥までな。八時半からホームルーム。あと四時間」


「ちょ……っときつくない?」


「…………あれ、ここは……痛っ、え?」


 地べたからうめき声がして見ると、地べたに転がっていた真佐人が目を覚ましたところだった。

 なぜか体が二つ折りになっていることと、覚えのない腹の痛みに困惑しているようだ。ユユはもう一度振り返る。

 該当者は顔を背けた。


「一人捕まえンのに両手は使うだろ、となると残んのはよ、足だけじゃねエか」


「蹴っ飛ばしたんだ……歩道に」


 消極的な自白になんとも言えない顔をするユユ。とはいえ助け出してはしているのだ、難のある手段だったことは伏せよう。世の中には知らなくていいこともある。


「すみません、私はどうしてここにいるんでしょうか……記憶がなんだか繋がっていないようで」


「えっとまず、甘蔗ユユです。覚えてます、か?」


「はい。事務所で色々と教えていただいて、電話がかかってきて……母から、電話が」


 その単語が出た途端、おぼろげに記憶を辿っていた声がぴたりと止まる。頭と腹を押さえながら、彼は立ち上がって歩きだした。

 向かう先には座り込み、先ほどからずっと放心状態になっている祥子がいる。目の前で起きた襲撃と討伐に頭が追い付いていないのだろう。

「アキ?」ふと、美曙が声を上げた。


 足を引きずりながら祥子に近づいていく真佐人を大股歩きで追い越して、アキが祥子の胸ぐらを掴んだのだ。


「どういうつもりだったんだよ。アンタ」


「……えぇ?」


「自分のガキ殺そうとして、わざわざ俺らの邪魔しに飛び出してきてよ。何がしたいんだ、ふざけんな。『神サマ』使ってまで人を殺したいか!?」


 自身もしゃがんで祥子に目線を合わせつつも、力こぶができるほど強く衣服を持ち上げすごんでいる。ユユのいる位置からは見えないが、その三白眼が怒りに見開かれているだろうことは察しがついた。その一方で、


「なァ、オマエ。そこの、スーツの」


「……え? あ、はい」


「喋りてえか。あのクソババアと」


 足を止めた真佐人に、何を思ったか鼎が話しかけている。「え」と、聞かれたことに真佐人が再度困惑を示す。


「何か言いてェんなら言えよ。ただ、聞いてほしいンだったらやめとけ。ありゃ、そういうのが伝わんねエ手合いだぞ」


「…………。やめておきます」


 憑き物の落ちたような、諦めとはまた違うしんみりした首肯だった。


「ン」と鼎が頷いている。最初から最後まで全くの無表情を貫いていた彼女にどういう意図があったのか、ユユには分からないけれど。

「ユユも賛成」後ろにだけ聞こえるよう小さく呟いた、それが全てだった。


 その向こうでは往生際悪く、祥子がだんまりを続けている。アキが何度詰め寄ろうが目の一つも合わせない。

 アキが掴んだ胸ぐらを揺すると、まるで抜け殻か人形のように彼女の首がガクンガクンと揺れた。舌打ちが一つ落ちる。


「おい黙ってんじゃねえよ。この──」


「お姉さん、ちょっといいかしら」


 今にも爆発しそうなアキと祥子の間に、美曙が静かに割って入った。「んだよ姉貴」と不服をこぼすアキの胸元をそっと片手で押し──弾き出されるようにアキは後退した──身を屈めた美曙は祥子に向かって微笑む。


「こっち見て? つれないわ。……あなた、息子さんに死んでほしかったんじゃないでしょう」


 祥子の肩が跳ねた。反射的に見てしまった、そういう風に美曙と目線が合わさる。

 美しい微笑を携えた問いかけに祥子はかすかに頷いた。徐々に回数が増えていき、しまいにはこくこくと激しく首を縦に振る。


「そう……そうなの。ちょっと痛い目見りゃいいじゃんって、あたし……っ母親が大変なんだよ? 重いものは一緒に背負うーとかさ、憧れない? そうだよ、目の前で息子に死なれたいとかいっぺんも思ったことないから! ひどいあたしばっかり責めて、」


「じゃあ、自分を置いて幸せになってほしくなかった?」


「──」


 祥子が凍り付く。責任から逃れようとして傲慢な弁明を繰り広げた彼女は、それを美曙に打ち切られたことに理解が追い付かないようだ。

 ──彼女は死にたくなかった。死なせたくもなかった。けれど何よりも自分が死んだ後、息子が生き延びることに耐えられなかった。


 こみ上げるおかしさを押さえるように、口元を塞ぐ袖の下で美曙がくすっと笑った。


「黙るの? 被害者のフリが下手ね。『嫌』と叫ぶくらい、加害者にもなりきれない。向いてないわ。なのに、どうしてそこまで執着したのかしら」


 舞うように悪意なく美曙が刺すたび、祥子の顔が俯いていくのが見えた。

 答えなさいという無言の圧に、いやいやをするように頭を横に振る。ようやく重い口を開いた時には、ぐすぐすという子どもじみた嗚咽が声に混じっていた。


「あいっ……愛してたのぉ……」


 執着、嫉妬、所有欲の根本。

 丑の刻はとうに回った静けさの深まる夜、母親から息子に対する最底辺の告白がなされた。


「そう」答えを得た美曙は短く言ったきり、見切りをつけたように離れていく。

 祥子はただ泣きじゃくっている。


 鼎の言った通りだ。この人は自分に都合のいいこと以外、何も聞かない。被害者になりたがる。

 けれどそうやって何を言っても意味がないと、傷ついた側に諦めさせて終わりにするのが最良だとユユは思えなかった。


 ──せめて傷つけられた人の、呪いを解きたい。


「……しゅがたん?」


「こんばんは、祥子さん。愛をもらって愛をあげるフリするお仕事してます、しゅがぁです」


 祥子に近づく途中、ユユはさっき走って転んでぐちゃぐちゃになったツインテールを直すべく頭に手をかける。諦めて、思い切って髪ゴムを引き抜く。

 最後のファンサだ。

 髪を解いたその手を祥子に差し出す。黒いラメ入りの涙が、引きつってできた顔の皴に入り込んで反射する。歪みきっているのに、微かに見えた光に期待する顔。


 祥子は差し出されたユユの手を、取った。


「しゅがたん、あたしね、」


「誰かを平気で傷つける人に、その人を愛してるって言う資格はない。偽物の好きしか言わない私たちでも、分かることです」


「──ぅ」 


「解放してあげてください。……悪い宗教に騙されて、もう懲りたって言ってたじゃないですか。自分の力で一人でも幸せになれるって、まだ信じたいなら」


 腕を引いて立たせた祥子の身長はユユよりわずかに高い。彼女がユユの頭越しに後方を見やったのが分かった。

 そこには真佐人がいる。


「──好きに、いけば」祥子が一文字一文字噛みしめるように、ぼそりと呟いた。


 ユユの手を億劫そうに振り払う、その手は震えていた。よろめいた足は、自分で立つことを怖がっている。けれど地面をしっかりと捉えていた。


「母さん。好きに生きて、死んでくれ」


 晴れやかに言う真佐人の口から吐き出された息は、夜空に透けてもなお白かった。



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