6 してたってことに
「っつー、さっむ」
熱気も相まって設定以上に温度の上昇していた室内から一転、急激に襲いかかってきた真冬の夜の冷え込み具合に、暁國がダウンジャケットを体の中心まで引き寄せる。
『もうすぐ上がるので、ちょっと離れたとこで待っててもらえると助かります』と、あのあと接客に戻っていったユユからの言伝通り、暁國は鼎と二人、行きに寄ったショッピングモールに向かっていた。
「あれ、勧めたやつ。割と旨かったろ」
「んあ、あのカレーな。なんかガチな味したわ」
鼎と歩く道すがら──前情報から想像していた人物像よりはるかに世間話の応酬ができる相手だった──時間潰しに、とりとめのない会話を交わす。なぜか愉快そうにくつくつと笑う化け物は、外では体面を取り繕っているというユユからの言に反した様子を見せている。どうやら夜も更けてここまで人通りが少なくなれば、関係がなくなるようだった。
「で、どうだったよ。オレの幼馴染は」
自分よりずっと低い位置にある頭。にやりとほくそ笑む顔が見上げてくる。
事情は片方から、もといユユからしか聞いていなかったため、もう片側から見るとそういう認識なのかと思う心もありつつ、暁國の頭の中を占めるのはカフェ内でのあの出来事と、それに紐づいた印象だった。
「……確かに強かだったよ。つか、やられた」
暁國は目を瞑り、嘆息しつつそうこぼす。吐いたそばから冷やされて、白く凍えた息が霧散していく。言葉だけでは悔恨のぼやきにも聞こえるが、しかしそこにはむしろ、感心に近い響きがあった。
それにしたり顔をした鼎は、まるで労いのように生暖かい声音でもって、
「よく言やァ、さしずめボディーガードってとこだろ。ご苦労さん」
「へいへいどーも。今までもあったのかよ、ああいう──嫌がらせみたいなの」
「あー……最近だと思うぜ。オレに言わねーってこたァ、長くて三か月以内だ」
言われてもオレじゃどうにもできなかったがな、と妙に人間臭く両手をこすり合わせて暖を取りながら冷静に推察する鼎。
ユユが離れた途端に近づいてきた、とある一人のキャスト──彼女が語った内容は、姉のいる身ゆえ女社会に多少馴染みのある暁國からしても眉をひそめるものだった。
あることないこと──深くは知らないが、恐らくは『ない』寄りの内容を散々吹き込もうとしてきたために、暁國は彼女に軽く、釘を刺す目的で知り合いであることを匂わせた。
自他ともに認める厳つい外見──ただし暁國の方はそのうえで格好いいしモテるはずだと思っている──が利いたと見えたが、それ自体がユユの狙いだったと知ったのは、不服そうな顔をした件のメイドが渋々立ち去ってから。
分かりやすいイジメの現場に辟易して、暁國がふと目を向けた方向。こちらを見据えるツインテールの少女が会釈して、舌をちろりと出してみせるのを遠目に見たときだった。
昨日ユユが相談所を出ていく際、予告じみたものを口にしていった真相、ひいては今日の聞き込みを『Divine♡』に指定した意図にも察しがついた瞬間である。
「あいつは……甘蔗はその、なんなんだ?」
顔をしかめて暁國が放った問いは、言葉に詰まって結局曖昧な表現に収まった。
『バイト先で起こった、自分に対するイジメへの対処』。それが彼女が暁國を呼びつけた理由だということは、鼎の反応からしても間違いない。
説明もなしに、相談所で偶発的に引き合わされてから今日で三日目。
いかにも作られた風な『甘蔗ユユ』の外見と、過ごした中で判明したその内情との間には乖離があった。ただの未熟な年下かと思いきや、だ。何度か目撃した突飛な言動といい、この訳ありに訳ありを重ねて事情の多重構造と化している相談所にわざわざ飛び込んできただけある──と今の暁國は思っている。
──にしても、だ。
よく分からない。
初見でユユに『ない』と判断され、評価の上方修正・下方修正を挟みながら現在進行形で見定められている、などということは露知らず。彼は彼で、突然できた後輩への認識と接し方を考えあぐねていたのだ。
「普通にニンゲンだぜ。オレの知ってる限り」
「それはそうだろ。じゃなくて、」
「さてな。とにかく人も神も、上手く信じれねエんだとさ。言ってることとやってることがわやくちゃになんのは、本人もあんま理解してねエんだろ。──どこまで見せていいか、どう見せるべきか」
「──」
飄々と答えていたかと思いきや、眉尻を下げた鼎の表情が斜め下の視界に映る。どう返せばいいのか分からず、暁國は無言になった。
この灰髪の少女に対する印象も、現状では『よく分からない』止まり。ユユとは複雑な関係らしく、突っ込んで聞くのはためらわれたため、暁國からすると未だ不明点の多い存在だった。
──もっとも、『甘蔗自身に聞けば分かるはずだ』と暁國は思っているが、それは間違いである。正しくはユユも一部疑問を放置したまま、今の腐れ縁じみた状態に落ち着いており、仮に彼がその事実を聞いた場合さらに混乱するのは必至だった。
──正直、普通の友人同士に見える。
なんならこの『神』が彼女のことを語るとき、そこには微かに気遣いや、いっそ慈愛のようなものが混ざっている気がして、
「……アンタ、実際のとこ──」
「お疲れ様です。上がってきました。──まだ外いたんだ?」
後半は鼎に向けての発言。暁國が振り返ると、件の甘蔗ユユが小首をかしげて立っていた。いつの間にか暁國はショッピングモールまで辿り着いており、鼎と話し込んでいたのはその店先。そこで三者が合流した形だった。
先程までの会話の内容をおくびにも出さず、「あァ」と鼎が手を軽く上げ、
「安心しろ、大して待ってねえよ。今来たとこ」
「ユユ、別に『待った?』って聞いてないんだけど。わざとデートっぽくしてるでしょ。……あ、けど一応、おまたせしました」
漫才に似たものを感じさせるやり取り──やっぱり仲いいよなと暁國は思った──のあと、それを遠巻きに眺める暁國に気づいたユユがぺこりと殊勝に頭を下げる。
実際に待たされた実感はなかったため、「んや」と暁國は首を振る。しかしなぜか、顔を上げたユユと視線が合うことはなく、そのうえ妙に口ごもっている様子。
何かあったのか、暁國はしげしげとその様子を見つめて、そこではたと、先ほどから覚えていた違和感の正体に気づいた。
「そうだ。そういや甘蔗、髪ゴム切れた?」
「え? 切れてないですけど」
「え? いや、二つ結びやめてるから。気に入ってたんじゃねえの、あれ」
互いに首を傾け、妙な空気が生まれる。『なんか違う』という引っかかりの正体は彼女の頭にあった。見慣れたというより否が応でも記憶に残るツインテールではなく、ユユは腰上まで届く長さの黒髪をすとんと下ろしていたのだ。
ところがその指摘に納得したように見えたのもつかの間、心なしか暁國を見つめるユユの瞼が重くなっている。そこに「わざと下ろしてんだろ、ユユ」という鼎のけろりとした発言が差し込まれた。ユユは頷き、
「うん。そう。ストーカーとかいなくはない仕事ですし、ツインテやめるだけでバレなくなるんですよねー」
「ああ、へえ。……すま──」
「で、ありがとーございました。あの人になんか言ってくれたんですよね、正直困ってたので」
「……おん?」
そっけなくユユが言い放ったので、暁國は一度それを聞き逃した。数秒置いてから、確認のために鼎の顔をチラリと見やる。
当の鼎には糸のように細い目で笑いながら、どういう意図でか頷き返された。暁國がもう一度ユユの方に顔を戻すと、こちらは目線を逸らしたまま唇の先をほんの僅かに尖らせている。
そうしておおむね、この扱いづらい後輩の背景と意図を理解したところで、暁國はしみじみ言った。
「……なんかあれだ。ウチの所長が飛びつきそうな言い方」
「え、どこです?」
「『困ってた』。定番の誘い文句じゃんか」
認識は共通していたようで、そこそこに首を縦に振って理解を示しながらも、ユユはそれがどうしたというのか、という顔をしていた。
「要するに、俺もそこのバイトで一員だから。直で頼んでくれりゃ、こんくらい普通に手ぇ貸すよ。──それに今日の全部、経費なんだよな」
「……多分?」
なら何の問題もない、よし。とにんまり笑い、力強く立てた親指。
ユユは自信なさげに付け加えていたが、タダで飲み食いできる可能性というのは、常日頃カツカツな大学生にとっては何よりの付加価値であった。
深刻な言い回しにならないよう努めて、片手で頭を掻きながら『回りくどくしなくていい』とユユに向かって暗に伝えたあと。
──それに彼女がどういう反応を返しているのかなど、暁國は一切目を向けずに、
「俺はミツキさんとかケイさんみたいな、すげえ信念は持っちゃいない。んだから、中には気が乗らねえなって依頼もある。俺の中で、今回のはそれだ」
「そうだよなーって、昨日帰ってから思いました。頼んだ人が自分と同じくらいモチベあるっていうの、思い込みかなーって」
「だけどな──ん?」
「けどどうしても、祥子さんのことは、元々ユユが持ち込んだ依頼だし。頑張り、たいんです。だから今日はどっちもありがとうございましたで、残りはユユ……とこいつで頑張るので、大丈夫です。お疲れ様です」
指が空中で彷徨っていたり、目線は幾度となく上を向いていたりと、まるで事前に用意してきた言葉をそらんじているかのような。ただし、最後まで一度も留まることのない畳み掛けの論説だった。ぺこり、と言い終えてユユが頭を下げる。
その横で、鼎が唐突な指名に対し、「オレか?」とでも言いたげに人差し指を自分の顔に向けている。
一方で、頭に置いた手が髪の一部を逆立てた不格好な体勢のまま、暁國は完全に固まっていた。
口にしようと思っていた言葉は放たれることはなく、開きっぱなしで八重歯がうっすらと覗く口元に、代わりとして流れ込んだ冷たい冬の空気が口の中を刺して、乾かしていく。
──それは暁國の想定していたケースの中で、最も起こる可能性が低いと振り分けていたもので、同時に最も好ましくない展開だった。
「そ、うか」
「はい」
「俺の方がガキだった。ごめん」
あっさりとした謝罪。
それをユユは、「え、いいですよ?」と、これまたさっぱりと切り捨てた。人差し指を下唇に触れさせて、素知らぬ顔で小首をかしげる。
「どうせならってユユも利用しちゃいましたし、結果助かりましたし、最初はやる気ないんだ~って思いましたけど今は理解できてますよ?」
「やめろほんとそういう、俺の立場がなくなる」
「え~……じゃあもう少し思いっきり手伝ってくれたら嬉しいなー、なんて!」
「っし。バ先で気まずい方がもっと嫌だわ、やったるよ」
ガリガリと見栄も外聞も捨てて頭を掻き、暁國は提示された譲歩案に一も二もなく乗った。言い放たれた協力宣言に、ユユは一本の指だけ立てていた手のひらをパッと開き、瞬時に顔を明るく綻ばせる。
直前で耳にした、鼎曰く他人を信じることが下手だという少女に対し、頼るときは頼ればいいという旨の滅多にしない諭し方をしたはずだった。そのうえで──と。
いつの間に形勢が逆転したのかと、暁國は内心で舌を巻いた。
一息ついたあと、目に見えて肩の力を抜いたユユが「それと、」と文句をつける口調で再度話し出す。反対に暁國は身構えて、
「子どもっぽいとは思わなかったです。愛想悪いの、割と最初からですもん──先輩」
「あー」
愚痴とはまた違った内容だったので、暁國は構えを解いた。同時ににわかに想起されてきた、暁國視点でも山ほどある心当たりを、今度はこちらから生暖かい目で告げる。
「言っとくが、初手の話ならそっちもな」
「…………分かった直します。明日から」
「うん、まあなんでもいいけどさ」
含みのある長さの沈黙に加え、痛いところを突かれたといったユユの表情に、「やっぱお互い様じゃねえか」と言いたかったが押し留めた暁國だった。
と、そこで先ほどから一言も発していなかった鼎が、おもむろに両者の顔を見回して、
「んア、なんだ。仲直りってことでいいか?」
「──。喧嘩、してましたっけ」
「してたってことにするか?」
「えっ、……します?」
「んじゃそれで、よかったなァおめでとさん。寒ィから中入るか外歩くか、今決めてくれや」
心底どうでもいいといった風で投げやりに祝い、続けて同じく投げやりながら切実さを感じさせる二択の提示。話し込んでしまったのは事実であり申し訳なさもあるが、その間彼女が口を開かずじっと待っていたというもう一つの事実に気づき、暁國はつい苦笑いを浮かべた。
「帰るか。俺はこっちだけど、甘蔗と本郷は」
「なら多分、途中まで一緒です。だよね」
「おー」
どちらも市内住みだとは事前に聞いていたので「了解」と応じ、歩き出す。暁國が先導し、すぐ後ろにユユと鼎が並ぶ位置取りだ。
少し進んだところで、「──あ」とユユが声を上げたため、暁國は背後へと顔を向ける。そうして注目を集めたユユはそういえばと、思いだした風に、
「乙ちゃんからもらったあのアドレスですけど、どうします?」
紆余曲折を経て戻ってきた今日の本題、本命ともいえる収穫物の取り扱いについて、ようやく触れたのだった。
◆
現在相談所が請け負っている依頼のうち、君月たちが追っている方、ホストクラブに近い実態の宗教団体・『TRIAINA』。
ユユ自身が持ち込んだ方の依頼こと、呪い代行業者・『カナワ屋』の調査に行き詰まったすえの逆転の発想。自分たちで『TRIAINA』を先に調べ、持ち帰った結果を材料に、君月らに調査への協力を願い出るという案──その第一段階を、早々にクリアしたといえる。
一回目の聞き込みにして、入手できたのは関係者の連絡先という確実な成果だった。
「『ハル』つってたか。『TRIAINA』のキャスト、つまりこいつは釣る側の信者ってことになる」
前を歩く暁國が、スマートフォンに表示されているであろうSNSのアカウントをしげしげと眺めながら言う。「切られちゃったんですね、かわいそう」と、そのアカウントの持ち主を切り捨てる判断をした同僚の少女、乙に思いを馳せながらユユは呟いた。
「そういや甘蔗、あのメイドとはこう、普通に」
「ふつーに同僚です。ユユ、ちゃんと話す子くらいいますよ? ほら、今日先輩たちの会計してた子とか、『明日大事なイベントがある』って話しましたし。だから明日、急なんだけどシフト変わってーって言われました」
「いいように使われてるじゃねエか」
「いいもん、困ったときはお互い様。あと祥子さんが結構大声で話してたから、呪いのことも広まってるっぽくて。ユユのお客さんだから、それも結構聞かれたりしてた」
「あんまり広めていいものじゃなさそうだけどな」
「ぶっちゃけ、ユユも思います」
余談だがスマートフォンを開くための顔認証で、前髪が目にかかったりと色々あり、何度かやり直しさせられていた暁國につい笑いそうになったユユだった。なんでだよと彼はぼやいていたが、そのうち何回かは多分、目つきが悪かったからじゃないかとユユは思っている。
さて、問題はその取り扱いになってくるのだが。
「それで……メッセージとか、送ってみます?」
「甘蔗、やるか?」
「先輩、ユユは止めないので、どうぞ」
「どっちもやりたくねエってこった。ま、下手打ってバレりゃァ元も子もねえしな──特にユユ。やらかす自信あんだろ、やめとけ」
「分かってるもん無理だって! 知ってるし……!」
隣にいる鼎に、いやに柔らかいさも親切そうな口調で諭され、湧き出た恥の赴くままにユユが叫ぶ。深夜に差し掛かる時間帯なので、音量は控えめで。
前方から聞こえる乾いた笑い声は、どうやら似たような理由で遠慮したいらしい暁國の、情けなくも共感の表れだと思いたい。
そして彼は「本郷の言う通り、俺らじゃリスクしかないと思う」と総括し、
「だから、こっから先はミツキさんたちに任せる」
「異議なーし、です」
「うい」
パーにした手を高く挙げて、ユユは賛同の意を表した。先ほどユユをつついてきた鼎も異論はないようで、短く同意していた。
議論の余地のない全会一致を受け、暁國がスマホをしまいながら、
「ほんじゃまあ、俺が今日中に要点まとめて送っとくよ。まだケイさん起きてるだろうし」
「そこ、景さんなんですね。君月さんじゃなく」
「ケイさんのしか知らないからなあ。……あー、あと一応、姉貴のも」
景の担当業務は事務作業や依頼人とのやり取り、事前の下調べ──というか多岐に渡りすぎているようにユユからは見える──でありこういった、いわば本命の調査は君月の分野だと思っていたので微妙に拍子抜けだったのだ。
もっともユユの興味が向いたのはそれとは別部分、とある野次馬的な好奇心が頭をもたげており、
「そういえばユユ、聞きたかったんですけど。先輩普段、美曙さんとどんな話するんですか? 家の鍵忘れたから開けて~とか?」
「俺、一人暮らし。姉貴、実家。ない、そんなもん」
順番に都度、指を自身と明後日の方向に向けながらのやけに懇々とした説明を暁國から受け、あえなく抑えられたユユだった。
いわく、そういったほのぼのとした会話は全く理想に偏った発想であり、そもそも物理的に実現しないのだと。きょうだい関係に憧れのあるユユからすると、ひどく残念な話だったが。彼は随分と気だるそうに、
「てか普通にあんま喋んないしな。姉貴から連絡来るときってーと、『相談所の近くいるならあれ買ってこい』……買ってきなさい、とかだよ」
「え、めっちゃいいじゃないですか。仲いい」
「話聞いてるか?」
前を向いたままの彼に気取られない程度に、ユユは頭をふるふると振った。束ねていない髪が左右に揺れ、普段は存在しない首の後ろのぬくもりが一瞬だけ掻き消えてしまう。隙間から風が吹き抜ける感覚に身をすくめ、思わず息を飲んだのがか細い音となってこぼれていった。
「──あの人が誰かに連絡先渡してるの、そういや見たことないな」
「へー……知ってる?」
「オレが知ってたら怖ェだろ」
「だよね」
と、ダメ元で鼎に振ってみるが、案の定。
眉間にしわを寄せ、何を聞いているのかと心底訝しげな顔でまともぶった認識を口にする鼎に、ややうざったさを感じるユユだった。
◆
暁國の住む町はここから北に位置しているため、ほぼ直進となるユユと鼎とは数分前に分かれた。今のユユが住む家と、本郷家とは徒歩一分。なので大した距離ではないにもかかわらず、「送ってやろうか」と冷やかしのように言ってきた鼎に、ユユは無言でスタンガンを見せびらかした。きちんと常日頃から、カバンの一番取り出しやすいところに入れてあるのだ。
ちなみに先ほどから、スマホのライトで足元を照らして歩いている。雲が多いのか、今日は特に暗い。市街地のためぽつぽつと街灯は設置されており、最低限の視界は確保されているが、それでもなんとなく、だ。
──あのゾンビとの遭遇以来、ユユは夜道がめっぽう嫌いになってしまっている。
空を仰ぎながら、「新月が近いからかもな」と、その発端となった鼎が他人事のように言う。毎度毎度、神経を逆なでする発言ばかりの鼎と、ユユは呆れの感情で天を仰ぎ──と、視界に映った一筋だけの月に、「あ」と小さく声を上げた。
納得。想起。それと、少しのひらめきが舞い込んだのだ。
「ん、どうした」
「──トウテツ。月が偽物って話、覚えてる?」
返答のないユユを案じた、なんてことはないだろうが、声をかけてきた鼎にユユは問いかける。
それは、ユユが小学生の頃に流行ったとある噂話。
──例えば初対面の人と喋る必要のあるとき。多種多様に増え分岐した崇拝対象に配慮するのはもちろん、常識という言葉すら異なる可能性を視野に入れなくてはいけない。しかしそんな中でも、多くに共通する認識というものもまた、当たり前に存在している。
まずは『神は実在する』を代表に。『人は神々には敵わない』や、『実像があるのだからむやみに偶像を作るべきではない』だとか。主にはいわゆる前提となる言説が多く、噂話の類はやはりあくまで噂、全体にまで浸透しているものは滅多にない。
しかしごく稀に、大衆に受け入れられ、広まる話がある。その条件は単純明白で、『他の教えに相反しない』ことだ。それもできる限り、多くの教義に。
『月が偽物である』というのはまさに、そんな理由で流行り始めた言説だった。
曰く、本当の月はこの世で最も深い黒色をしていて、常時は闇に溶けている。
偽の月が消える新月の夜にのみ、それは姿を現す。
すなわち人類はとうに、真の月という存在の智慧すらも手放してしまったのだ──。
などという、いかにも眉唾な話。それも確か、いつの間にか廃れてしまった。
──そう、ユユの年齢的には古い記憶を辿りながら聞かせる間、鼎の顔が訝しむ表情から変わらなかったことに、ユユはひそかに安堵した。
「全部聞いても知らねェな。んなのあったか?」
「あったの。けど結局、だから何って話で。偽物でも本物でも、だから何なんだーってなって、終わりだったかな」
だから、そんな幼い思考によって嘘か誠か知れない話が一つ、単純な帰結を迎えたことを思い出して、ユユは照れくさそうにはにかんでみせたのだ。
鼎はなぜか虚を突かれたように目を瞬かせたあと、ふん、と口をすぼめてそっぽを向いていたが、理由など大してないだろうし、ユユの気にすることではないと思う。
そして残るのはただ、一応の確認だ。
「……ねえ。あなたが『かなちゃん』になったのって、六年……七年前なんだよね?」
「あァ? んあ」
口を生半可に開けたまま、煮え切らない反応が返ってくる。その次に「なんだ急に」と聞かれたので、「えっと、新年明けたから」と無茶な理由付けで返す。
案の定、「無理あるだろ」と呆れられた。笑ってごまかすとなぜだか生ぬるい空気が流れた気がして、けれど嫌いな感触はしなかったため、ユユはそれを噛みしめるようにうんうんと頷いた。
──先ほど聞いてしまったことと、それにより生じた疑念はやはり杞憂だったと、不規則に懸念を訴えてくる心臓に十分刻み付けるように。
ショッピングモール前での会話を、ユユは聞いていた。たまたまだが、鼎と暁國がユユについて喋っている部分を、恐らくは全部。バレないように本来より遅く着いたふりをして、聞いていない素振りで話に加わっていた。
『人も神も信じれねエんだと』と、その中で鼎は口にしていた。──そんなこと、ユユは伝えた覚えがないのに。
本物の鼎ではない、この『鼎』なら知らないはずのことを、それは気味の悪いほどに確信めいた口調で口にしていた。
「……あァ、分かった。丑の刻参りのことだろ」
「ううん、全然。違うけど。なんか関係あった?」
「呪いを掛けんのは新月の夜、書いてあったろ。だから月がどうとか、ンな眉唾話聞いてきたんじゃんじゃねェの」
「え、普通に忘れてた。そうだったっけ」
「はァ?」
もし、この鼎が何かまだ嘘をつき続けているのなら。その理由を突き止めたくて確認した。
ユユがこうなったのは、『偽物の月』の話が流行ったのと、ほぼ同時期のことだから。
──だけど、そっちは初耳っぽい反応だったから、きっと大丈夫。
「はァー」
「ため息大きい。……けどそっか、近いんだ」
言われてみると、確かにそんな記述が『カナワ屋』のホームページに書いてあったような気がしてきたユユだ。冬特有の天辺に位置する、消える寸前といった弓の月にどことなく予感を感じながら、ユユはライトをオフにしたスマートフォンで調べ、
「新月、明日だ」
「おお。近ェ」
思わず感嘆の声を上げた鼎とともに、顔を見合わせる。どちらからともなく、足が止まっていた。幸か不幸か見えないものの確かな期待に、ユユはごくりと唾をのむ。
行き詰まりを迎えたこちらにとって、それはこの流れを変えうるかもしれない絶好の機会。逸る気持ちを抑え、まずは可能性の検討、すなわちそれが実行可能な場所はあるのかどうか。
「……この近くに神社って残ってたっけ」
「……もう大分壊されてあんまし見ねェが、あるにはあるだろ。一つか二つ」
「……見た気、しなくもないかも。三軒坂のあたり」
特段意味はないが、ユユが声をひそめると鼎も乗ってきた。先ほどのやり取りで一度気の抜けたことが尾を引いているのか、やけに神妙な面持ちをする鼎だが、突っ込む余裕はない。ゆっくりと、スマホに視線を移す。
「──とりあえず、先輩に連絡しよ」
そう、今しがた別れたばかりの相手。
──信念の凝り固まったユユにとってはひどく難しい、信用しきってしまうかは未ださて置いていたままの。ガサツでチャラそう、愛想の悪く、けれど意外とやることはちゃんとやる。ユユの方があざとさの分、一枚上手な。きっと。
そんな、しち面倒くさく拗れた印象ごとひっくるめて『喧嘩』と題し、一括で仲直りした──『先輩』と呼ぶことに決めた男へ向け、通話ボタンを押したのだ。