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裏街バケモノカルト  作者: 楢木野思案
二・山奥のラスコーリニコフ
22/33

9 「勝ち」



「ひっ、」


 パキリ、踏みしめた枝が乾いた音を立てた。その音にすらユユはいちいちびくついて、もう一歩も歩きたくないような不安に襲われる。けれど足を止めるのも怖いから、頭を真っ暗にして歩き続けるしかない。


 ここに来てからからどれくらい経ったのだろう。見上げると葉の落ちた木々は空を隠すことなく隙間を多く空けていて、そこから見えるのは相も変わらず灰一色。日が暮れていないことだけは確かだが、それ以外に得られる情報はない。


「……も、やだぁ」


 もう二度と近づかないと誓った場所、そこに再び足を踏み入れることになってしまったユユが泣き言を漏らす。何の因果かなんて迂遠な言い方はしない。なぜならその元凶は今もすぐそこ、ユユの目の前をひょこひょこと歩いているから。


 何がなんだか訳が分からない。それがユユの偽らざる本音だった。


 ──頼れる方の大人はいなくなって、頼れるのか分からない大人は捕まって、残ったのはユユと、ユユたちを嵌めた張本人である少女の皮を被った人外だけ。

 その相手に半ば脅されるようにして、こうしてなぜか二()、異様さを放つ山を登っている。


「深く考えなくていィんだよ。楽しもうぜ」


 うっかり溢してしまったユユの弱音を聞きつけた灰髪の少女──かなえが肩越しにユユを見てけらけら笑う。「ハイキング」と言ったように山といえど平坦な道が続く道中、灰髪を揺らし、軽い足取りのセーラー服が踊るように翻る。


 ──着いていくのは、怖い。この場で一人になるのも、怖い。


 耳にこびりついた懺悔の強要が今もどこからか聞こえてくる気がして、いつまたあの合唱が響き渡るか気が気でない。幸いまだ何も異変は起こっていないが、楽観的にはなれなかった。

 かといってユユだけを連れた鼎の意図もさっぱり不明で、もしかしたら今からでも一人で走って逃げるのが正解なんじゃ、という考えもユユの脳を掠める。村人に見つからないように、というのが至難の業だろうけれど。


 例えば駐在なんかじゃない、大きい警察署に行って助けてもらう。全員。依頼のことは仕方がないので割り切ってもらって、こんな危なくてバカみたいな仕事、金輪際ユユも関わらなければいい。鼎のことも忘れて──だって、鼎はいないのだから。


「け、ど」


 それでも、捨てられない。ちょっとだけでも、居心地がいいと思ってしまった場所なのだ。


 露悪的に振舞う鼎の中に、秘めたる真意があるのかもなんて期待がユユにあるのか。否、かの本性が、君月(きみつき)の言うところの化け物であることはユユもとっくに分かっている。

 理解不能──けれどたった一つだけ、わずかに芽生えた違和感。それにユユは従うことにした。


 『置いて行かれる』のは嫌だと己の心が繰り返しユユに囁きかけるのも、きっとそれがユユの性分だから。

 どうしようも、ない。


「ねえ。かなちゃんの偽物」


「あァ、なんだ」


「何がしたいの。人間……()なら、なんでユユは生かすの。この村で、山で、何する気なの。全部、最初っから最後まで教えて。言って。……お願い」


 いつかの地下室の問答が思い出される。あのときも、ユユは勇気を振り絞って鼎を問い詰めて──予想だにしていなかった真相に打ちのめされて、終わった。終わってしまった。


「聞いてるだろ。あのニンゲンとの契約のせいで、オレは直接手ェ出せなくなってな」


 面倒くさそうな顔をした鼎が、足を止めてそう言う。待ち望んでいた回答は、まるで用意しておいた台本を読み上げているかのような一本調子で、


「あいつが死ねば話ァ別だ。オレはそれを、待つだけでいい」


 その醜悪に歪めた顔つきも、何と言うか取ってつけたようにユユには感じられて。


 あと一歩、あとほんの少しで、ユユの中で生まれかけの何かが埋まる。像を結ぶ。そんな予感がして、ユユは無意識のうちに片足を少し前に出していた。


「契約って何? 人に痛いことしちゃだめ、っていう、」


「ルールを作って押し付けるのが契約だ、互いにな。オレたちは人の信仰を食って生きている。ただの肉じゃ満たされねエ、信仰を宿した人の肉をな。そこを奴が、勝手に食うのはご法度っていうルールを作りやがった」


 勝手に食うに決まってんだろ。一度『神』扱いしたんだったら、食われようが何されようが受け入れンのが信仰で、献上だ。


 人の身かつ信仰を持たないユユには理解しがたい理屈を発揮して、心底不満げに鼎が軽く鼻を鳴らす。

 一つ前の発言と違い、今度の感情の表出に不純物は見られなくて──同時に鼎が心の底からそう思っていることの裏付けになるが、ともあれ嘘は言っていないとユユは確信して、


「なら、勝手じゃなきゃいいの?」


「あ?」


 これまでの言動からしても、鼎は食事目的以外で他人を害する意味はないと考えている、と捉えていいだろう。食の自由が叶わないことが、すなわち鼎が今回のことを起こすに至った不満の発端ならば、それなら。


「ふー──」


 長く長く、詰めていた息を吐く。


 最初はたまたま、鼎の『捕食』を目撃してしまったところから。失踪自体は鼎の意図するところではなかったようだが、当時は知る由もなかったユユは『本物』の安否を確認するべく必死になって探し回った。

 そして美曙みあけに助けられて、ユユは相談所の面々と出会うことになった。


 紆余曲折あってようやく会えた鼎に──鼎ではない、鼎に真実を告げられて、最初にユユが感じたのは疑いようのない絶望一色だった。そのあとは極限状況の中で──ゾンビを撃退したりと色々あって──なんだか変なスイッチが入ったのだと思う。喪失感は騙されたことに対する憤りに変わり、奮起したユユは鼎を名乗る何者かをぶっ飛ばすことを誓った。

 もっとも前述したように、その誓いも持続することなく一瞬で立ち消えてしまったのだが。


 思い出すと笑ってしまいそうになるほどの無茶、無謀。──無力。けれど多分、そういうものを肯定されたのだ。


「感謝、とかじゃないけど」


 あれ(・・)に慣れたいのなら、場所と経験なら貸そうと言われた。今この瞬間、鼎との対峙に至るまで、実際に与えられた時間は多分当初の想定より全然短くて、ちっとも足りていないが。


 ユユは変わらず可愛いだけ。力も頭も、足りないところばかり。

 けれど以前のただ鼎を怖がっていたときや、なんというか使命感に空回りしてしまったとき。鼎の行動を自分の都合のいいように捉えて鼎自身から目を背けていたときとも、今は違うということは胸を張って言える。


 何もかもがギリギリの状況が、却ってユユの頭を冷まさせた。鼎の答弁に垣間見えた、僅かな不自然さに気づいたのがその証拠。

 多分、やっと向き合えたのだ。まだ一方的なものだけれど、ようやく。


「──うん。なら、殺していいよ。ユユのこと」


 ここが勝負所。短い回想にこれまでの全てを詰め込んで、締めくくりに使ったのは端的な自分への鼓舞。

 ぎゅっと固めた握り拳に決意を強く握らせて、ユユは鼎をまっすぐに見据えながら、言った。



 ◆



 言ってしまった、たった今取り返しのつかないことをしたのだという実感からくる軽い虚脱感。

 は、と思わず短い吐息がこぼれたが、後悔はすぐに今しても何も変わらないという当たり前の帰結に収まると、ユユは再びきゅっと口を引き結んだ。


 そうして改めて視界に見とめた、鼎は初めて見る顔をしていた。普段の眠り目は、見ただけでそうと分かる程度には見開かれていて、 色の薄い唇はその間に僅かに隙間を生じさせていて──驚いている、のだろうか。


 取り繕うことも忘れたその表情はまるで人間のようで、それがユユには随分と奇妙に感じられた。


「怖い、っていうのが信じてる、っていうことになって。自分のことを信じてる人を、食べるのが……化け物なら」


 けれど膠着は一瞬。それ以上は感傷に浸ることなく、頭の中で組み立てた言葉を、その都度確かめるようにゆっくりと時間をかけて声に出していく。


 「化け物」と、ユユが鼎のことを呼んだのは初めてだった。否定は、なかった。


「私。あなたのこと、怖がってる」


 自分のことを名前で呼ぶのは、自己防衛の手段で、他者から見たユユという存在を一つに位置づけるための大事なファクターだ。普段は意図して着けたままの、その『可愛い』ための装飾をユユは自ら取り外す。


 怖い、というのは紛れもない本心。声が震えていないのが奇跡と思うほどに。胸に当てた拳の中には、きっと未だ消えない怖気も握りこまれていて、鼎から隠す役割を果たしているのだとユユは感じる。

 ゆえに──。


「多分、今……すっごくおいしいから」


 この瞬間だけは、『山』の横槍が入らないことを願う。冷たい空気を吸い込んで、いっぱいになったところで息を止めて、ユユは目を瞑った。

 一世一代の告白と、それに伴う自棄に近い誘い文句。返答は、未だ来ない。


 二人きりの冬の山を、無音だけが支配する。


 聞こえるのは自分の白い息遣いだけ。その状態で目を閉じていると、ふとここがまだ夢の続きなのではないかという錯覚に襲われる。地に足が着いていないような、妙な浮遊感に。

 気づけばいつからか温度も感じなくなっていて、ますます夢みたいだった。


 寒さよりも沈黙の方がずっとずっと体を刺すように痛くて、ただそれだけがユユを現実に引き戻していた。


「……っ」


 廃屋で見た光景を思い出す。もしもこのまま死ぬのなら、きっと丸呑みだ。──痛くないと、いい。


 十秒、二十秒。三十秒。


 本当はもっと短いかもしれない。落ち着けるわけもないユユの時間の数え方が、早まった心臓の鼓動に引っ張られた疑惑があるため。──けれどどちらにせよ、ユユにとっては十分すぎるほどの時間をかけ、そうして確信を得た彼女は静かに目を開けて、


「なんで、食べないの?」


 疑問符は可愛い飾り。その表情と声音は賭けに勝ったという確信に。否、安堵に満ちていた。


 鼎は何もしなかった、どころか僅かに顔をしかめ、無防備を晒したユユを苦い顔のまま黙って見つめている。

 言葉よりも雄弁に。それはユユと鼎の間に訪れた、一つの決着のかたちだった。


「……そういう理屈じゃねえ」


「そういう、理屈じゃないよ」


「言い方が違った。オレの言う勝手は、──あァ」


 横紙破りと言われればそうかもしれない。けれど仮に鼎の言うように「違った」として、ユユの黒瞳に揺らぎはない。それを理解してしまったという風に、鼎の口から独り言のような吐息が零された。

 そして、


「──あの女な。中身がなかった」


「え──」


 虚を突かれるのは、次はユユの方だった。一拍遅れて、ユユの頭がくるくると回りだす。

 きっと一番近いのは昨日聞いた話──『裁判』の犠牲者は頭の中身を取られる、という鮮烈にすぎる事実。パッと思いつくのはそのことについて鼎が何か知っているというものだったが、それが希望的観測、ユユの理想でしかないのを再三認識させられたところだったから。


「なかった、つゥか、使えなくなっていた」


 やはり、違う。

 独白を続ける鼎は何かをそこに幻視するような、遠くを見つめる目をしている。直近の話ではないとユユは察して──だとしたら、誰のことを。


 緊張が走る中、鼎の右の手がおもむろに持ち上がる。寒さによるものではなく常日頃から血の気の引いたような色をしたそれは、自身の腹に当てられたかと思うと一度か二度、小さくさするような動きをして、


「使えなかったから、オレが中身になってやった」


 一人語りを終え、鼎の灰瞳に再度ユユが映りこんだ気配。


 ──鼎が何を言いたいのか分かってしまって、徐々にその目を見開いていったユユの顔が。


「人の中身ってな、豚に似てンだ。大きさ、形、機能。潰れかけだと更に違いが分かんなくなってな」


「──」


なますたたき(・・・)ッつった方が分かるか。うつ伏せで、下から血が方々《ほうぼう》に広がっていって、肉の方はずっと見てると段々ぺったんこに萎んでいく。ひでエもんで、到底食えたもんじゃなかった」


 それが自分の見た本郷ほんごう鼎の死体、その有り様だった。

 そう、表情一つ変えずに鼎は言った。


「だから皮だけ借りた。人のつらして、一年、二年……はっ、気づかれもしねエんだから見ものだったなァ。ま、最後にしくじったが」


 自身とユユを同時に嘲笑するように、かすかに持ち上がった口の端。

 一方で立ちすくむのは、二の句が継げない、返す言葉が浮かばない、といった具合に遂に無言になってしまったユユで、


「──『本郷鼎』を使ったのはたまたま死体がそこにあったから。もういっぺん言うが、なんで死んだのかは知らねえ。身近なやつ(オマエ)に手ェ出さなかったのは疑われるし意味がねエと思ったから。オマエが何言おうが、今のオレがオマエを食らわねェのは契約があるから」


 息つく暇も与えず、追い詰める、追い立てるように言葉を継ぎ足していく鼎。「から」という言葉尻を徹底し、理由付けのてい(・・)で喋るが、それが釈明や弁明などではないことはユユにも伝わった。有無を言わせないその口調は抗論、もしくは強弁。


 ──そう、強弁だった。それで、ユユはこう思ったのだ。


「うん。……そうやって喋ってくれた方が分かりやすい」


 ──もう、何してもユユには効かないのにと。


「は、」


「あー、すっきりした。ずっと気持ち悪かったんだもん、すっごいユユのこと知ってる感じ出して、意味深なことばっか言って、何したいのか全然分かんないし、ほんとに分かんない……分かんないことばっかだったから」


 最終的に上手い言い方が見つからず詰まってしまったので、少しはにかんで、それ以外は晴れ晴れとした顔で。ユユはこれまでの溜まりに溜まった鬱憤を、正しい形でその相手に発露する。


 それを受ける鼎の、その表情は見事に呆気に取られたものに変わっていた。ユユが覚えたのは「そんな顔できるんだ」という月並みな感想で、それだけで胸がすくような心地だった。

 だから、一つ一つ解説してあげるのだ。その敗因を。


「一個目。難しい言葉使われても、ユユ、バカだから分かんない」


 ユユはすっぱり歯切れよく言い切った。ナマ()だのタタキだの、魚のことを言っていたのだろうか。なんとも不思議な話題展開だ──というのはいくらなんでも冗談として、鼎が何を言いたかったのかくらいユユとて分かっている。

 分かったうえで、無視した。


 ──無知が恐怖を生む、とその昔誰かが言った。

 無理解は恐れを生み、未知は常に底知れない深淵と隣り合わせ──ただしそれも、無知を無知のまま放棄する、開き直りという名の蛮行の前には無力となる。


「だからってなァ」


「それに、ずっと考えてたよ。かなちゃんが死んじゃったって聞いた時から、いつ、なんで、どうしてどこでどうやって、って」


 押されるまま、すっかり『まとも』に納まった反応を見せる鼎に。ユユは「だからもうそれ、二回目。後出し」と付け足して、自身が一枚上手だったことを誇るように口角を上げてみせた。少しだけの無理をして。


 ──あの日、『メリのめぐみ』の事件が一段落したあとの相談所で。どこで鼎を見つけたのか問われた際の、「道に落ちてた」というあるまじき回答からはそれが事故か、事件かという可能性に絞られた。そのうえで、あの子は誰かに恨まれるような子じゃなかったから、多分事故だとユユは断定した。


 車に轢かれたとか、高いところから落ちてしまっただとか。原因がどんなもので、現場はどれくらい凄惨だったのか。「ガワは人間のまま」と言うからには、修復不可能なほどバラバラにはなっていなかったのだろう。わざわざ手間暇かけて取り繕うような性格には見えない。


 ──綺麗なままでよかった。


 ──だけど、お葬式は行きたかった、なんて。


 そんな言葉に集約される手遅れの寂寥感を最後にして、弔いも割り切りも、ユユの中でとっくに終わっていたのだ。


 全然、当たり前に辛かったけれど。


「ユユを怖がらせたかったんなら、ここに連れてくることが目的だったって、そう言えばよかったんだよ」


 それが失敗だったのだと、一番に決め手となった事実を告げる。


「──じゃないと、ユユだけは逃がしたかったみたいに見えちゃう」


 契約が邪魔だったという本人の言に嘘がないとして。最初から裏切るつもりだったのもユユの直感だが多分、本当で。

 けれど再三のわざとらしい、まるでユユに怖がってもらうことを望むような言動は、怖がったところで食べられないという鼎の発言を信じるならば、間違いなくおかしいのだ。


 思えばここまで、奇妙に過ぎる言動の連続だった。そもそもこんな問答に付き合う道理が鼎にはない。

 面倒くさくなったら、ユユなんかこの場に置き去りにするだけでいいのだから。


「本当にそうしてやってもいいんだぜ? オマエ──」


「じゃあ分かった。さっきは言い方間違えたから、次がほんとでほんとの、最後の脅し」


 意趣返しのごとく少し前の鼎の発言をもじって、脅しという穏やかではない響きをそこに上乗せする。都合三度目、話の腰を折られた鼎がぐっと眉の皴を深くしたが、そんなことを気にする段階はとうに過ぎていた。


「──協力して。じゃなかったら、ユユは一人であの村に戻る」


 ユユを害さないという行動自体、本人の意志と無関係にそうなってしまうのだとしても。他者の介入があれば契約は楔にならないはずだという、この推測には大分自信があった。


 言いたいことはたった一つ、「邪魔なら、誰か別の人に殺させればいい」──今度こそ正真正銘、ユユの命を人質にした要求に、鼎は。

 人食いの、化け物は。



「──。────はァ」


 果せるかな、苦々しさを前面に押し出して息を吐いた鼎が、しぶしぶといった重さで首を縦に振り。

 それを見届けたユユが、今度こそゆるりと胸を撫で下ろす。


 相手は人には理解できない怪物で、けれど差異はあれど人と同じように独自の理屈と思考回路を持つナニカ。六年間にわたる欺瞞に惑わされず、見てくれの派手な威圧はこけおどしと見て判断材料に含めない。


 一言でいえば、それはようやくユユが鼎を化け物と認識したことを示していて。

 それが嘘と誤認に乗りかかったままのこの関係に終止符を打ち、ここから新たに始めるためのスタートラインだったのだと、誰に言われることもない自然な納得として、すとんとユユの胸に滑り落ちたのだ。



「あ、そうだ。来て。一回」


「あ?」


 こつん、と鼎の胸にユユの拳が軽く押し当てられる。ユユは腕を伸ばしたまま、俯いて鼎と視線を合わせようとしない。鼎はますます不思議なものを見る目で、


「……なんだ? これ」


「ユユの勝ち」


 ぶっ飛ばす、は無理だったけれど。そういう言い回しでもって、ユユはいつかの願いを昇華した。



 ◆



 話し合いの末、まずするべきことは明日に迫った儀式の阻止と決定。そしてもう一つ、それまで山からは出ないことになった。多対一より一対一の方がやりやすい、と鼎が語ったためだ。


「美曙さんに負けたときから思ってたんだけど、いばる割に結構弱いよね」


「オマエ程度なら一口な」


 などというやり取りもあったが、ユユの懸念点は言うまでもなく、『山』で見た怪現象──声と、目。あのときは知りえなかったが、山に立ち入った者が死んでいる話を聞いた後では不穏さも段違いで、


「一対一……いるんだ。やっぱり」


「気配がちィとな。今はねェが、万一来たら守ってやるよ」


「──」


「なんだ」


「……いい。後で聞く」


 ぴたりと動きの止まったユユだったが、鼎に怪訝そうにされてやおら首を横に振った。

 何ということはない。──随分事もなげに言うのだから、少しびっくりしただけだ。


「つか、ただの恐怖なんざ元から大した代替品にゃならねえんだよ。そんなウマく見られてねエと思うぜ。せいぜい非常食程度──」


「ちょ、っと待って」


 パーの形にした手を伸ばし、たらたらと未練たらしく喋っていた鼎に切迫した口調で制止を要求。聞き流せない一言が、あった気がした。


「今の、もう一回」


 なんだという顔をしながらも鼎が律儀に先述の発言を繰り返す中、ユユは考える。考える。


 ──曰く、村人に罪があればその旨を周知する神。

 ──曰く、人の脳をなくし、その罪に対して罰を与える神。

 ──曰く、そうして正常を保つこの村を守り続けている神。守るだけの、力を持つ神。


 ──曰く、遠い昔に山に封印されたままの神。


「おいしくないものばっかり、ずっと食べてて……それって」


 稗多ひえだ村は、神の振りまく恐怖によって支配されている。狭い共同体の内部で一人の罪を捏造し、悪人とした贄を神に捧げ、他者の罪を罰することで潔白を証明した多数派が生き残る。その繰り返し。


 その仕組みは、くだんの村人が言うところのクエビコ様とやらによって作られ、もちろんその理由は己に都合がいいからだとユユは思っていたのだが。


「あなた、から見て。できる?」


「──いや。不可能だ」


 その答えに、ユユは目の前が急に白く開けたような感覚を覚えた。

 ユユが言葉少なに鼎に問うたのは、村人の語る『クエビコ様』の所業、封印された状態でそんなことが可能なのかということ。それも、『非常食』しかない状況で。


 ──できない。それが本当だとしたら。


「ユユ。なァ」


「今、頑張って、考えてる……考えて、頭使ってるの。すっごく、」


「じゃ、耳と目だけ寄越せ。あれ見ろ」

「んわっ」


 慣れない作業に文字通り頭を抱えるユユの耳を、これまた言葉通りに鼎が引っ張る。「痛い痛い痛いねえ取れる」──騒ぐユユを無視して耳をつまんだままの鼎の非道と力強さに、改めてその尋常のなさを実感したユユだった。さすがに状況が仕様もなさすぎたが。


「いっ……口使って! 口で言って! トウテツ!」


「黙って見ろニンゲン。あれじゃねえか、祠っての」


「え?」


 そんな突拍子のない報告をされればさしものユユも言われた通り、鼎に指された方角を黙って見つめるしかない。

 眉根を寄せたしかめっ面、可愛い顔を普段なら絶対にしないほどに険しいものに変え、散々に目を凝らしたところで──よく気づいたなと思うくらい遠い場所に、確かに異物があるのが分かった。


 岩でできた物体だ。遠くからでも分かる凹凸を有しており、自然の産物とは思えない形、すなわち人工物で間違いない。表面を雪に覆われたその下からは緑が覗いていて、苔むしていることが分かる。

 それが、多分横倒しになっている。


 聞いた話では確か、『クエビコ様』は山中の祠に封じられている、の、では。


「……」


「……口使えよ」


「行って。先」


「はァー」


 しがみつくまではしないまでも、鼎の数センチ後ろにぴたりと張り付いたユユによる先行の指示。

 大げさに吐かれたため息は返答代わりだったようで、すると鼎は躊躇うことなく歩き出した。まるで怯むことのない足取りにユユは、えっはや、と漏らし、逆に置いて行かれそうになったことに焦りを覚えたのかその背を早足で追いかける。


 ──影が、そんな二人をじっと見ていた。



 ◆



 ──十二月の二十日。稗田村においていつからか『果ての二十日』と呼ばれていたこの日は、村にとって最も重要かつ、最もその到来を望まれない日で。間違いなく、最も忌むべき日だった。


 今日も、村の誰しもが朝が来なければいいと願いながら、同時にそんなことが起こりえないことを理解して目覚め、再び神によって保証された生を噛みしめて一日を終えるのだ。一人の犠牲の上に成り立つ、歪みきった生を。


 ──分かっている。自分たちは狂っていて、異常で、いつか村ごと消えてなくなるべき存在だ。


 彗星飛来。もしそんなことが実現したならば、それこそが神の救済だろう。外の誰にも知られることなく、ただ一体の超常に望まれた殺戮を繰り返すだけの村、その罪を哀れんだ神による救いの妙手。


 罪人の村に、罪人でない者はいない。

 暗黙の同族──同罪意識を下地にして、告発された者の罪の受容を前提とする『裁判』は成り立っている。──だから、部外者が罪人の立場、それも果ての二十日のための罪人(いけにえ)となるのはこの三十五年間でも初めてのことだったのだ。


「あ──」


 このときばかりは近づくことを許された山の麓、そこに集結した内の誰かが思わずといった口調で声を上げる。遠目にも目立つ、珍妙な二色の頭髪をした青年が台の上に引きずり出されるのが分かった。


 絞首台を思わせる、簡素だが高さのある木造の台。先ほど遠目にも分かると言ったが、むしろそのためのお立ち台ゆえに。

 縄はぶら下がっていないが、ここは刑場──『今回は助かった』側の村人に処刑執行の瞬間を見せつけ、罪には罰が課されるという明白な真理を再認識させるための場だ。


 青年は後ろ手に拘束され、膝をついた姿勢で首をうなだれている。その表情は窺い知れない。息をすることも憚られるような静寂が辺りを包む中、気づけば、誰からともなくその手を合わせていた。

 願うのは、やはり自分たちの神に。制度を内心では否定している者の取る行動としては矛盾しているようだが、そうではない。信じている──否、信じてしまうからこその残酷たる儀式であり、その被害者に対する祈りなのだ。


 願う。どうか、かの罪なき青年が少しでも痛みなく逝けるようにと。


「──クエビコ様、クエビコ様。罪人はここに。罪はここに。我らは咎なき宿業者、予見された罪は我らのものではなく、これが我らが果たすべき贖罪。──どうか、罪人に罰を。我らに、赦しを」


 稗田村の最初の罪人の系譜にして、自らが処刑人の立場に立つことで一族の罪を雪がんとする──丹羽清次郎にわ せいじろうが、神に向けた祝詞を唱える。


 真冬に川霧のような薄い靄がどこからともなく立ち込める、その光景をそこにいた誰もが幻視した。年に数度、しかし幾度となく見せられ、もはや飽くまで目に焼き付いた悪夢のような霧。山に封じられて実体を見せることの叶わない神の、出現の合図。


 それが辺り一帯を包んめば、その瞬間にでもあの掛けまくも畏き山の神が、降臨する──、



「……来ない」


 誰かがぽつりと呟いた。神も濃霧も、現れるどころか影も形も見当たらない。


 次第に状況を把握し始めた村人の間で、動揺が、ざわめきが伝染する。何が起こったのかと、まさか神が村の外部から来た贄を好まなかったのではないか、などと憶測が憶測を呼び、それを飛び越える勢いで更なる畏怖が蔓延していく。古い恐怖が、鮮烈で生々しい恐怖によって塗り替えられる。


 三十年超、神の存在し続けた村に起こった初めての異常。様々な予想が飛び交う中、しかし居並んだ顔はどれも同じもの。


 ──もしも、神に見捨てられたのなら。贖罪が、認められなかったのなら。


 導を失ったように怯える、その姿は例えるなら縋りついた手を引き剝がされた子どものよう。


 神がいなくなった、これで救われた、などと考えられるものか。

 支配される、締め付けられる、それしか生き方を知らない人々にとって、それは降って湧いた救済の予兆ではなく、ただただ村の存続を脅かすだけの純然たる異常事態。

 そしてその責任の所在を問う声は、義憤は、ただ一人へと向かう。──この村において幾度となく繰り返されてきた排他を条件とする他責が、初めて総意となった瞬間だった。


 ──ああ、罪だ、罪だ。これこそが裁かれるべき大罪、神の罰に相応しき罪。


 他者に向けられることしか知らない怒りは、今この事態に最も原因として考えられる者、すなわち壇上の罪人へと向かい──。


「──あー」


 あとはただ粛々と神に裁かれるだけの生贄。『何か』を引き起こした得体のしれない外来種。村に根差した業を代わりに背負う、背負わせるためだけの人柱が、ほくそ笑んで口を開けた。



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